
螺旋の宝珠
加藤康弘
紀元前のことである。
呪術、魔術、妖かし、そして自然崇拝などが人々を支配していたはるかな大昔・・・・その頃世界は、現世と魔界、秩序と混沌、光と闇とが渾然一体となって渦を巻き、螺旋の弧を描きながらその生成に向かい、そして激動していた。国々は魔人、魔王、呪術
師、魔導師などの「現世に在らざる者」が支配し、そして覇を競いあっていた。人々は為政者の儀式祭礼の生け贄に過ぎず、暗黒の支配にうち震えるのみであった。
その忌まわしき時代・・・呪われた宿命をもつ、二つの国が在った。
その国の名はダイハーンとイルハーン・・・。血に塗られた、双生児の如き二つの国の歴史と運命に、人々は翻弄される。
これはその二国の歴史と運命を象徴する、ある宝珠をめぐる物語・・・。
イルハーンの女王、ルナールの宮殿は岩山の洞窟のはるか地下深くにあった。
等間隔に壁に設けられた松明に照らし出された、宮殿へと続く地下通路は、まさに魔物の腑の中に迷いこんだかの如く、くねくねと続いていく。その先は闇。女王の側近の後につくムサカは本当にこの暗黒の果てに女王の宮殿があるのかと訝しんだ。
長身の男である。まだ若く、顔つきも身体も鋭く引き締まっていた。狼の如き眼光と手入れのないざんばら髪は、野生の荒々しさを印象づける。黒光りする鎖かたびらを身につけ、腰につるした剣に左手を添えながら油断なく通路を歩く動作には、猛獣のしなやかさ、そして律動美があった。
地下通路は天然の洞窟のようであった。が、ムサカは知っていた。この通路が数万人の奴隷・・・ダイハーンの戦争捕虜たちによって掘られたものであることを。イルハーンが隣国ダイハーンを侵略した四十年も前のことである。
鎖につながれた捕虜たちは、連日のように鞭打たれ、血に岩肌を染めながら、ノミや槌を振るい続けたという。奴隷たちの阿鼻叫喚が聞こえてくるようで、ムサカは思わず立ち止まりむき出しの黒い岩肌をみつめた。
「何をしている?」
側近が振り返った。その手には燭が握られている。燭の明かりに照らされたその先には巨大な青銅の扉が見えた。ムサカははっと息を飲む。つい今し方までその扉の存在には気づかなかったのだ。
「・・・・女王の間か?」
その巨大な扉の禍々しい装飾に、ムサカは慄然とするものを覚えた。
猿、鴉、豹、蛇などの獣が扉の縁に整然と配置され、一様に瞳のない目・・・白眼でこちらをにらんでいる。燭にほのかに照らされるその光景は、地獄よりよみがえる悪鬼の宴の伝説を彷彿とさせた。
「女王陛下が中でお待ちだ、はいれ」
側近は扉を押した。きしむ音が鳴り響き、その扉の向こうより妖気とも冷気ともつかぬただならぬ気配を感じて、ムサカは思わず後ずさった。
そこは巨大な空洞の間であった。むきだしの岩肌ははるか高い天井まで一様に壁面を覆い、燭や松明がいたるところで煌々と明かりを照らしている。そして扉から正面の玉座の階段まで、屈強な兵士が槍を立ててずらりと並んでいた。みな一様に青光りする青銅の鎖かたびらを羽織り、その頭は頭頂まで剃り上げている。そして女王の座する正面の玉座・・・。
その玉座の背後には巨大な鏡があった。そこは玉座・・・というよりむしろ祭壇のようでもある。その鏡の前に立つ白装束の巫女・・・巫女というべきであろうか?威厳あるその佇まいはしかし、怪しげな妖気をも漂わせていた。その青白い炎のような眼光がムサカを見下ろしている。
イルハーンの女王ルナールであった。
「ムサカか?先日の御前試合、見事であった。苦しゅうない、近うへ寄れ」
左右より兵士がムサカに近づく。ムサカは帯同していた剣をはずし、兵士に渡した。
ルナールは皮肉な笑みを浮かべた。
「妾には不要な用心じゃ。妾を現世の剣では殺せぬが故にな」
ムサカは玉座の前まで進みでて、その場で片膝をつきかしこまった。
「女王陛下には御機嫌うるわしゅう。このムサカめに御用の向きとは?」
ムサカが御前試合以外の場で女王に謁見するのは初めてである。ましてや宮殿でこれほど間近に接することなどめったなことではない。
「ムサカよ、御前試合はまことに見事であったぞ。おぬしほどの剣士、この国ではもはや並び立つものなどおるまい。そのおぬしの腕をみこんで、頼みがあるのじゃ」
女王の「頼み」とはすなわち命令を意味する。断ることなどできるものではない。
女王の目が妖しい光をたたえ、青白い炎の眼光が燃え上がった。
「ダイハーンにおもむき、ダイハーンの王、ウリュカを殺せ」
「・・・・」
ムサカは頭を垂れたまま、みじろきもしなかった。女王の命はムサカに死を意味していた。「暗殺者」として一国の王を葬れというのだ。
「あの竜王めは、けしからぬことにダイハーンの民を煽動し、イルハーンに対する憎しみを増大させておる」
そのことはムサカも知っていた。ダイハーンでは竜王を中心とする「竜の一族」による反イルハーン宣伝がさかんにおこなわれていた。それは竜王ウリュカが求めた戦後補償を女王ルナールが蹴ったためだといわれる。
「これ以上、竜王めをのさばらせてはならぬ。ムサカよ、おぬしの剣は、離れた間合いの相手をも切り裂く技があると聞く。その技をもってして竜王に近づき、あやつの息の根を止めてまいれ」
「・・・・」
ムサカは返事を返さぬ。頭を垂れたままみじろきすらしない。女王は苛立った。
「ムサカよ、なぜ何も言わぬ?」
ムサカは初めて顔をあげた。
「おそれながら女王陛下、竜王ウリュカは妖しのものと聞きおよびまする。現世の剣では斬れぬ存在かと・・・」
女王は呵々と笑った。
「それを慮ったか?懸念にはおよばぬ。許元、あれをもってまいれ」
女王が命じると一人の側近がうやうやしくさがり、やがて一振りの剣を女王の前に差し出した。女王はその剣をムサカの前に掲げた。
「・・・・?これは?」
「魔剣群雲じゃ。現世ならざるものを斬る力がある・・・あとで渡すゆえ、受け取るがよい」
あくまでこの場で渡す気はないらしい。ムサカは、やはり女王は用心ことだと密かに舌を巻いた。この剣は女王をすら斬る力があるのだ。それほどの力ある魔剣を譲り受け、もはや断る理由を無くしたムサカは腹を決めるしかない。
断れば反逆罪として地下牢に幽閉されかねない。待つのは女王の血の儀式の生け贄としてワニの池に放り込まれる、死の運命あるのみだ。
「このムサカ、つつしんでその命お引き受けいたしまする」
女王はニヤリと笑った。
「首尾よく成功したあかつきには、おぬしを将軍にとりたてようぞ」
そして踵を返し、玉座に深々と腰かける。
「奴隷剣士にすぎなかったおぬしに、ここまで目をかけた大恩、忘れるでないぞ」
ムサカはイルハーンで最も卑しい身分とされる階層の出身者であった。蔑まれ続ける場所からはい上がろうと故郷を捨て、必死で剣の技を磨いた。名の売れる剣士になろうと、何人もの雇い主の間を転々とした。幾試合もこなしながら、あまたの剣士を倒してのし上がってきた。女王の御前試合にも出場出来るようになり、そこで女王にもその実力を認められた。そしていまや、宮殿で女王に謁見できるほどの身分になったのだ。
今、彼にあらたな転機が訪れている。女王の命に失敗すればすなわち死。しかし成功すれば栄光の未来が待っている。
(卑しい身分に過ぎなかったこの俺が将軍とはな・・)
ムサカは心の内で密かに色めいた。己の内にある獣の如き野心が再び、鎌首をもたげるのを自覚する。女王はそんな彼の心の内を見透かすように、さも面白げな表情を浮かべ、玉座より睥睨している。
「女王陛下、お食事の時間でございまする」
側近の一人が大きな鉢のような容器をもって現れた。なにやら、血なまぐさいものが山のように盛られている。ムサカはそれは何かと目を凝らし、思わずその目を逸らした。
それは血にまみれ切断された人間の手足であった。頭部らしきものもある。男なのか女なのか、老いたものか、子どもなのか、鮮血に彩られその分別はまるでつかない。ムサカのような剛の者でなければ、それを見れば吐き気をもよおすであろう。
(女王の食事!?人肉ではないか?)
卑しい身分の奴隷が生け贄になったのであろうか?己の妖力を高めるため、女王ルナールが人肉を喰らうという噂は本当だったのだ。
衛兵たちが玉座の前を天幕で覆い、女王の姿がその向こうに消えた。人肉の鉢をもった側近の姿もその後に続く。
「今宵はアヌイのおなごの奴隷とエボシ族の赤子を用意いたしました」
天幕の向こうで側近の声が響いたかと思うと、宮殿内はただならぬ気配に覆われ始めた。
それは女王の放つ妖気に相違なかった。謁見している間でさえ、女王からはこの世のものならぬ雰囲気を感じていた。その妖気が天幕の向こうで増大しているのである。
ムサカは女王が人にあらざる者に変化していることを、はっきりと感じとっていた。
天幕の向こうから松明の明かりが女王の影を映し出した時、ムサカはそれが確信に変わった。その影は・・・・九つの尻尾を持つ不思議な生物であった。四つ足で耳が天井に伸びるようにとがり、口元も黒鴉のようにとがっている。犬のようでもあり、狼のようでもある。
やがてピチャピチャ・・・とすするような音がし始めた。影の生き物は明らかに鉢に口をつけている。女王のおぞましき晩餐が始まったのだ。
そしてムサカは見た。玉座の正面、高く掲げられた例の巨大な鏡に映し出された、女王ルナールの真の姿を・・・!
それは・・・白毛に覆われた巨大な狐の姿であった。ただの狐ではない。その尻からは九つの白い尻尾がフサフサと生え、口元から首にかけては、白い体毛を鮮血に染め上げ真っ赤であった。血のたぎる燃えるような赤い目は、飢えかつ喰らう猛獣のまさにそれであった。やがて女王は顔を上げ、この世のものならぬ恐ろしい声で叫んだ。
「血!血!血じゃあ!血を妾にもっとよこせ!人間!人間の血じゃあ!人間の血こそが妾の妖力を高めるのじゃ!ダイハーンの竜王よりも、チャイナルの皇帝よりも、そして・・・我が国を属国とあなどる、あの忌々しいペンダーゴンの魔王よりも妾は力をつけねばならんのじゃ!イルハーンを再びこの世界の盟主たらんとするためにな!そのためには血じゃ!血をもっとよこせ!」
そして再び人肉を貪り喰らう。ムサカはその場にいたたまれなくなった。
再び、女王の声が響いた。
「ムサカよ!いけ!いってダイハーンの竜王ウリュカの首をとってまいれ!それまでは再び祖国の土を踏むことは叶わぬこととこころえよ!あのかつての属国の王に身の程を思い知らせてやるのじゃ!」
側近の一人が目で「もういけ」と合図した。ムサカは玉座に向かってうやうやしく拝礼し、そして踵を返し足早に宮殿を後にする。
「いけ!いくのじゃムサカ!」
女王の不気味な叫び声だけが、宮殿の中をいつまでもこだまするかのようであった。
翌朝、ムサカはダイハーンに向かう貿易船に乗り込んだ。
このはるかな海原の果てにダイハーンの竜王がいる。その首を獲ることこそが、ムサカの輝かしい未来を約束している。己の腕一つでのし上がってきたこの男には、恐れなどみじんもなかった。今までほしいと思ったもの、そして障害を越えた先にあるもの・・・は命をかけて獲得してきた。そうして生きてきたのだ。これからもずっと、その生き方は変えないだろう。野心に燃える目で海をみつめながら、ムサカは腕を組み、その船上に悠然とたたずんでいた。
その日、ムサカは不可思議な怪異を、その海上に目撃することになる。
ムサカは船上に在り、黒くうねる海原をみつめている。
黒い雲が空を覆い、昼とも夜とも判別がつかない。ただ、海風だけは強く海上を吹き荒れ、ムサカの髪をなびかせてた。その見つめる先には怪異が起きようとしている。
それはまさに怪異であった。奇怪な姿の男が海上に現れ、宙を浮遊しているのだ。
黒い長衣を身にまとい、潮風にそれははためいていた。そしてフードからのぞくその顔は・・・髑髏であった。その眼底から底光りする、恐ろしい空洞の眼でムサカを睨んでいるのだ。あれは・・・死神なのか?
「貴様一体何者だ?船乗りを惑わす海魔か?名を名乗れ!さもなくば、この群雲の剣で斬りさくぞ!」
ムサカは叫んだ。吹き荒れる海風、なにするものぞとばかりの雄叫びであった。
「・・・・」
その髑髏の男は何も言わぬ。その場を微妙だにせず、ただ黒い海の上を浮遊しているだけである。やがて、男はおもむろに人差し指を立て、ゆっくりとした動作でそれを西のほうに差し向けていく。そしてこの世のものとも思えぬ恐ろしい声を響かせた。
(ナム・・グル・・)
そして忽然と髑髏の男の姿はかき消えた。
「ナムグル?ナムグルだと?」
そしてムサカの視界から、黒い海も暗黒の雲も消えた。吹きつける海風の感触と潮の匂いだけが残る。あれは白昼夢だったのだろうか?海洋にうごめく夢魔に魅入られたのであろうか?ナムグル・・・その言葉だけが妙に頭から離れない。
日はとうに暮れ、はるかな水平の彼方に陸地がみえる。無数の光が海蛍のように煌めいている。あれはダイハーンの港であろうか?噂に聞く、光の港湾都市カルファドは近い。
その港は漆黒の闇の中に無数の灯籠の光りが、星空のように煌めいていた。
船乗りの話では、これは海を荒らす、恐るべき海魔を寄りつかなくするためだという。また、外国の侵略を防ぐ役目もあるのだろうとムサカは思った。それを目の当たりにしたとき、彼はダイハーンの軍勢がこの港に結集し、篝火を無数に焚いているのかと色めきたったものだ。そしてこれはイルハーンへの出兵の為の軍勢ではないかとも・・・近年のダイハーンの情勢をみるにつけ、ムサカが思わず、そのような疑念をもったことは無理なからぬことであった。
それは荘厳な光景であった。段上に開かれた港町のすべての区画に、灯籠の煌めきが揺れ、街の家屋の明かりと相まって天河の如きを形成していた。港の海面にもその景色が映えそして揺らめき、はるか天空の星々の煌めきと重なり、三重の星界の様相を現出させていたのである。
ダイハーン最大の港湾都市カルファドの夜である。早朝、イルハーンのある港から交易船に乗り、この港に着いたのは夕刻のことであった。海を隔た両国の距離は意外にも近いものがある。
船が港の岸につく。ムサカは船より飛び降りた。彼はついにダイハーンの地に降り立ったのだ。
港を見渡すと、大小様々な貿易船、軍船などが岸に繋留されている。どの船も船上に篝火を焚き、見張りの水兵らしき人影がポツリポツリと見えた。しかしこの港の明るさであれば、篝火など必要はあるまいとも思われた。
(宿を探さねばなるまい)
ムサカは繁華街のほうへ向かい歩いた。家々の軒下にはどの家屋にも木組みの灯籠がつるされている。通り沿いには石造りの灯籠が等間隔に並んでいた。煌々と火か灯り、人々の行き交う街中を照らしている。
繁華街に入ると、通りには酒場や屋台が並び、人々の雑踏や酔っぱらいの叫び声、店先の客引きの声などが入り乱れ、喧噪となって賑わいをみせていた。屋台や酒場の店先には豚や鶏、イモリやウミヘビなどがつるされ、地面に置かれた木組みの生け簀の中を、肺魚や水タコ、巨大なナマコの一種などがうごめいていた。店内の奥、船乗りたちが酔っぱらい喧噪を繰り広げるその奥には、大小様々な酒の壺がおかれていた。客の「酒だ!酒もってこい!」の声で店主が杯でその壺からじかに汲みとり客に渡している。また、ある酒場では、踊り子が色彩豊かな衣装をまとい、楽器の音に合わせ舞を踊っていたりしていた。
カルファドの夜はこうして更けていくのである。
人混みをわけながら、しばらく歩くと前方に人だかりができていた。繁華街の灯籠の灯火に無数の人々の頭が照らされ、一つの輪になっている。そして物騒な怒鳴り声も聞こえてきた。
「やい!わっぱ!俺たちの屋台の前で魚の行商とはいい度胸じゃねえか」
「少し痛い目をみてもらわねえとな」
大人が数人がかりで魚売りの童を囲んでいるようだ。屋台の前で商売をしていたのが気にくわなかったらしい。
「やめろ!やめてくれ!」
童の悲鳴が囲みのなかから聞こえてくる。
「やめろだと?俺たちのシマで商いをしたお前が悪いんだ」
「そうだ!だからお仕置きだ!」
屈強そうな男たちである。むきだしの肩の筋肉が夜火に照らされ、その様は遙か南方の未開の狩猟民たちを彷彿とさせる。こんな大の男たちが童を囲んで今にも暴行を加えようとしているのだ。
やがて聞こえてくる、骨肉のぶつかり合う鈍い音・・・ムサカは関心なさげにその人だかりを避け、通り過ぎようとした。彼が立ち止まったのは童の叫び声が聞こえてきたあとのことである。
「あっちでもだめ、こっちでもだめ・・・」
童はむせび泣いていた。
「じゃあ・・・おらはどこで商売をやればいいんだよ!」
ムサカは立ち止まり踵を返した。そのまま何を思ったか、その人の輪のなかに入っていく。
輪の中央には十歳から十二歳くらいの年齢であろうか?大人たちに足蹴りにされて血と土埃にまみれた童がいた。顔は涙と鼻水に濡れてなお汚れがひどい。童のそばには魚の籠があり、大小無数の魚が散乱している。
「・・・・」
童を囲んで制裁を加えていた男たちの一人が拳を振り上げている。ムサカはその振り上げた拳をつかんだ。
「なんだ!あんたは!?」
ムサカは無造作にその腕をねじり上げた。たまらず男は悲鳴をあげる。
「いたたたた!」
男の仲間たちが驚いて、ムサカを囲みはじめる。
「おい、旅の人、その手を放しな。俺たちになにか文句でもあるのか?」
「いけすかねえ奴だな、いったいどこからきたんだ?」
「かまわねえ、こいつもやっちまえ」
その時、ムサカは・・・剣の柄をとったかと思うと、円を描くように魔剣群雲を一閃させた。一瞬の出来事である。男たちは惚けたようにムサカのその動作をみつめていた。
次の瞬間・・・男たちの下履きが一斉に落ちた。無数の褌があらわになり、男たちは悲鳴をあげる。
「うわあああ!」
「けっ、剣の使い手だあ!」
「にっ、逃げろ!」
下半身もあらわに男たちは這々の体で逃げ出した。
童は呆気にとられたようにムサカをみつめている。
「ふん!たわいのない奴らめ!」ムサカは毒づいた。そして童を一瞥すると「ふん!」と鼻を鳴らし、足早にその場を去ろうとする。
「待って!待ってくれよう!」
童は必死にムサカに追いつき、前におどりでると、そのまま土下座をした。そして汚れたその顔でムサカを見上げる。
「助けてくれてありがとう。おら、スヒョンというだ。あんた、凄い剣士だ。おらあ、あんなすごい剣の技はじめてみた。まるでカマイタチみたいにあんな・・・」
「どけ、小僧、礼などいらん。べつにお前を助けたくて助けたわけじゃない、あやつらが気にくわなかっただけだ」
ムサカは童を避けてまた、スタスタと歩き出す。
「待って!待ってくださいよう!」
童・・・スヒョンがまた、ムサカの前に立ちふさがり土下座をする。
「おらあ、強い剣士になるのが夢なんだ。あんたみたいな、あんな凄い剣の技ができる強い剣士になるのが夢なんだ・・・」
「・・・・」
「おらあ、こんなに売り物を台無しにしちまって・・・もうおらあ、親方の元には帰れねえ、だから・・・」
「・・・だからなんだ?」
ムサカは苛立った。こんな所で時間を費やす暇はない。早く今夜の宿を決めたいのだ。
スヒョンは頭をついた。
「おらを・・・弟子にしてください!」
ムサカは呆気にとられ、スヒョンを見下ろした。この異国の地で弟子をとるなど・・・冗談ではない。彼にはこの地で果たさねばならぬ使命あった。こんな童に構っている暇などないのだ。
「俺は弟子などとらん。ほかを当たるんだな」
そして再びスヒョンを避け、足早にその場を去る。スヒョンの悲鳴にも似た声が後ろからこだまする。
「ああっ!待って!後生ですから待ってくださいよう!師匠!」
俺は師匠ではない!勝手に師弟関係を結ぶな!・・・とムサカは怒鳴ろうとしたがやめた。今は宿を探すのが先決である。
カルファドの繁華街は、通りを奥に行けば行くほどに賑わい、そして活気づいていくようであった。後ろを振り向くとあの童・・・スヒョンがついてくるのが見える。
(あきらめの悪い奴だ)
人混みに紛れ、捲いたつもりであったが、やはりこの街の人間である。慣れている分、一筋縄ではいかないようだ。どうするか?思案にくれながらしばらく歩き続けていた時であった。
と、ムサカはある酒場の前で立ち止まった。
店内からは歌声が聞こえてくる。透き通るような澄んだ声・・・その声がムサカの足を止めた。酒場をのぞくと、一人の歌姫が、店の奥であでやかな衣装を身にまとい声を張り上げていた。不思議な声音のする歌であった。その声に引き込まれるように彼は思わず、店の中へ入っていき、空いた席に腰を下ろした。客のほとんどが手に杯を持ったまま、惚けたようにその歌に聞き入っている。
ダイハーン語を解するムサカには、それがどのような歌なのか理解できた。酒場の歌姫はふるさとを懐かしむ歌を歌っているのである。望郷の念をかりたてられるのであろうか?客のなかには、涙ぐむものさえいた。杯を放り出し、オイオイと泣き出す船乗りの姿もあった。ムサカは、己の胸にもこみ上げるものがあるのを自覚した。ふと、離れて十数年にもなる故郷の景色が頭をかすめる。ムサカは思わず、その念を振り払った。
(俺は故郷を捨てたのだ。何をいまさら・・・)
やがて歌が終わり、酒場は拍手と無数の口笛に包まれた。歌姫は衣装をひらりと広げ、四方に会釈をしている。
(美しい娘だな・・・)
衣装のあでやかさもある。白い陶器のような肌、そして結い上げ、後ろに流したつややかな黒髪・・・しかしムサカが歌姫を美しいと感じたのは、その瞳の強い輝きであった。
無数の星々の輝きがそのまま、両の眼に宿ったかのようである。歌に感極まった時、その瞳は銀河の輝きを増すのだ。
ムサカは歌姫をまっすぐにみつめた。
女もムサカの視線に気づいたのか、その強い瞳でみつめ返してくる。
ムサカはその輝きに胸を焼かれ、そして貫かれたかのような錯覚を起こした。
女はほほえみ、ムサカに会釈をした後、店の奥へ姿を消した。
給仕がムサカの席に来て、小皿に盛られた料理をいくつも置いた。そして注文を聞く。
「旅の剣士のかた、”仙女の憩い亭”へようこそいらっしゃいました。ご注文は何にいたしましょう?」
「蒸留酒をたのむ、あと魚を焼いてくれ。今晩の宿を決めてないのだが、部屋は空いているか?」
「はい、空いておりまする」
「ではここに泊めてくれ」
ムサカは給仕の手を握り、銀貨を一枚握らせた。
「あの歌姫・・・名はなんというのだ?」
「彼女の歌声をお聞きになりましたか?名はセルビアともうします。流れの旅の芸人だそうで、主人があの声に魅せられて、近頃雇ったものにございます」
「彼女の部屋に案内してくれぬか?」
「それは構いませんが・・・今すぐにでございますか?」
「今すぐだ。食事は後でもかまわん」
「しかし・・・彼女があなた様を受け入れるかどうか・・・」
「ぐずぐず言うな、報酬はもっとはずんでもよいから、とにかく案内せい」
「はあ・・・」
給仕は気の進まぬ様子であったが、ムサカがもう一枚銀貨を握らせると「では旅のお方、ついて参られよ」と表情を一変させ、歌姫の部屋の案内をかってでた。
酒場の二階が宿舎になっていた。その一番奥に歌姫の部屋があると給仕は言う。二階の廊下は薄暗く、給仕のもつ行燈のほのかな光だけが頼りであった。
その歌姫の部屋の格子戸からは明かりがもれている。
「セルビア、歌姫や。お前さんに会いたいというお客さまがおいでになっておる。早くここをあけておくれ」
中からは、しばらく返事がなかった。
給仕が再び声をかけると、澄んだ小川のような声が響き渡った。
「客人に伝えなさい。剣をそこに置き、獣の気を静めて、中にお入りなさいと」
ムサカは給仕と顔を見合わせた。
「わたしはこれで」給仕はうやうやしく頭を下げ、その場を去る。
歌姫はあざやかな色彩を放つ青の衣装を着てムサカを迎えた。
酒の入った白い陶器の壺を杯にかたむけ、彼に差し出す。その腰にまだ剣をさしたままの姿をみて彼女はうっそりとつぶやいた。
「剣を置くようにと申し上げたはず・・・」
「剣はわが命、むやみに放ることなどできようはずもない」
歌姫・・・セルビアは首からさげた丸い宝珠を手に持ち見つめている。
その光沢と不思議な色合いにまるで魅せられているかのようだ。
ムサカは杯をあおり、荒々しい声をあげた。
「こちらを向け、女!なぜ俺を招き入れたのだ?」
セルビアは宝珠から手を離し、かたわらにたてかけられた琴をよせた。そしてその銀河の輝きのような瞳をムサカに向ける。
「あなた様こそ、なぜわたしをたずねたのです?」
ムサカはそれには答えず、杯を彼女の前に差しだし、鋭い視線で女をみつめた。
「その瞳だ。その瞳が俺を誘った・・・」
彼は杯を放り出し、女の細腕をつかんだ。そして力ずくでその身体を寄せようとする。
「無体な!」
女は短く叫んだ。
ムサカは彼女の瞳をじっとみつめ、「お前がほしい」とつぶやいた。
「人を呼びますよ!」
「男を部屋に入れておきながら、なにをいまさら!」
ムサカはセルビアを押し倒そうと覆いかぶさった。その時、女の首に下がった何かを彼はつかみ、瞬間、彼は「あっ」と叫びセルビアを突き放した。
ムサカがつかんだのは、あの不思議な色をたたえる宝珠であった。
「それは・・・一体なんだ?」
セルビアは宝珠をかばうように身をよじらせ、椅子に身をあずけている。そしてその星夜の瞳を再びムサカに向けたずねた。
「何が見えたのですか?」
ムサカは放心したように床に手をつき、その一点を見つめている。脳裏に焼きついたものを反芻するように、今一度思い起こしているようである。
「・・・小川だ。澄んだ水の色、タガメが泳ぎ、小魚が戯れていた。せせらぎも聞こえた。緑の草が生い茂り、色とりどりの花が咲き乱れ・・・蝶が舞い、遠くには雪を頂きに残す連山の峰・・・棚田は青空を映し、あぜ道を童が駈けてゆく・・・そして俺の名を呼ぶ声・・・振り返るとそれは・・・」
「それは・・・誰だったのですか?」
「おふくろだった」
「・・・・」
「間違いない、あれは俺の故郷・・・あの風景を、もう二度と目にすることはあるまいと思っておった」
「あなたの故郷は、とても美しい所なのですね?」
「ああ、美しい所だった、しかし俺は故郷が嫌いだった」
「なぜ?」
「最も卑しい身分の村だったからだ。与えられる仕事といえば家畜の屍殺、限られた場所にしか作物を植えることができん。近隣の村人からいつも蔑まれるような村だった」
「・・・あなたは異国の方ですね?」
ムサカは笑った。
「ダイハーンには、そのような身分の者が住む村などありえぬか?」
彼は立ち上がり、杯を拾うとそれに再び酒をなみなみと満たす。そして女の様子をじっとみつめた。
セルビアは宝珠をみつめている。宝珠は、部屋の行燈の光りに照らされ、赤く光り青く光り、螺旋の渦を巻いているかのようであった。
「いかにも俺はダイハーンの人間ではない。イルハーン人だ」
「イルハーンのかた?」
女がわずかに表情を曇らせた。
「イルハーンが嫌いか?」
「ダイハーンの人間でイルハーンが嫌いでないものなどおりませぬ。わたしの村などは祖父の代にイルハーンの代官にひどい仕打ちをうけたそうです。男は本国に連れていかれ、苦役にだされました。年貢のとりたても厳しく、しぼるだけしぼられたといいます」
「そのうえ、男は乱暴をはたらくわ・・・か?」
ムサカは呵々と笑った。
「イルハーンの男はみな、けだものよ」
「・・・けだものに美しき故郷の景色など見えましょうか?」
そうつぶやいて、静かにムサカを見返すその女の目は、優しさと親しみに満ちていた。
「その宝珠は一体なんだ?」
「この宝珠はわたしがチャイナルを旅していた頃、ある老占い師からゆずり受けました。”螺旋の宝珠”といい、人の心の深淵を呼び覚ます力があると言い伝えられます。闇と光の両面を・・・あなたが見たのは心の光り、どれほどあなたが否定しようとも、あなたは故郷を心の拠り所にしているのです」
「心の光りか・・・この俺にそのようなものが残っていようとはな」
ムサカは自らをあざけるように笑った。
「俺の心の内など闇ばかりと思っておったぞ」
「・・・無粋なおかた。まるでわたくしの父のよう」
セルビアは眼を伏せた。
「心の闇も映しましょう、しかしこれには人を闇に捉える力はありません。闇をおのれの力の根源とするものならいざ知らず・・・例えば竜王ウリュカ、狐の女王ルナールなど・・・」
「現世に在らざる者たちか。為政者どもなど、心を闇に巣食われておる者ばかりよ」
ムサカはおのれが、その現世在らざる為政者より使わされた刺客であることなど、おくびにもださない。セルビアのみつめるその不思議な宝珠は、その真実を映し出す力は秘められているのであろうか?
「少なくともあなたさまの心は闇に巣食われてなどおりませぬ・・・ただ、何かを恐れ、閉ざしておられるだけ」
「俺は何も恐れてはおらん」
「恐れておりまする」
セルビアはその星空の輝く瞳を再びムサカに向け、覗くようにみつめた。
「それが証拠に、わたしと目を合わせた時のあなたさまの瞳・・・まるで子どものように怯えておりまする」
薄闇のなか、宝珠は月の光に照らされ、螺旋の如く複雑な輝きを放っていた。
寝台に身を横たえたムサカの腕の中で、セルビアが宝珠を上に向け、その月光にかざしているのだ。宝珠はこの女の心に何を映しているのであろうか?
「何がみえる?」
ムサカはうっそりとつぶやくように女に問うた。
「あなたさまが見たものと同じものです」
宝珠をみつめる彼女の表情は、懐かしさとそしてどこか悲哀に満ちている。
「お前の故郷か?」
「はい、わたしの故郷も美しき村でした」
「お前の歌ったあの歌・・・お前の故郷の歌か?」
「はい、わたしがあの歌を歌うのも望郷の思いゆえ・・・」
「俺に抱かれたのも、俺の故郷への思いに、おのれを重ねたがゆえか?」
「・・・それもありましょう」
セルビアは宝珠を握る手をムサカに差し出した。
「わたしの手を握り目を閉じてください。わたしの故郷をごらんになれまする」
ムサカは言われるがままに、宝珠を握る女の手にその手を添えた。
「おお、確かに見える。山里じゃな。桜が咲いておる、花びらが風にふぶき、まるで雪のようだ。リスが枝葉の隙間から顔を出し、野をウサギが跳ねておる。水田がはるかに広がり、農民が田楽を奏でながら田植えをしておる」
「太鼓の音が聞こえましょう、その音にあわせ歌う者の、天高くはりあげる声も」
「歌い手は手をふっておるな・・・あれはお前の父君か?」
「・・・はい、父にございまする」
セルビアはやや悲しげに目を伏せた。ムサカは静かに女をみつめる。
「俺はお前の父君に似ておるというが、まことか?」
セルビアは再び顔を上げ、そのまばゆい視線を返してくる。彼女はその問いには答えず、ただ、「フフッ」と笑った。そして宝珠を今度はムサカの手に握らせた。
「ムサカさま、今度はあなたの故郷が見とうございます」
ムサカは笑った。
「よかろう、こうして目を閉じればよいか?」
ムサカの脳裏に在りし日の光景がまざまざとよみがえる。小川のせせらぎ、あぜ道に咲く色彩豊かな花々、空映ゆる美しき棚田、蝶が舞い、雪を頂く連山の峰・・・ふと、セルビアの様子はと見れば、彼女は無邪気に笑いムサカの肩にその頬をよせた。
「ムサカさまの故郷の景色は、わが故郷にも似て、大変美しき所にざいます」
セルビアのその微笑みを見たムサカは、ふと表情に奇妙な寂しさを覚えた。そして彼女に対するある疑念を口にする。
「おぬし、望郷の思いありながら、なにゆえ故郷に帰らぬ?」
セルビアの瞳に光るものがたまり、その銀河の輝きが増した。
「ムサカさま、わたしはある罪をおかし故郷を逐われた者です。わたしには帰る場所などございません」
「罪をおかした?」
「・・・・」
「深く詮索する気はないが・・・一体、どのような罪をおかしたというのだ?」
セルビアはムサカの肩の下で目を伏せていた。その瞳の星の輝きが止んだ。
「父が病に伏せた時、わたしは村の神木に実る”ヤククワイル”を採り、父に食べさせました。しかし、それは村の掟で決して採ってはならない実・・・父は元気になりましたがわたしはその咎で村を逐われ、父は神木の実を食べた罪で田植えを禁じられてしまいました。わたしが憂うのはいつも父のこと・・・さりとて故郷に帰ることは許されず、こうして宝珠を抱き、郷里を想い、旅先で歌い続けるだけの日々・・・」
セルビアの両の目から光るものが糸を引くようにあふれ、それが頬を伝う。
ムサカの胸に激情があふれ、思わず女を抱き寄せた。その肌の温もりと、深い悲しみの青くさめざめとした感触がムサカの胸にあった。
「不憫な女よ、俺など、その気になればいつでも故郷に帰れるものを・・・」
ムサカは宝珠を握る女の手を両の手で包み込み、その額に頬をよせた。
「山の桜、跳ねる兎、はるかに広がる水田、そして田楽・・・わが郷里のように懐かしい・・・俺はふるさとの地など二度とは踏むまいと誓ってきたが、おぬしさえよければ、おぬしをイルハーンのわが故郷に連れていっても構わぬぞ」
セルビアは顔を上げた。
「・・・まことにございますか?」
ムサカもその星空の瞳をみつめている。月明かりに泉の色のような涙が輝き、その瞳はよりいっそう神秘をましてはいたが、ムサカには、女がいみじくもいった”恐れ”はもはやなかった。
「俺のものになれ、セルビア」
セルビアは再び、顔を伏せた。そして一言、「うれしゅうございます」と言った。
彼女の身体がこきざみに震えている。その黒髪に覆われた小さな頭がムサカの胸にゆるやかに落ちた。その頬のやわらかな感触と涙の温もりが直に伝わってくる。
「うれしゅうございます、ムサカさま。そんなことを言ってくださったのは、あなたさまがはじめて・・・あなたさまさえよろしければ、こんなわたしをあなたの故郷につれていってくださりませ」
セルビアの甘美な声が、羽毛の微妙さでムサカの心をなであげる。それにこたえるかのように彼は女の黒髪をゆるやかに愛撫しづづけた。
女はまた、顔をあげムサカをみつめる。
「ムサカさま・・・聞いてもよろしゅうございますか?ムサカさまはなにゆえ、このダイハーンにいらしたのですか?」
「知りたいか?」
ムサカは寝台にたてかけた剣をたぐり寄せた。そして「これよ」と言ってニヤリと笑う。
「剣術の試合があってな、ダイハーンの首都ソグルに行かねばならん。必ず勝つ。そしてお前を迎えにくる!」
そしてスラリとその剣を鞘から抜く。群雲の青く輝く刀身があらわになった。
すると・・・ムサカの肩に頬をよせて、それを見上げるセルビアが怪訝な声をあげる。
「魔剣・・・ではござりませぬか?その剣で試合を?」
ムサカはハッと気づき、思わず群雲をカチャリと鞘にもどした。そして女の視線を逸らすことなく、じっとその瞳をみつめつづける。
「魔剣は、妖かしのものを斬る力があると言い伝えられます。ダイハーンの竜王は魔剣を大変おそれておりまする。試合はおろそか、ソグルにその剣をもちこむことすら難しいでしょう。魔剣での試合などソグルではありえないはずです」
「・・・・」
「ムサカさま、イルハーンのかた、あなたは本当は何者です?」
ムサカはなにも言わぬ。月明かりに照らされ、青白く光る彼女の黒髪と、その星空のごとき輝きをはなつ瞳をただ、ひたすらにみつめるだけである。セルビアは宝珠をかたく握りしめた。
「ムサカさま、あなたさまが何も語らずとも、宝珠が教えてくれます。ムサカさま、あなたさまはイルハーンよりある使命を帯びてこの地に来たおかた・・・・白くおぞましき影があなたさまの背後にありまする。あなたさまの向かう先には、巨大な竜・・・」
ムサカはセルビアを突き放し、すばやく身を起こした。そして群雲の切っ先をセルビアの喉元につきつける。
「おんな!なぜ、この剣が魔剣とわかった?」
ムサカの眼光が猛獣のそれのように燃えたぎっている。女を愛おしんでいた先ほどとはまるで別人のようであった。
女は喘ぐようにムサカをみつめ、必死で宝珠を握りしめていた。
「この宝珠を身につけていれば、自然と魔力はつくもの・・・魔力を帯びたものか否かは今では一目でわかるようになりました。ムサカさま、わたしはたとえ、あなたさまが何者であろうと構いませぬ。ただ、あなたさまの故郷につれていってくださりさえすれば・・・わたしは一生あなたをお慕いし、どこまでもついてゆきまする」
「・・・その言葉に偽りはないか?」
ムサカの目に野獣のそれは消えた。そしてむせび泣く女の髪をそっとなで上げる。
「悪かった。許せ、セルビア」
そして寝台にセルビアに背を向ける格好で座り、「ふう」と息をつく。
「おぬしがいま、いみじくも言ったとおりだ。俺はイルハーンよりある使命をおびてこの地にやってきた。その使命とは、ダイハーンの竜王ウリュカをこの魔剣にて暗殺すること。自分の国の国王を殺しにきた男とお前は寝たということだ。お前は俺を一生愛し、ついてくると言った。その言葉に本当に偽りはないか?国王を殺しにきた男とつれ合いになるということは、自分の国を裏切ることになるのだぞ?」
「かまいませぬ」
女は身をおこし、剣士の肩にそっと手をおいた。
「根無し草で身よりのないわたしには国家など縁のなきもの・・・竜王がどうなろうとわたしには関係ありませぬ。ただ、ひたすらに案じるはあなたの身の上・・・」
セルビアはムサカの肩に腕をまわした。そして宝珠の首飾りをムサカの首にかける。
「約束してください。必ず生きて帰ると・・・この宝珠をあなたへの餞別とします。そのかわり、あなたがわたしの元へ帰ってきたあかつきにわたしにかえしてくださりませ。約束ですよ。そして・・・必ずわたしをあなたの故郷につれていってくださりませ」
そしてムサカの背に頬をよせる。
「しかし・・・このことだけは覚えておいてください。ダイハーン人はイルハーンを決して快く思っておりませぬ。それは竜王を殺したとしても変わらぬこと。四十年前の戦争でイルハーンがダイハーンの民におこなった仕打ち、その恨みつらみはイルハーンが償わぬかぎり未来永劫、消えることはないのです」
「・・・・」
ムサカはなにも言わなかった。イルハーンがペンターゴンに敗れ、ダイハーンの支配権を放棄したとき、イルハーンはダイハーンに対し戦後補償をおこなった。捕虜となった奴隷たちも帰国させたのだ。
(じゅうぶんではないのか?)
イルハーンの戦後補償はダイハーンの新たなる為政者、竜の一族がそのほとんどを握ったときく。実際に戦火に見舞われた地方の村や、奴隷として男手を失った村には、何も償いはされていない。
(それがいくさというものだ)
戦士であるムサカにはそういう割り切り方しかできなかった。敵と刃を交えることでしか生きる術のない男である。
そして今、竜の一族は流言飛語をまき、イルハーン憎しの国民感情を煽り立てている。戦士であるムサカができること・・・それが一連の流言の大もとである、かの竜王を殺すことなのだ。
「明日、ダイハーンの首都ソグルにたつ。必ずや生きて帰る。そしてこの宝珠、必ずやお前に返そうぞ」
港湾都市カルファドの朝は潮風が吹き抜け、肌にここちよかった。昨夜の星空を思わせる無数の灯籠の煌めきがまるで夢であったかのように、街は陽光を受け風光明媚な港町の様相に変わっていた。
酒場の前でムサカは一頭の馬に騎乗していた。セルビアがムサカのために馬借から借り受けた馬である。
「すまぬな」
彼は馬の足下にたたずむセルビアを見下ろしていた。セルビアは馬上のムサカを見上げ微笑む。
「必ず帰ってきてください。わたしは波止場であなたさまが帰還するのを、待ち続けておりまする」
ムサカの目は遠くダイハーンの首都ソグルに向けられていた。
「セルビアよ、ナムグル・・・とはなんだ?」
「ナムグル?」
セルビアは首をかしげた。
「ソグルのナムグル通りのことでございましょうか?あそこは多くの魔術師、占い師の類が住みつき商いをしていることで有名にございます」
「商い?魔術、占星術を使ってか?」
「さようにございます。占いがほとんどのようにございますが・・・」
それがなにか・・・とセルビアの目が訴えている。ムサカは小さく鼻をならした。
「たいしたことではない。ただ、昨日船上で怪異をみた」
「怪異?」
「不気味な奴だった・・・髑髏の顔の男が海の上に現れて言うのだ。指をはるか西に指し示し、ナムグル・・・とな」
あの髑髏面の男はナムグルに住むという魔術師なのであろうか?ムサカを誘い、何を伝えようというのか?
「お気をつけくださりませ」
セルビアが心配そうにムサカを見上げている。ムサカは「案ずるな」と言い、首から下げた宝珠を彼女に見せてニヤリと笑った。
「お前は俺の帰りをただ待っておればよいのだ。そして俺が戻った時、共にイルハーンのわが故郷に帰ろうぞ」
宝珠は陽光に照らされ、透き通るような光沢を見せていた。この宝珠はムサカをどのような運命に導くのであろうか?
馬が声高くいなないた。目指すはダイハーンの首都ソグル。「必ず、必ず帰ってきてくださりませ」と叫ぶセルビアの声を背にムサカは馬を走らせた。そして彼は二度三度と後ろを振り返った。そのたびに、カルファドの歌姫はいつまでも手を振っていた。
ソグルへ到る街道がまっすぐに延びるカルファドの街外れ・・・ムサカが馬を進めていくと、例の童、スヒョンが旅装姿で路肩にうずくまり待っていた。
「・・・・」
ムサカは彼を一瞥すると、何も言わずその場を通り過ぎようとする。
「お師匠さま、待ってください」スヒョンは立ち上がり、必死であとを追う。
「俺はお前の師匠ではない」
ムサカはにべもない。彼には目もくれぬ。
「ではせめて・・・荷物持ちをさせてください。必ずお役に立ちますから、ついて行かせてください」
「だめだ!俺はこれから死地におもむくのだ。お前など連れていくわけにはいかん!足手まといだ!」
ムサカはピシャリと言い放った。
「・・・?いったいどこへ行かれるというのですか?」
「知りたいか?」
ムサカはスヒョンにはじめて向きなおりニヤリと笑った。
「向かうは首都ソグル。そこで竜王の首をとるのが俺の目的だ」
「ええ!?まさか?おらが子どもだと思ってからかっているのかい?」
驚くスヒョンをじっとみつめる。その不敵な笑みをふくむ眼光は鋭く、いささかの揺るぎもない。本気だとわからせるには充分な力があった。
「あの竜王を?」スヒョンはあえいだ。
「でも、あなたならできるかもしれない」
ムサカは意外な面持ちでスヒョンをみつめた。いみじくも自分たちの国の王を殺そうというのである。まるで王が殺されてもいいような言いぐさだ。彼を追い払うつもりで言った言葉とはいえ、思わぬ反応ではあった。あのセルビアといい、いったいこの国の人間は国体をなんだと思っているのか?
「ぜひ、あなたにあの竜王を殺してほしい。竜の一族、あいつらのおかげでおらたちみたいな貧乏人が増えているだ。高い年貢のせいで、おらのおとうやおかあは、おらを身売りするしかなかっただ。おらたちは、今日明日が食えるかどうかもわからねえ、
なのにソグルの竜王は宮殿で贅沢三昧・・・おら、あなたが竜王を殺すっていうなら、喜んで協力するだよ」
「・・・・」
ムサカは考えた。この国の地理には不慣れ、しかも首都ソグルの事情はまったくわからない。この国の人間である彼を連れていけば、あるいは使えるかもしれない。
「本当に危険なことだぞ。それでもついてくるか?」
「ああ、ついていきますとも」スヒョンは真剣な面持ちである。
ムサカははじめて笑った。
「よし、いいだろう。その言葉に偽りがないのなら・・・特別に弟子入りを許す」
スヒョンは呆けたようにムサカをみつめた。
「ほ、本当ですか?」
「おう!そのかわり、俺の修行は厳しいぞ。さあ、ついてまいれ」
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
スヒョンは喜びのあまり、ムサカに何度も拝礼をした。
「おまちください!荷物を・・・荷物をお持ちします!」
こうして、ソグルに向かうイルハーンの剣士とダイハーンの童の珍道中がはじまった。
道中、スヒョンはムサカにしぼられながらも剣の教えを受けるのだが、それがのちに大きな意味を持つことになるとは、この時の二人には知るよしもないことであった。
それは異様な光景であった。
都市のいたるところに幟が立ち、古代ハグル語の文字が書かれている。呪術的な意味合いが込められているのであろか?幟には文字の下に護符のように印が刻まれ、それが怪異な目のようにあちこちから、ムサカをにらんでいた。
ここはダイハーンの首都ソグル。
南大門をくぐり、ムサカの目に飛び込んできたのは、そんな呪術的な異様な街並みであった。まさに魔都である。そして竜の一族の聖地に足を踏み込んだという感覚が、ムサカをいやがおうにも緊張させる。
幟の下の街の光景は、光の港湾都市カルファドのそれと大差ないようにも見受けられた。市がひらかれ、かごにいっぱいに入った野菜、果物、乾物・・・豚や鶏などの家畜が店の軒下に吊されている。骨董品が路地にだされ、剣や鎧を売る武器商人、料理屋の客引きの威勢のいい声が響く。旅芸人が舞踊を踊り、吟遊詩人が太鼓を叩き歌声を張り上げている。そして戦士、役人、商人、職人、農民など幾千もの人々がそんな雑多な通りを行き交っているのだ。
都市としての規模がこちらのほうが大きいぶん、その賑わいはカルファドの比ではない。
しかし、都市の異様さからか、竜の一族の巣窟ゆえなのか、ムサカにはその街の賑わいすら、どことなく活気を感じなかった。それはソグルの民が竜の一族に対する畏怖の念を奥底に抱いているゆえであろうか?
南大門から真っ直ぐにのびる大通りの正面には件の竜王の宮殿、泗水宮がある。
(はて、どうしたものか?)
ムサカはスヒョンを街のあちこちに走らせ、どうやら竜王が主催する宮中舞踊の会が、近日、泗水宮の門前広場ででおこなわれるという情報をつかんでいた。竜王を討つなら絶好の機会である。
問題はどうやって竜王に近づくかである。
竜王の親衛隊は超常の力をもった竜人たちである。おいそれと王の玉座に近づけるものではない。ましてや魔剣を帯びていることがわかれば、こちらの命の危険さえあるのだ。
(協力者がいるな)
協力者をつくることは案外に簡単である。金の力にものをいわせ、下働きの関係者を必要に応じて買収していけばよいのだ。踊り手、飾り職人、衣装職人・・・竜王主催の舞踊会には民間からさまざまな人々が出入りする。うまく使っていけば、竜王に近づく道は切り開けることだろう。
しかしなにぶんにも、現地の人間と関係をもつにはとっかかりが必要であった。
この地にムサカの知り合いなどいようはずもない。どうとっかかりをつくるのか?それがムサカの思案に暮れるところであった。
(ナムグル・・・ナムグルに行くしかないか・・・)
ムサカの思いつく最終的なとっかかりはもはやそれしかない。
あの海上に現れた奇怪な髑髏面の男・・・何者かはいざ知らず、ナムグルにゆけばその男に会えるかどうかもわからぬ。しかし、あの奇妙な白昼夢に宿命めいたものを感じずにはいられなかった。ムサカは、まずそこを目指すことに決めたのである。
そこは・・・魔術師、占星術師らが集うという、ナムグル通り。その場所はこの奇怪な街のいずこにあるのか?スヒョンに聞いても、田舎育ちでソグルの地をはじめて踏んだ彼には皆目見当がつかないらしい。
「街の人間に何人か尋ねたのですが・・・ナムグルの占い通りというのは、このソグルにあるにはあるらしいのですが、その場所を聞いても、よくわからないと答える者ばかりです」
「そんなはずはないだろ?もっとよく聞き出してこい!」
ムサカは苛立った。やがて冷静になり、そして考えをめぐらせる。
(占い師や魔術師の類が巣くう、そういう場所というのは、普通の人間の前にはなかなか現れぬもの・・・いずれ向こうから現れるやもしれぬ)
思案しながらムサカは、心配げにその顔色を窺うスヒョンと並び、その異様な景色の続く街の通りを行く。
しばらく歩くと、前方に人だかりができているのが見えた。幟が立っている。
幟の下には顔を白い布で覆い、その異様な眼光を放つ目だけがむき出しに周囲の群衆を睥睨している。男は演説をしているようだ。
「憎むべしイルハーン、かの野蛮な国の狐の女王めは再び、このダイハーンに対する侵略を企てておる。奴隷を喰らい、その血で妖力を高めることで再び世界の盟主たらんとしておるのじゃ。ダイハーンの民として手をこまねいておってはならん。誇り高き文化の民として女王に屈するまじといいう心意気を示す時じゃ。泗水宮の竜王陛下もご照覧くだされるであろう。ダイハーンの民よ、いまこそ立ち上がれ!」
あちらこちらで「そうだ!そうだ!」という声が上がる。
「俺の親父はイルハーンに連れていかれて戻ってこなかったんだ!」
「俺は昔イルハーンの代官に女房をとられたぞ!」
「わたしのおとうはイルハーンの兵隊に、目の前で車裂きにされたんだ!」
「憎むべし!イルハーン!」
「狐の女王ルナールを殺せ!」
「ルナールを殺せ!」
群衆が殺気だっている。しかし、ムサカはその様子を訝しんだ。
(群衆を徴兵するわけでもなく・・・ただ、いたずらに民衆を煽り立てているだけ?一体なにが目的だ?)
その時、ムサカの袖を強く引っ張る者がいた。
(イルハーン人、ここにいては見せしめに群衆に殺されるぞ)と小声で叱責する。
そして(こっちへこい!)とつぶやき、ぐいぐいと引っ張られていく。
ムサカは呆気にとられたが、その男に身をまかせた。歴戦の勇者であるムサカに容易に接近を許したのだ。ただ者であるわけはないが、敵意のようなものは感じられなかった。一体何者なのか?
あとからスヒョンが静かについてくる気配がする。彼もこの男にいわくありげなものを感じているようだが、今のところは騒ぎ立てる様子はない。
男はフードのようなものを深々と被り、その表情は窺い知れない。ムサカは直感でこの者は魔術師か占い師の類ではないかと思った。もし、この男が下手な真似をしようものなら、剣で切り捨てるつもりであった。
やがて路地裏に入る。その先には地下へと続く階段があった。男はムサカをそこへ誘い降りていく。
そこはいくつもの露店がロウソクの灯火に照らされ、軒を連ねる地下街であった。
あちこちで香が焚かれ、その煙とともに妖しげな匂いが鼻をくすぐる。水晶を目の前の台に乗せてたたずむ老婆、動物の骨や宝石など妖しげな装身具を売る者、木や石でできた易をたてる黒い長衣の男、砂漠の国のあでやかな衣装をまとった女、不思議な形をした碁盤をならべる半裸の老人・・・・その異様な光景のいちいちをあげればきりがない。ムカは直感で悟った。ここがうわさに聞く、件のナムグルのうらない通りにちがいないと。
やがて男はおのれの露店らしき、黒い布で覆っただけの簡素なたたずまいの一角にムサカを案内した。中には行燈の明かりが灯り、幻想的な柿色の光りに満たされていた。
男は店の奥にある木組みの椅子にすわった。
「魔剣を帯びたまま、竜王の眷族の前をうろつくとは・・・おぬしよほどソグルの事情にくらいとみえるな」
そしてフードをはずし、その奇怪な素顔をムサカの前にさらす。
「・・・・」
「あっ!」
スヒョンが短く叫んだ、その容貌・・・!
まず、左目は光を宿していなかった。白く濁り、片方の右目だけでムサカを睨むその眼差しは猛禽類の鋭さがあった。金銀妖眼・・・ヘテロクロミアと呼ばれる異相である。
歳は五十を過ぎたばかりであろうか?さほど年老いた老人というほどのものでもない。
「幟をたて、演説しておったあの男、竜の一族か?」
「さよう、白い布で口の周りを覆っておったであろう?あれが竜の一族の特徴じゃよ。あやつらは民の憎しみを増幅させておる。民の憎しみこそが、竜王を中心とするかの一族の妖力の糧となるがゆえにな」
「では一連の反イルハーン感情の高まりは、イルハーンへの侵攻を目的にしているのではなく、あくまでやつらの魔力を高めるための儀式的なものとみてよいのか?」
「まあそうじゃ。ただ近い将来、彼らが世界を征服できるほどの力をつけた時はわからぬがな。この街のいたるところに立っておる幟はその儀式の補助的な役割を担っておる。このソグルは街全体が巨大な祭壇のようなものだ。それも竜の一族の利益のみに使われておる祭壇じゃよ」
男はククッと笑った。その白濁の瞳だけが表情を変えないのは異様ですらあった。
ムサカは男をにらんだ。
「おぬし何者だ?なぜ俺がイルハーン人とわかった?そしてこの剣が魔剣であることも・・・」
「わしは占い師だ。人は我を”妖眼の占術士”と呼ぶ。わしはおぬしがイルハーン人であることも、その剣が魔剣であることもよく知っているとも。占術士の力をあなどるでない。さらにいうなら、おぬしがこのナムグル洞にくることもわしは予言しておった」
「予言・・だと?」
ムサカは剣の柄をにぎった。そして油断なく目の前の男をみすえる。
「ではわが正体も知っておるということか?」
「さよう、竜王ウリュカを倒すため、魔剣を携え海を越えてやってくるイルハーンの戦士・・・狐の女王がダイハーンに差し向けた恐るべき剣の技をもつ刺客・・・それがおぬしをおいて他にだれがいる?竜王はナムグルに住む者の敵であり、竜王に敵対する者にはナムグルは味方する。イルハーン人よ、おぬしが本当に竜王ウリュカを殺してくれるというなら、わしはいくらでも協力しようぞ」
「ナムグルは竜王の敵?」
ムサカの眼がすっと細められる。
「さよう、そしておぬしの味方でもある。竜王はわれらの滅ぶべし敵だ」
「滅多なことをいうな!おぬし、なにゆえ竜王の破滅をのぞむ?」
ムサカはついに魔剣群雲を抜いた。そして剣を男の喉元につきつける。
その剣の切っ先をつきつけられ、男の様子がわずかに変化したのをムサカは感じた。
(魔剣が恐いのか?)
彼は平静をよそおいながらも、内心は確かに動揺している。片方の眼の色が微妙に変化したのだ。歴戦の戦士であるムサカがそれを決して見逃すはずもなかった。
「いきりたつな、イルハーン人よ。竜王はもともと、このナムグル洞の一介の魔術師に過ぎなかった。それがいまや権力を手に入れ妖力を強大に伸ばしておる。しかしナムグルには、現世に妖しの力を及ぼしてはならぬ掟があるのじゃ。竜王ウリュカはナムグルの裏切り者、あやつの罪は死をもって贖わねばならない。しかし、わしらの力ではそれはかなわぬ」
「・・・・」
「竜王はやがてナムグルの粛正に乗り出すだろう。やつらが動き出す前におぬしに竜王を殺してもらいたいのだ」
ムサカは剣を引いた。”妖眼の占術士”なる男の言葉を決して信じたわけではない。だだ、少なくとも竜王ウリュカを倒すことにおいては利害は一致していた。だだでさえ協力者は少ないのだ。この男の力をたのみにする以外に他に道はひらけそうにない。
「よかろう、占術士よ。貴様と手を組もう。わしは数日後に開かれるという舞踊会が絶好の機会と思うが如何?」
男は・・・その片方の眼に妖しげな光を湛えながら、凄みのある笑みを浮かべた。
「よしなり、おぬしがその会にて存分な働きができるよう、うまく取り計らおう」
どこまでも青が天高く続くかのような、雲一つ無い晴天のもと・・・。
泗水宮の門前広場は広大な面積を石畳で覆っている。王宮の行事を民にも開放する場としてその広場は設けられていた。
今そこは、竜王ウリュカの御前・・・燃えるような赤、あでやかな光沢の青、そして白、黄色・・・色とりどりの衣装をまとった女たちが、石畳の上を見事な体さばきでくるくると舞っていた。女たちの舞いはしなやかで風のような律動美がある。みな、ダイハーンの各地から集まった選りすぐりの踊り手たちであった。
たとえるならそれは百花繚乱・・・色彩豊かな花々がひらいては回り、巡ってはとじる。
長く垂れ下がる衣装の袖が無数に宙を舞い、その踊りに合わせ、笛の音や太鼓、琴のしらべが広場の空気を彩り、おごそかに流れる。
竜王主催の宮中舞踊の会は今がたけなわなのだ。
竜王ウリュカは、広場の宮殿側に特別に設けられた玉座に座していた。
青色の長衣をまとい、水竜のエラをかたどった奇妙な被りものをしている。竜玉をその先端にはめ込んだ竜巻のようにくねった大きな杖を持ち、広場を睥睨している。
側近を固めるのは竜人たち。みな一様に口元を白い布で覆っている。鎖かたびらに身を固め、長い鉄の槍の先を天に向け、油断無く構えていた。
その異様な眼光は、この男がイルハーンの女王ルナールと同じく”現世に在らざる者”であり、絶大な妖力をもつ支配者なのだということを思い知るには、充分な畏敬を感じさせた。
やがて、果物や野菜を盛った大きな籠がでてきて竜王の前に供物として捧げられると、女たちの舞踊の宴が終わりをつげる。次に現れたのは剣の舞いを踊る剣士たちである。
独特の型でしなやかな動きをみせる剣の舞い・・・竜王の御前でそれを舞うことを許されたその踊り手たちのなかにムサカがいた。
(あれが竜王・・・)
竜王の御座とムサカとの間の距離は三間とも離れてはいない。彼の剣の技であれば、あと少し距離を詰めれば充分に刃が届くほどであった。しかし今、魔剣群雲は彼の手許にはなかった。
(踊り手を一人眠らせよう。その踊り手にお前はなりきるのだ。姿はわが魔術にて似せることもできる。しかし、魔剣をその手に持つことは危険だ。竜の一族はたちどころに魔剣か否かを見抜くであろうからな)
”妖眼の占術士”はムサカを幻術によって一人の踊り手の姿に変え、その踊り手は魔術により眠らせた。そして魔剣は竜王の前に捧げられた供物のなかにある。
(供物に近づく機会は必ずある。魔剣群雲は竜王を必ずや滅ぼすであろう。しくじるなよ)
”妖眼の占術士”はこの広場のどこかで、ことの成り行きを見守っているのであろうか?
竜王のそのただならぬ眼光に見据えられると、たくらみをすべて喝破されているのではないかと不安がよぎる。
やがて舞曲が流れ、剣の舞いが始まる。
その舞いの型は、イルハーンでも舞われるものでムサカもよく知る楽曲であった。
そしてどの踊り手よりも、優雅に舞いきる自信がムサカにはある。
案の定、感嘆の声が広場のあちこちから漏れるのが聞こえる。竜王はとみれば、も驚きと賛美に眼を輝かせている様子である。妖力をもつ支配者をして驚嘆たらしめるほど、ムサカの舞いは見事なものであった。そしてそれは、ムサカにとって有利な状況に違いなかった。鉄壁の如く思われる竜王に隙ができているのだ。
(頃合いよし!)
ムサカは流れる風のように供物に近づいた。果物を盛った籠のなかに魔剣群雲がある。かねてより示しあわせた通り、瓜の一つに十字を切ったような印がしてあった。その瓜の下に群雲があるのだ。
ムサカがまさに、その瓜の下に手を伸ばそうとしたその刹那だった。
一瞬、何かが頭の中をかすめ、彼は思わず動きを止めた。怪しまれては、と再び舞いを舞い始めたが、その光景が頭を離れない。
ムサカは気づいた。首から下げたあの宝珠を、舞いの最中、その手に触れたのだということに・・・。
ムサカが見たもの、それは彼の母の顔であった。柔和で木訥な顔立ち・・・役人に頭を下げることしか知らぬ父に、だだ、ついていくだけの無口な女。よく働き、ムサカが朝、目覚めた頃にはもう動きまわっていた。夜も早く寝ることはなく、夜なべで衣服を織る仕事ばかりに追われていた。ムサカは母の寝顔など見たことなどないのだ。そして働きの割りに報われぬ生活・・・税を取り立てにくる役人の常に顔色を窺う毎日・・・卑しい身分ゆえに近隣の村人たちの侮る罵声を浴び続ける毎日・・・そんな生活から抜けだしたかったがために故郷を捨てた。そして剣を磨き、女王に仕えたのだ。
その母の顔・・・その背後の光景はまさに懐かしむべき故郷の景色・・・あのカルファドの歌姫セルビアと共有し帰郷を約束したわが故郷。
今、目の前の竜王を殺せば、間違いなくダイハーンとイルハーンの戦端は開かれるであろう。たとえ竜王が倒れても、強大な組織力をもつ竜の一族は、またあらたな指導者を王としてたてるに違いない。ダイハーンの実質的な国力や戦力が落ちるわけではないのだ。
流血を妖力の糧とする女王ルナールはダイハーンとのいくさを望んでいる。
ルナールがムサカをイルハーンの刺客として差し向けたのも、真のねらいはそこにあるのは間違いなかった。
そして戦端が開かれれば・・・ムサカの故郷もセルビアの故郷も戦火に焼かれないという保証はどこにもなかった。ふるさとに残したおふくろや、セルビアの父はどうなるのか?どう巻き込まれてしまうのか?
あの小川のせせらぎの音や棚田、あぜ道に咲く野花や鮮やかな色の蝶、セルビアのふるさとのうさぎ跳ねる里山、はるかに広がる田園と田楽の音・・・。
竜王を殺すことでそのすべてが失われてしまう!
やがて楽曲が終わり、舞いのすべての型が終了すると広場は喝采が起こった。
竜王が立ち上がり「見事であった」と声をかける。
「そなたほどの剣舞の達人、はじめて逢うた気がするぞ。獣のようなしなやかさと律動美、そして巌のような力強さがある。それでいてその動きは流れる風のようだ。そなた名はなんと申すか?」
「・・・・」
ムサカは何も言わぬ。拝礼してじっと頭を垂れたままである。
「陛下が問うておる。黙っておらんと答えぬか!」
側近の一人が、苛立ちを隠さぬまま叱責の声をあげた。
やがてムサカはおもむろに立ち上がり、玉座の前の供物に近づく。竜の一門が呆然と見守るなか、彼はその籠から群雲を引き抜いた!
竜王の目が驚愕に見開かれるのに時間はかからなかった。
「・・・・!魔剣だ!こやつ魔剣を隠しておったぞ!」
竜の一族はみな色めきたち、槍を構え竜王の周りに集まってくる。
ムサカは獣のような獰猛な目つきで竜王をにらみ、魔剣群雲を突きつけながら、大音声で吠えた。
「竜王ウリュカ!ダイハーンの王よ!しばらくその命あずけるぞ!」
そしてすばやく身をひるがえし、広場を竜王の玉座とは真逆に走り出した。
「あやつをとらえよ!」
竜人たちの怒号が響きわたり、会場は騒然となった。ムサカの背後では槍を持った竜王の眷族たちが後を追いかけてくる。そして弓兵たちが整然と並び、そして弓を構え、走り去る彼を狙っていた。
「放て!」
怒声とともに弓弦のはじく音がひびき、無数の矢が放たれた。その何本かの矢がムサカの背や腕を貫く。彼はうめき声を上げるいとまもなく、ただひたすらにソグルの街を疾風のごとく走った。
どれくらい走ったことだろう。ムサカは追っ手の声を背に、無我夢中でひたすら街を駆け抜けた。
「おーい!お師匠さまあ!待ってくれよう!」
後ろからスヒョンの声が響く。彼は群衆にまぎれ、ことの成り行きを見守っていたはずである。
やがてムサカは立ち止まった。そしてその場にがくりと膝をつく。そこは人気のない路地裏である。
眼は血走り息は荒い。背や腕にささった矢は不思議と痛みを感じなかった。しかし傷口からは多量の血がしたたり落ち、そのささり具合と深さから、決して軽傷とはいえない。やがて追いついたスヒョンは心配げにムサカを見上げる。
「一体、どうしたというのですか、師匠?もう少しで竜王を殺せたというのに?」
ムサカは荒い息もそのままに、スヒョンをみつめる。
と、目の前に黒いもやがたちこめた。やがてそれが人の形を作り上げていく。
「・・・・」
ムサカの目の前に現れたのは”妖眼の占術士”だった。
「なぜだ?なぜ、竜王ウリュカを殺さなかった?」
片方だけの眼が明らかに失望の色を湛えている。ムサカにかけられた彼の幻術はいつの間にか解けていた。
「おぬしには関わりのないことだ」
ムサカは息をはずませながら獰猛に言い放った。
「出血がひどい!はやく手当をしないと!」スヒョンはあくまでムサカの体を気遣っている。白地の布で流れ出る血を拭き、止血を試みている。この体でよくここまで逃げてきたものである。
「竜王を殺せば、イルハーンとダイハーンの戦端は間違いなく開かれる」
ムサカは喘いだ。
「俺はカルファドの歌姫セルビアと約束をかわした。必ずお前をイルハーンのわが故郷に連れて帰ると・・・もし、両国の戦争になれば、俺は彼女と故郷で平和に暮らすことなどできはしない」
”妖眼の占術士”はその奇眼で静かにムサカを見下ろしている。
「では・・・どうするのだ?」
ムサカは燃えるような眼差しで占術士を見上げた。
「イルハーンに戻り、女王ルナールを殺す!」
奇眼の男のその眼が驚愕に見開かれた。スヒョンも驚いてムサカから手を放した。
「なんだと!おぬし正気か?」
「正気だとも!」
ムサカは立ち上がった。
「戦争など、為政者どもが勝手に引き起こすことだ。たとえ民が平和を望もうとも・・・そしてささやかに幸せに暮らしたいという民の願いは、為政者どもが勝手に引き起こすいくさによって踏みにじられていく・・・もうそんなものはうんざりだ。イルハーンとダイハーン、両国の民が平和に暮らすためには、両国の為政者を倒さねばならんと俺は悟ったのだ」
「・・・だからルナールも殺すというのか?では竜王はどうする?」
「もちろん竜王もいつか倒さねばならん。しかし、その前にルナールだ、奴を先に倒す。竜王は先に殺してはならんのだ」
「ほう・・・そのこころとは?」
ムサカは再びその場に腰をおろした。そしてあぐらをかき、思案をめぐらすように顎に手をやる。
「まず、刺客であるこの俺がイルハーンの人間であることが一つ。イルハーン人がダイハーンの王を殺せば、すぐに戦争になる。しかし、イルハーンの人間がイルハーンの支配者ルナールを殺したとて、両国の情勢にはなんら変わりはあるまい。いま一つは両国の戦端が開かれるのを望んでいるのは竜王ウリュカではなく、むしろ狐の女王ルナールのほうだ。やはり奴を先に殺さねば、両国に平和がくることなどありえぬ」
「・・・おぬし、大恩ある女王を本当に斬れるというのか?」
ムサカはニヤリと笑って占術士を見上げた。
「俺はおのれの目的のためなら、なんでもする男よ。たとえ忘恩の徒とそしられようとも知ったことではない。それに俺と女王とは、利用し利用されの関係・・・互いに情など一度も感じたことなどなかろう。奴を斬ったとて痛痒にも思わぬわ」
「・・・恐ろしい男だ」
占術士は唸った。
「おぬし、竜王を倒せば、ルナールに将軍職を約束されたのではなかったのか?」
ムサカは笑った。
「考えてみれば・・・俺は剣を使うことはできても、人を使うなどできん。俺はそんな器ではないよ」
そしてムサカは占術士をみつめる。
「ぬしに頼みがある」
占術士は両目を細め、ムサカをにらんだ。
「何だ?」
「俺を幻術で姿を変える力をもつおぬしのことだ。俺たちを密かにイルハーンに運ぶことなど、たやすいであろう?」
「今度はわしを運び屋として使おうというのか!?」
占術士は呆れたように声をあげた。
「人を使う器ではないなど、よくもぬけぬけと抜かすものよ。おぬしたちをイルハーンに運べだと?それはわしとてたやすいことではないぞ」
占術士は思案する。
「そう、たやすくはないが・・・わが術法の中に”縮地の法”というのいうのがある。思い描いた場所に一瞬でたどり着くことの出来る術だ。しかし、わしはイルハーンには行ったことがない。おぬしたちをイルハーンに運ぶには、おぬしのイルハーンの記憶を拠り所にせねばならん」
「どうすればよい?」
彼はムサカの手をとり、おのれの額につけた。
「おぬしのイルハーンの記憶を思念と化してわしの脳裏に送り込め。さすれば貴様の国のどこでもその小僧もろとも、連れていってやるわ」
そしてその奇眼を細め、彼の表情を覗きこむようにみつめる。
「竜王は・・・ルナールを殺したのち、必ず倒すのだな?」
ムサカは無言でうなずいた。彼の体力は限界にきている感がある。息づかいも荒く、眼もうつろいでいる。占術士は懐から小さな壺を取り出した。そして中から一粒の薬丸を手のひらに乗せ、ムサカに差し出す。
「飲め、傷も癒えて精もつく」
ムサカがそれを口に含むと、スヒョンが水の入った竹筒を差し出した。そしてその水を貪るように飲む。すると、みるみるうちにムサカの顔色に血の気がさしてきた。
「なんと不可思議な。今の今までの調子がまるで嘘のようだ。傷はまだ痛むが、血は止まったようだな」
そして占術士をみつめるとニヤリと笑う。
「妖術も使いようによっては益のあるものだな」
「フン」と占術士は鼻を鳴らした。そして何を思ったか彼は遠くの方をみつめ、また、その妖眼を細めた。
「・・・・」
みるみるうちにその顔色が変わる。
「・・・・!まずい!」
ムサカも剣を取り、彼がみつめる方角を振り返る。
そして彼の目に飛び込んできたもの・・・それは・・・!
恐ろしい速さでこちらに飛んでくる、一匹の巨大な竜の姿であった。
「まずい!まずいぞ!竜の一族は竜王を頭に竜の姿を顕在化させおった!」
「なんだと!」
「とにかくまずい!路地裏に隠れろ!」
三人がすばやく路地裏に転がり込むと、一陣の凄まじい突風が巻き起こった。その大蛇のような巨躯をうねらせ、巨竜が街中に飛び込んできたのだ。
そして恐ろしい咆哮をあげ、低く、くぐごもった声を響かせてムサカたちを呼ぶ。
「魔剣の男!魔剣の男よ!姿をみせろ!その剣をわれの青く光り輝く鱗に突き立ててみよ!剣士、魔剣の剣士よ!われが喰ろうてやる!姿をみせよ!みせるのだ!」
そして嵐のように風を巻き上げ、街の上空を飛び回る。
そしてときおり咆哮をあげ、「そこか!そこか!」と恐ろしい声で街の建物を破壊し、ムサカたちを探しまわっているのだ。
ムサカとスヒョンは腹這いになり、頭をかかえこんでいる。占術士はその場に座し、印を切って結界をつくり、その場にムサカたちを招く。
「おい、占い師!あの化け物は一体なんだ?あんなもの凄い化け物が、竜王の真の姿だというのか?」
「正確には違う!竜の一族は全にして個、個にして全・・・わかりやすく言うなら、かれらの一族が竜王を中心に一体化したもの・・・それがあの巨大な青龍なのだ!」
「・・・・!」
と、異様な、そして巨大な目玉が建物の隙間から、こちらを睨んでいるのが見えた。
「うわあ!」
スヒョンが叫び声をあげる。まるで大蛇に睨まれ射すくめられた蛙のように、ムサカたちはその場を動けなくなった。
「おい!この結界は大丈夫なのか?」
ムサカが怒鳴ると、占術士は唸り、そして再び、印を結ぶ動作をはじめた。
「いや、この結界は完全ではない!奴からは我らの姿はおそらく丸見えだ!おそらく次の奴の咆哮で、この結界は完全に消え去ってしまうぞ!竜の咆哮には、魔道の結界を消し飛ばす力があるがゆえにな!」
「なんだと!いくら俺が魔剣群雲を持っているからといって、あんな巨大な化け物、斬れるわけがない!おい、占い師!どうすればよいのだ!?」
その時、占術士は印を完成させた。そしてムサカを手招きする。
「こうなれば、しかたがない!”縮地の法”をはじめるぞ!おぬしわしの額に手をやり、イルハーンのどこでも構わぬから、思い浮かべよ!だだし、ダイハーンの国内はいかんぞ!ゆめゆめカルファドの歌姫のことなど思い浮かべるのはよせ!竜の一族はこの国のすべてに結界を張り巡らしておる。わしらの居場所など、奴はすぐに察知して飛んでくるぞ!」
と、竜が大口をあけ、凄まじい咆哮をあげた。その息は熱を帯び、突風を巻き起こす。
スヒョンが「ひゃー!」と声をあげてムサカの腰に抱きつき、その暴風から難を逃れた。
ムサカは吠えた。
「えい!しかたがない!おい占術士!イルハーンに飛ぶぞ、額をだせ!」
そして一瞬の間にムサカは思案した。
「うむ、今日はあの日か・・・よし、やるか!おい占い師!場所は”白瀑の滝”だ!」
「・・・?白瀑の滝?」
「説明はあとだ!とにかく術をかけろ!」
ガラガラガラ・・・!竜が建物を破壊しながら迫ってくる!大口をあけ、今にもムサカたちを喰らわんと欲しながら!
ムサカは占術士の額を無造作につかんだ。そして思念をその脳裏に送り込む。
「ええい!是非もない!ムサカ!小僧!いくぞ!」
竜が大口でムサカたちを噛み砕いたかと思われた次の瞬間・・・!
ムサカたちの姿は跡形もなく、その場から消え失せていた。
近くで「ゴオオオー」という音がする。
気がつけば、ここは奥深い山あい・・・見上げれば剣のような峰をもつ山が黒々といくつもそびえ立っている。緑萌える木々の奥からは、奇怪な野鳥の声がこだまし、時折、「キキキッ!」という、あれは猿であろうか?そんな鳴き声も聞こえてきた。
そして切り立った崖の下をのぞくとそこには清流が流れ、その先には、恐ろしく高い場所から落ちる滝が白い霧を放ち、もうもうとけむっていた。その「ゴオオオー」という音はそこから聞こえるのだ。
「・・・?ここは一体?」
”縮地の法”の施術者である占術士は、いち早く意識を取り戻しているようだ。遠くその滝をにらみすえ、だれに聞くともなくつぶやいた。
「”白瀑の滝”だ」
ムサカはそっけなく答えた。彼はしばらくその場に片膝をついていたが、意識ははっきりとしている様子である。
「ちょうど今日は月の中の日・・・この日は、女王ルナールがおのれの取り込んだ妖力を整合するためと称して、あの滝の奥にある洞窟にこもる。共の者誰一人としてつけずにな。以前、女王の迎えの護衛に従ってここに来たことがあり、それで思い出した。あの滝こそ、歴代のイルハーンの為政者どもがおのれの妖力を高め整合する為の聖地”白瀑の滝”・・・。俺は考えたのよ。女王を密かに倒すには今日しかない・・・と。夕方には護衛のものが迎えにくる。やるならば・・・いまだ」
ムサカは腰に手をやり、魔剣群雲があるかを確認する。剣は確かに腰に吊されていた。施法で失われることはなかったかと安堵した彼は、その剣をスラリと抜き払った。青白く輝く刀身に彼の殺気と決意を帯びた眼光が鋭く映える。
スヒョンはまだ、”縮地の法”の施法の影響からか、まだ意識がもうろうとしている様子だった。しかし、師匠のムサカが滝のほうに向かいはじめると彼は慌てて荷物をまとめ、懸命についていこうとする。
「ばかもん!貴様は占い師とここに残っておれ!ついてくれば、足手まといだ!」
「しかし・・・師匠・・・」
スヒョンは心配げにムサカを見上げる。ムサカは笑った。
「大丈夫だ。俺はきっと戻ってくる」
「・・・気をつけろ。妖力はあまり感じないが・・・あえて妖力を抑え、消しているだけかもしれんが・・・確かに、あの滝のほうに得体の知れぬ何かがいる!」
占術士は、滝のその向こう側から感じるその存在に、戦慄を覚えている様子であった。
「その得体の知れぬ何かこそ、女王ルナールなのだ」
ムサカは滝を睨むようにみすえると、再び剣を構え直した。そして「行ってくる」とだけ言い、大股でそちらに向かい歩きだす。
「・・・・」
占術士はしばらく無言でその様子を見守っていたが、やがて口を開き、「ムサカ、おぬし本当にやる気か?ためらいはないのか?」とその背後から声をかけた。
「ためらい?そんなもの俺の胸のうちには、一片も見あたらぬわ」
ムサカは振り向きもせず、剛毅に言い放った。
(奴を・・・女王ルナールを殺せば、この国は必ずよくなる。奴がいなくなりさえすれば・・・イルハーンとダイハーンの両国に必ず平和が訪れるだろう。その時になって初めて・・・セルビアを迎えにいくことができるのだ)
滝へと通じる道は白くむきだしの岩場が続いていた。ムサカはその岩道を確かな足取りで慎重に歩いた。滝に近づくにつれ、瀑布の轟音がしだいに大きくなり、飛沫する水しぶきが頬をなでる。滝のちょうど裏側は洞窟になっており、その奥の神殿でいま女王は瞑想にふけっているはずである。
一歩、また一歩・・・。ムサカは滝に、そしてその奥の洞窟に近づいていく。
道は滝の裏側に入った。
ゴオオオオオー!!
耳を劈くような轟音!先刻とは比べものにならない。そして・・・ムサカはついに洞窟の中に入った。光の差さない暗い洞窟の奥を目を細めてみやると、ほのかにロウソクの火が灯っているのが見えた。そして、慎重に一歩、また一歩・・・。
やがてその灯火に照らされ、中の様子がよく見えるようになってくる。
「・・・・」
そこはさまざまな護符が岩肌に張り付いた神殿・・・しかし、女王の姿はそこにはなかった。もぬけの殻である。
(どういうことだ?)
ムサカの額から汗がにじむ。その時、背後にただならぬ気配を感じ、ムサカは思わず振り返った。
「ソグルからよくぞここまで・・・ご苦労なことであるな」
そこには、白装束の女・・・イルハーンの女王ルナールの姿があった。
洞窟の闇にその両の目は青く爛々と輝き、洞窟内を覆うばかりに増大するその凄まじい妖気は、剛の者のムサカですら気圧していた。
「・・・察知しておったか」
ムサカは喘いだ。にじむ汗が頬を伝わり、あごからしたたり落ちる。
「おぬしの行動など、妾にはちくいち、お見通しよ。カルファドでのこと、得体の知れぬ占術士、そしてソグルでのしくじり・・・」
ルナールは不気味に笑う。
「カルファドでは・・・ずいぶん楽しんだようじゃな」
それは女王の空恐ろしいほどに静かな猫なで声であった。ゴクリ・・・と、ムサカのノドから唾を飲む音がする。
「ムサカ、おぬしはあの女と・・・そしてその宝珠にたぶらかされたのじゃ」
「・・・・」
「ムサカよ、おぬしがよもや、妾に剣の刃を向けようとしたこと間違いであろうよな?一時の気の迷いであろうよな・・・?おぬしをここまで、とりたててやった大恩、よもや忘れたわけではあるまいな?」
ルナールは一歩、ムサカの前に足を踏み出した。それだけで気圧されるものを覚え、ムサカは思わず後ずさる。
「剣を妾によこせ、ムサカ。主君に向ける刃など、おぬしには必要あるまい」
その青白い両目が妖しく輝きを増してくる。その両の眼に射すくめられただけでムサカはまったく身動きがとれなくなってしまった。
女王ルナールの口元が奇妙に歪み、そして彼女は手を差し出した。魔剣群雲を差し出せ・・・と無言で告げているのだ。ムサカは歯をくいしばるが、流れる汗もそのままに、ただその場にたたずむばかりであった。
その時である。
ムサカの首にぶら下げられたもの・・・カルファドの歌姫セルビアがムサカに餞別にと、その首にぶらさげてくれたもの・・・螺旋の宝珠が光り輝きだしたのだ。
「・・・・!」
とたんに、ルナールが取り乱しはじめる。
「その光!その光わあ!おっ・・・おおおう!」
ルナールは手をかざし、その光から身を逸らす。
「チャイナルの・・・!チャイナルの皇帝の”破邪の輝き”の色!・・・おのれ!おのれ!すべてを悟ったぞ、チャイナルの皇帝め!死にぞこないのじじいめえ!妾を・・・妾をこの宝珠で・・・カルファドでムサカが手にしたときに気づくべきであったわ!よもや、”破邪の輝き”が封じられていようとは・・・。おのれ、チャイナルの皇帝!おのれ!おのれ!おのれえ!」
ムサカは、ルナールの妖力が宝珠が輝き始めてから、急速に弱まっていくのを感じていた。ムサカの眼にもまぶしいその宝珠の光は、目の前の怪物を相当に苦しめている。
(ムサカよ、いまだ!魔剣群雲でルナールを切れ!)
頭の中で声が響いた。占い師か・・・と思う間もなく、ムサカはすばやく動き、魔剣群雲をルナールの胴をめがけ、横に一閃した!
「ギャアアアア!」
断末魔の声!女王ルナールはよろめき、おぼつかない足取りで洞窟の外へでる。そして轟音響かせる滝壺へ・・・!そのまま真っ逆さまに落ちていった。
それから一瞬ののち・・・不気味な女王の声が洞窟内にこだました。
(おのれムサカ!裏切りものお!この忘恩の報い、必ずや受けてもらうぞう!呪いじゃ!妾の呪いでおぬしを石に変えてやるぞ!覚えておけムサカ!忘恩の裏切り者には必ずやそれ相応の報いがあることを!)
そして声は続く。
(たとえ妾を殺しても・・・第二第三の”現世に在らざる者”は必ず現れ、イルハーンを支配するであろう。おぬしら魔道の力を持たぬひ弱な人間どもなど、永久に我ら魔族の奴隷にしか過ぎぬのだ。下等な人間の分際でわれら”現世に在らざる者”を倒すことがどれほど思い上がったことであるか・・・呪いの苦しみのなかで思い知り、悔やむがいいわ!)
(ギャーハハハハハハハハ!!)
その黄泉の底から聞こえてくるかのような女王の笑い声は、ムサカの耳には断末の叫びのようにも聞こえ、いつまでも洞窟内に響き渡っていた。
「お師匠さま!」
スヒョンの叫び声が聞こえた。外にいるはずのスヒョンがなぜ・・・と訝しみ、ムサカが振り向くと、その彼を羽交い締めにして不気味に笑みを浮かべる”妖眼の占術士”の姿がそこにはあった。
「そこまでだ。まさか、本当にルナールを倒してくれるとは・・・よくやってくれたと褒めてやろう」
そして短剣を取り出し、スヒョンの喉元にピタリとつける。
「なんのマネだ?」
占術士は笑った。
「小僧の命がほしくば、まずそこに剣をおけ!そして・・・」
その妖眼が妖しく煌めく。
「・・・その宝珠を我によこせ」
ムサカは油断なく、剣を構える。スヒョンの喉元にあてられた短剣が、より深くその肌にくい込んだ。洞窟の闇でわかりにくいが、ロウソクの火に照らされて、そこに血が滲むのが見えた。
「・・・貴様、本当は何者だ?」
ククク・・・と占術士は笑った。
「そうか、まだわが正体を明かしてはおらなんだな・・・よくみるがいい」
そして・・・。 ”妖眼の占術士”の姿が揺らめき、その形を変えはじめた。スヒョンが恐怖のあまり叫び声をあげる。その形が完全に変化を遂げたとき・・・ムサカの両目が驚愕に見開かれた。
「おまえは!」
それは数日前、ダイハーンに向かう船旅の途中、海上に現れたあの奇怪な髑髏面の男の姿であった。その恐ろしい死神のような姿はゆらめきながら宙を舞い、一片の肉もない髑髏の顔を狡猾にゆがめ、ムサカに近づいてくる!そして両腕を広げ呵々と大笑した。
「ナムグルの”妖眼の占術士”とは仮の姿、我こそはペンターゴンの死霊騎士ハイデックなり!魔王サルタンの命を受け、ダイハーンの竜の一族を滅ぼすためにダイハーンに潜伏しておったのだ。そして、隣国イルハーンの女王ルナールを滅ぼすことも、わが主君サルタンの望みでもあった。その意味では貴様はよくやってくれた。あとは竜王をだ。貴様にはまだまだこれから、働いてもらおうぞ」
そしてその瞳のない眼底が不気味な底光りをまして、ムサカの首に下がる宝珠をみつめる。
「その前にまずはそれだ・・・その宝珠を我によこせ!」
「・・・・」
ムサカは宝珠をかばうように握りしめた。そして彼の直感めいたものが警鐘を鳴らす。
この者に決して宝珠を渡してはならない!
「おしえてやろう!その宝珠の真の価値を!おぬしのような普通の人間がその宝珠を持っておることこそがまさに宝のもちぐされよ。その宝玉には偉大なる三つの効力があるのだ」
「・・・・」
「一つは・・・これはもともと、チャイナルの皇帝が、おのれの妖力の増幅のためにと作り出されたものだ。あの女狐のようにわざわざ血なまぐさい儀式などせずともダイハーンの竜どもがあんな幟を街にいくつも立てずとも、この宝珠さえあれば、魔力を無限大に増幅させることができるのだ。そしてもう一つは、今しがたおぬしがルナールを滅ぼしたときに発せられた”破邪の輝き”」
「・・・・」
「持ち主を”現世に在らざる者”より守り、相手の妖力を弱める力がある。それはもう今しがたその力は証明されたがな」
「そして、今一つは・・・持ち主の心の深淵を呼び覚ますこと・・・か」
「フッ、その通りだ」
ハイデックは鼻先で笑った。
「最後の一つなど、我には興味はない」
そしてムサカの剣の技を警戒しているのであろう。スヒョンを抱えたまま、すべるように横に移動する。
「数年前、チャイナルの皇帝が宝珠をある理由で手放したことを聞いた。それから人伝にいろいろな所を渡ったらしい。そしてなぜかあの歌姫にも。その経緯はよくはわからぬが・・・とにかくおぬしやあの歌姫が持っておっても何の役にも立たぬ。さあ、小僧の命がおしくば、その宝珠をおとなしく我によこすのだ!」
「・・・・ことわる」
ムサカは群雲を握りしめ、雄々しくハイデックの前に立ちはだかった。
「貴様のようなものに宝珠を渡してなるものか!この宝珠は使う者によっては人を光で照らすであろう!しかし闇の者が使えば世を暗黒たらしめるであろう!おぬしはこの宝珠の最後の一つには興味はないといった。しかし、その一つこそが俺には光であったのだ!」
ムサカの脳裏に美しい故郷の光景が浮かんだ。あの小川のせせらぎ、草花生い茂る土手に舞う無数の蝶、青空を映す棚田、雪を頂きに残す連山の峰・・・故郷に残したおふくろの苦労を重ねた、その木訥で、なお柔和な顔。
そして今一つ脳裏をかすめたは、愛しきカルファドの歌姫。
(そう、闇に閉ざされておった俺の心に差し込んだ一筋の光・・・あのセルビアとともに・・・)
「・・・光と闇は表裏一体、なれど俺はこの宝珠に光をみたいのだ!ゆえに・・・闇の者である貴様には決して宝珠はわたせぬ!」
ハイデックのその髑髏面に憤怒の情が燃え上がった。
「ならば・・・小僧を殺す!」
そしてその刃がスヒョンの胸を貫いたかと思われた刹那!
「グアア!」とうめき声を上げたのはハイデックであった。ムサカの投げた短剣が、その刃を握る手を貫いたのだ。
「お師匠さまあ!」
と叫んでスヒョンがムサカに駆け寄った。
「一か八かの賭けではあったが・・・現世の剣が通じるとなると、おぬし、魔道は使えても”現世に在らざる者”というほどに極めておるわけではないな」
ムサカは群雲を構え、ハイデックとの間合いを詰める。
「ペンターゴンの死霊騎士、覚悟!」
と、ハイデックの姿がまた変化を始めた。その体が波のようにうねり、巨大化を始める。ペンターゴンの死霊騎士がその本性を現し始めたのだ。
「現世の剣が通じるだと!クックックッ・・・ペンターゴンの魔族を侮るな!」
死霊騎士の妖気が増大を始める。そして巨大な軟体動物のように身をくねらせ、その実体のない体をムサカに覆いかぶせてきた!
「魔剣でさえ、おいそれと死霊騎士には通じぬ。そのこと思い知れ!」
ムサカは魔剣を水平になぎ払った。しかしまるで雲を斬るかのように、その奇怪な体には剣は通じなかった。斬ってもすり抜け、また元の体に戻るのだ。
やがてその幽鬼のような体がムサカを包み込んだ。まるで巨大な大蛇に絞め殺されるかのように精気を吸い取られていく。
(ぬう・・・不覚!)
「お師匠さま!お師匠さまあ!」
スヒョンの叫び声が聞こえるがムサカには答える力はなかった。やがて彼の意識は遠のいていく。
(・・・・)
誰かがムサカを呼んでいる。彼の意識が螺旋の弧を描き、その声の主を捜した。記憶の彼方、光の渦、その彼方に見たものは・・・・「セルビア!」
そうだ!俺にはセルビアがいる!悲しきカルファドの歌姫・・・あの女をおのれの故郷に連れていかねばならない。そして無事帰ったあかつきには、この宝珠を彼女に返さねばならない。そう彼女と約束を交わしたのだ。
こんな所で死ぬわけにはいかない!彼女のもとに帰らねばならない!
「そろそろ、くたばったか?」
死霊騎士が不気味な声をあげる。
その時・・・宝珠が輝きを放ち始めた。
「・・・・!しまった!”破邪の輝き”が!」
ムサカを取り込んだその体の隙間から、光が溢れ出す。
「ぐあああ!」焼けこげるような苦しみが死霊騎士を襲う。彼は激しくのたうちまわった。
その時・・・ムサカはカッと両眼を開いた。
「この宝珠のことを忘れ、俺に襲いかかったのが貴様の運の尽きだ!」
そしてすばやく身をひるがえし、死霊騎士の前に立つ。
「体は斬れぬ。ならば頭はどうだ!」
刹那、魔剣群雲が死霊騎士の頭に突き刺さる!
「ギャアアアア!」
断末魔の声が響き、死霊騎士は跡形もなくその場から消え去った。
「お師匠さまあ!お師匠さまあ!」
憔悴してその場に片膝をつくムサカにスヒョンが駆け寄った。
「大丈夫ですか?お師匠さま?」
「ああ・・・大事ない」
ムサカは微笑みを浮かべた。
「・・・スヒョンよ、たのみがある」
ムサカは首にぶら下げた宝珠をはずし、スヒョンに手渡した。
「これを・・・カルファドの”仙女の憩い亭”の歌姫、セルビアに届けてほしいのだ。
イルハーンの港町ハカトラはここからはほぼ二日の距離・・・そこから船に乗ればすぐにカルファドに帰れる。イルハーンとダイハーン・・・両国の距離はこんなにも近いのだよ、不思議なものだな」
ムサカは静かな口調でスヒョンに訥々と話す。スヒョンには、それはいつものムサカらしからぬ様子に見えた。
「セルビアさんにこれを届けて?わたくしが・・ですか?一体何故です?お師匠さまは、セルビアさんと会うのを、あれほど楽しみにされていたではありませんか?彼女を故郷に連れて帰るために、カルファドに迎えにいくのではなかったのですか?」
「・・・・スヒョンよ、わしはもう行けぬ」
ムサカは再び、静かな微笑を浮かべた。
「ルナールは死ぬ間際、俺に呪いをかけおった。石になる呪いをな。もうすでに足は重くなっておる。徐々に、そしてゆっくりとではあるが・・・石化は始まっておる」
「・・・ええ!!」
スヒョンは絶句した。
「だが、俺はもちろんあきらめるつもりはない。完全に石になる前に、必ずカルファドにたどり着いてやるという気概は持っておるぞ。そしてセルビアと再会することもな・・・。だが、必ず行き着けるという保証はない」
スヒョンはむせび泣いた。
「そんな、お師匠さま、そんな・・・。お師匠さまが石になってしまったら、だれが竜王を倒すのですか?」
その時・・・ムサカは静かに魔剣群雲を鞘に戻し、スヒョンに差し出した。
「竜王を倒すのは・・・ダイハーン人であるおぬしだ」
「えっ?」
驚くスヒョンをムサカは力強い視線で見据える。
「ダイハーンの未来を決めるのは、おぬしらダイハーン人でなければならん。竜王ウリュカを倒すのは、やはりダイハーンの人間が一番ふさわしいのだ。スヒョンよ、この剣を受け取れ!そして竜王を倒し、ダイハーンを民のものに!」
そしてスヒョンの頭を撫で、その剣の柄を彼の手に持たせた。
「そんな!俺にあんな怪物倒せるわけがない!竜王を倒せる人間が、ルナールや死霊騎士をやっつけたお師匠さま以外に誰がいるというのですか?」
「なにも今すぐに倒せとはいわん。修行をして・・そうだな、十年後くらいでいい。
俺が教えた剣の技を日夜鍛錬し、いつか訪れるであろう、その機会に備えるのだ。そう、機会は必ずや訪れる!強なれ!スヒョン!」
スヒョンは涙を拭った。「強くなれ!スヒョン!」・・・ムサカのその言葉におのれを奮い立たせながら、スヒョンは魔剣の柄を力強く握りしめる。
「わかりました、師匠。近い将来必ず強くなり、竜王を倒してみせます」
ムサカは破顔した。
「そうだ、よく言った。それでこそ、俺の弟子だ」
「しかし・・・師匠、これだけは約束してください。宝珠は必ずセルビアさんに届けます。竜王はいつかこの手で必ず倒してみせます。だから、師匠・・・生きて・・・」
ムサカは豪快に呵々と笑う。
「俺は死なんよ。死ねるものか!セルビアとの約束を果たすにまでは俺は死なん。たとえ石になったとしても俺は死なん。さあ、スヒョンよ、泣くのはもうやめろ!お前は俺より急がねばならん。ぐずぐずしていると護衛の兵士がきてしまう。宝珠を必ずやセルビアに渡せよ、スヒョン。そして彼女に伝えるのだ。きっと迎えに行くと・・・このムサカはお前を愛しているとな」
「・・・・わかりました」
「さあ、行け、スヒョン!カルファドでまた会おうぞ!」
スヒョンは涙を振り払い、走り出した。そして洞窟の入り口で振り返り、その滝の轟音に負けぬくらいの大声をはりあげて叫んだ。
「きっと!きっと約束ですよう!お師匠さまあ!」
そしてスヒョンの姿は消えた。
スヒョンの姿が見えなくなったのを確認すると、ムサカは靴を脱ぎ、足をだした。
(・・・・いよいよ、これはいかんな)
その素足は・・・すでに指先からふくらはぎまで石化が進行していた。膝まで石化が進むのももはや時間の問題である。
(・・・セルビア)
おのれがペンターゴンの死霊騎士に精気を吸い取られ、取り殺されそうになったとき、おのれを呼ぶ声が聞こえた。それは間違いなくセルビアの声であった。宝珠を通し、彼女がおのれを救ってくれたのだ。
(こんな所ではくたばれん。しかし・・・間に合うであろうか?)
ムサカは暗澹としてくるおのれの心を必死に奮い立たせ、おぼつかぬ足取りで歩き始めた。待ち人の待つ、異国の港へ向かって。
カルファドへ・・・カルファドへ・・・帰るのだ、セルビアのもとへ!
水平線のはてには雲がたなびき、その雲の方角に向かって海鳥が飛んでいく。
女が港の波止場に立っている。女は潮風にその長い黒髪とあでやかな衣装をたなびかせ、歌を歌っていた。この海の向こうに約束の地があると信じながら・・・。
待ち人はまだ来ない。しかし、彼女は信じていた。”螺旋の宝珠”が必ず待ち人を守り誘うと・・・・。
女はただ待てばよいのだ。いつまでも待ちつづければよい。待つことにはもう慣れた。
あとはふるさとを想う歌を歌い続ければよい。何度となく口ずさんだこの歌を女は、はるかな水平線の彼方に向かい歌い続けていた。
その願いを海鳥が届けてくれるものと信じながら・・・・。
(終わり)