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黄金の国

 

                                                       加藤康弘

  二〇〇七年九月のヤンゴンは曇り空が続いていた。

ミャンマーは二〇〇六年十月に首都をヤンゴンから内陸部のネピドーに移したが、この都がまだミャンマーの中心地であることには違いはなかった。シャイリンは地方からパソコンを習うためヤンゴンに出てきた。近い将来、就職するためには必要不可欠なものと考えていたからである。だから叔父を頼り、叔父が住職を務める寺院に住み込みでこの都に暮らしていた。そのヤンゴンは連日大勢の市民のデモが続き、市内には警官や軍人が武装して異常に緊迫した日々が続いている。

一九八八年以来、何度も民主化を要求する市民のデモが起こり、その度に軍政によって鎮圧され続けてきたミャンマーの歴史…しかし今回のデモはまるで毛色が違っていた。

今、ミャンマーでは数年前では考えられないことが起きていた。シャイリンに大きな転機が訪れたのは、そんな激動の最中であった。その日シャイリンは友人のココラットと共にデモに参加していたのである。

 

 曇り空が青く光った。

 空気が震えるような僧侶たちの読経の音、群衆の罵声、投石…それらすべてが一瞬、氷ついた。それは時間そのものが止まったかのようでもあった。

 そして、次の瞬間!

 この世界の全てが崩壊するかのような轟音が天地を揺らした。

 雷鳴である。

 青い光が何度もフラッシュバックのように空間を駆け抜け、シャイリンの端正な顔を照らした。その目はどこか不安げな光を宿してもいた。シャイリンには次に何が始まるのか、予感めいたものを肌で感じていたからだ。

 「あいつらに天が怒っているんだ」

 となりでココラットが吐き捨てるように言った。雷鳴は天の怒り。その怒りの矛先は、当然、目の前の敵に向けられているものとココラットは信じたいのだ。

 広場を埋め尽くした無数の僧侶、そして群衆…。道を1つ隔てた向こう側には、それに対峙して武装した兵士たちが不気味に静まり返っている。曇り空のもと、それは黒々としていかにも不吉な感じがした。

 先ほどまで鳴り響いていた拡声器の声は、今はまったく鳴りをひそめている。

 「集会をすぐに解散しなさい」ということを呼びかけていたのだが、もとより彼らの言うことを聞くような者は、この場所に集まってはいない。むしろみな、怒りに震えている。

 シェータコパコタに集結したデモ隊が、軍に襲撃を受けたという情報が携帯電話を通じて入っていたからだ。

 300メートルほど離れた場所にヤンゴンシティホールが見える。そこへ通じる道路をはさみ不気味な沈黙のもと睨み合いが続いていた。その均衡が今、崩れようとしている。

 そして兵士たちが…動いた。みな銃や棍棒を持っている。兵士たちの殺気だった空気をシャイリンは感じとり、となりのココラットと顔を見合わせた。

 無数の罵声と同時に群衆からの投石が始まった。兵士たちはそれを振り払い、棍棒を振りかざしながら群衆に迫る。悲鳴や怒号が渦のようにあちらこちらで巻き起こり、大混乱になった。シャイリンは混乱する群衆に揉まれながら、ココラットに声をかけ必死に逃げた。グズグズしていたら、兵士たちの餌食なってしまう。その恐怖と理不尽な暴力に対する怒りがシャイリンの心を支配した。

 兵士たちは、混乱する群衆にまるで小魚の群れに襲いかかる鮫のごとく殺到した。1人ずつ取り囲み、首といわず腹といわず棍棒で殴る。悲痛なうめき声や悲鳴が無数に天にこだました。

 シャイリンはその阿鼻叫喚の中をココラットと必死に走る。あちこちで銃声が鳴り響く。それが恐怖に拍車をかけた。そして目の前に飛び込んできた光景に息を飲んだ。兵士達が僧侶にも暴行を加えているのだ。

 (…!)

 神聖な僧侶にも暴挙を働くとは!

 みれば、あちらでもこちらでも僧侶が仰向けに倒れ、兵士たちに棍棒で殴られている。その袈裟が血に染まっている者もいる。サフランの花の雌蕊の色、赤色に染め上げられた僧侶の袈裟…それはビルマ人にとって神聖な色であった。ビルマの太陽を象徴する赤色。その袈裟が血に染め上げられ、どす黒く変色しているのだ。

 シャイリンは激しい義憤にかられた。

 シャイリンは地方からパソコンを習うためヤンゴンに出てきた。近い将来、就職するためには必要不可欠なものと考えていたからである。そして寝泊まりをしているのは、伯父の寺院であった。その僧侶たちもこのデモに参加している。その彼らの姿が兵士に暴行を受けている僧侶と重なって見えた。

 我知らず、シャイリンは僧侶に暴行を働く兵士たちに突進していった。

 無我夢中であった。

 まるで自分が野獣になったような感覚だった。そして無数の怒声がシャイリンの耳をつらぬく。ココラットの声が後ろでシャイリンの名を叫んでいた。

 僧侶を取り囲んだ兵士の1人を押し倒したところまでは覚えている。押し倒した兵士の荒い息使いがまとわりつき、妙に耳元に残った。

 気がつけば、シャイリンはココラットとヤンゴンシティーホールを尻目にボンアオジョウ通りへと抜ける大通りを走っていた。群衆や僧侶たちも1つの方向に向けて走っている。後ろから発砲する音がいくつも鳴り響いていた。

 しばらく走り、息を整えるために歩き出した2人は顔を見合わせた。親友の表情からシャイリンはココラットが自分を兵士たちから救ってくれたことを悟った。彼の腕や首筋から血が滲んでいるのが見えた。兵士に馬乗りになったシャイリンを、棍棒の雨が降る中、必死で兵士から引きはがし、ここまで逃げてきたのだとココラットは言った。

 怒鳴られるかと思ったが、ココラットはほっとした表情で「お前が無事でよかった」と笑った。

 ココラットとは同じ専門学校に通い、パソコンを習う仲である。地方から出てきたシャイリンとは違い、生粋のヤンゴン生まれヤンゴン育ちであった。

 シャイリンがヤンゴンに出てきた当初は、同級生にヤンゴン育ちが多く、ルームメイトに対してどうしても気おくれするものがあった。そんなシャイリンに分け隔てすることなく接してきたココラットとは自然に仲がよくなった。今ではシャイリンがココラットの家に毎晩、食事をよばれるほど親密な関係になっている。

シャイリンもココラットもデモに参加するのは初めてである。

シャイリンが今回のデモに参加するのには大きな理由があった。それは祖父の影響である。

シャイリンの祖父は1988年の民主化デモなど、ミャンマー民主化のために命がけで闘ってきた闘士であった。ヤンゴン工科大学の学生デモに端を発するミャンマーの民主化要求運動は、アウンサン・スーチー女史をはじめ、多くの活動家を生んだ。スーチー女史の政治団体NLDが90%近くの得票と議席を得た1990年の総選挙躍進の原動力にもなった。しかし軍政は、政権の委譲を拒否。

多くの政治活動家を検挙して悪名名高いインセン刑務所に送り続けた。シャイリンの祖父も逮捕されインセンに送り込まれて獄中で亡くなった。

そんな祖父をシャイリンは尊敬していた。だから彼がこのデモに参加するのは至極自然なことであったのだ。

デモを大規模にする必要を感じたシャイリンはココラットを誘った。

「よしやろう!」

ココラットは燃えるようなまなざしをシャイリンに向けて言った。

ミャンマー政府はこの8月に燃料の公定価格をガソリン4.5リットルあたり1500チャットから2700チャットへ、圧縮天然ガスを1リットルあたり10チャットから50チャットへ値上げした。

2年前も政府は燃料の10倍近い値上げを強行している。

燃料だけではない。食料品、食用油など生活必需品の物価上昇はここ1年ほどで異常な高騰を続けており、もはや国民の生活苦は限界にきていた。そこへきて今回の異常な燃料の値上げである。

みな政府の一方的なやり方に怒っている。ココラットの実家は小さなタクシー会社を経営しており、その影響は計り知れない。2年前の値上げですら、大きな痛手であった。生活はなんとか凌いできたのだが、

食料品や食用油の高騰と相まって、その圧迫された家計は火の車どころではなかった。今回の燃料価格の大幅な値上げは、そういった家計の事情にさらに追い打ちをかけるものであった。

それが、ココラットがこのデモに参加した大きな理由である。

このデモにはシャイリンやココラットだけだはなく、同級生も多く参加していた。

それは、政府に対する大きな怒りであった。シャイリンやココラットだけではない、このデモに参加している人々は、理由は違えども同じ怒りをもって参加しているに違いなかった。

 そうした民衆のうねりに呼応して今回のデモには多くの僧侶たちが参加してきた。長年続く民衆の苦しみと軍政の横暴に彼らもついに立ち上がったのだ。それは1988年の民主化要求デモにはなかった大きな特徴といえる。

 また、周辺が騒がしくなった。大勢の群衆が逃げてくる。軍がまた棍棒や銃をかざして群衆を追い散らしているのだ。シャイリンはココラットと顔を見合わせ、また走った。

 祖父が入れられたインセン刑務所が頭をよぎる。政治囚を収監する悪名名高い刑務所。政治囚は拷問され女性ならレイプをされる。収監される牢は犬の檻と変わらないという。シャイリンの祖父も時にはひどい拷問をされるなどその処遇の悪さが原因となって獄死した。捕まったなら、そこへ入れられてしまう。そんな恐怖が逃げるシャイリンとココラットの背を押した。祖父を尊敬し誇りに思う気持ちとは裏腹に「祖父のような酷い目にはあわされたくない」という感情がシャイリンの心中を駆けめぐる。

 前方に2トントラックがノロノロと走っているのが見えた。逃げ惑う群衆に阻まれてスピードが出ないのだ。何人かがトラックに飛び乗っている。

 「あれだ!」

 シャイリンは指をさし、ココラットに促した。シャイリンはトラックの荷台に走り込むむように飛び乗った。

 飛び乗ってからシャイリンは振り向き唖然とした。ココラットが転んでいる。トラックに乗り損ねてしまったのだ。兵士たちがココラットに殺到してくるのが見えた。

 シャイリンは叫んだ。

 「立て!早く乗れ!」

 ココラットは立ち上がり、必死に走る。兵士たちが今にも追いすがろうとしていた。

 ココラットは走った。彼は脚は早い。兵士たちとの間隔が少し開いてきた。

 ココラットを荷台に引き上げようと、シャイリンは必死で手を伸ばした。

 すると、トラックが急にスピードを上げ始めた。前方の群衆がまばらになり、走りやすくなったのだ。

 「がんばれ!もう少しだ!」

 シャイリンは叫びながら手をめいっぱい伸ばす。荷台に乗り込んだ他の者も声を上げてココラットを激励していた。

 そして、ココラットが手をのばした。シャイリンとココラットの指先が触れた。

 その瞬間だった。

 トラックはスピードを上げて走り出し、シャイリンとココラットの手が離れた。

 シャイリンは茫然とした。

 トラックの運転手は、この騒ぎで荷台に何人も人が乗り込んでくるのが怖くなり、パニックになったのだ。

 ココラットはシャイリンを見上げながらその場に立ち尽くした。後ろから兵士が殺到し、ココラットを取り囲んだ。そして彼をねじ伏せている。

 シャイリンは悲痛な叫び声をあげた。

 「ココ!!ココ!!」

 シャイリンは飛び降りようとしたが、後ろから抱き留められた。

 シャイリンはココラットの名を叫びながら、泣き叫んだ。

 トラックはスピードを上げはじめる。

 その荷台にはシャイリンの慟哭がいつまでも、いつまでも響き渡っていた。

 

 

溶接の火花が無数に飛び散って、真一の持つバイザーの黒々としたガラス面に鮮やかに光った。季節はずれの線香花火のようである。

 一通り作業が終わると、幸市の怒鳴り声が聞こえてくる。社長と口論をしているようだ。

 お互い仕事のやり方で喧嘩をするのはいつものことである。もうじきに収まるだろう。ただ猫の手も借りたいほど忙しく、納期も近い今、あまり無駄なことに時間をかけてほしくはないものである。

 口論が終わると社長が申し訳なさそうな顔をして、真一に声をかけてきた。

 「すまんな、1時間残業してくれんか?きちんと残業代は払うから」

 真一は確信した。幸市と社長は残業を巡って口論をしていたようだ。先月の残業代がまだ未払いなので、幸市が喰ってかかったのだろう。大方「先月の分払うまで残業はやらん」と頑固に言い張ったに違いない。

 幸市の言い分はもちろん正当だが、社長もつらいところだ。真一の勤める西山マシンツールズは、数年前まで正規やパートなどを含めて何人かの社員を雇ってきたが、ここ数年仕事が減ってきて、労働者を雇える状況ではなくなってしまった。今は真一と幸市、そして最近入ってきた若い外国人だけだ。

 真一に溶接を教えてくれた先輩は、他の大手鉄工所に引き抜かれる形でこの会社を辞めてしまった。今、溶接の技術を持っているのは、社長と真一しかいない。

 苦しい台所事情を真一は理解している。幸市も解ってはいるだろう。しかし、ただでさえ基本給が少ない職場である。残業代がつかなければ、こんな仕事などやっていられるものではない。

 真一は、自分の家賃の関係もあるので、幸市が社長と掛け合ってくれるのはありがたいと思っていた。残業代がつかなければ、真一の生活は困窮を極めるので、家賃が滞ることもあるのだ。

 隣では、最近入ったばかりの若い外国人がおぼつかない手でできあがった部品を手入れしている。

 社長は彼にも声をかけ、人差し指をつきたてて1時間の残業を指示した。彼は端正な顔を社長に向け、コクリとうなずく。

 「おい、いつまでモタモタしているんだ。はやくやれよ」

 彼の作業がはかどっていない様子をみて、真一は怒鳴った。意味は通じてないだろうが、とりあえず、怒られていることだけはわかっただろう。

 真一は、この若い外国人がどこの国から来ているのかは知らない。

 浅黒く端正な顔立ち…真一より年齢は下らしい。寡黙な性格なのか、ただ日本語が充分に使えないだけなのか、あまり喋らないので真一とはまともに会話をしたことがなかった。

 名前も覚わっていない。確か女性のような名前である。日本語がしゃべれないので会話すらかわしたこともなかった。

 ただ気の短い真一は、彼の仕事ぶりを見ているとどうしてもイライラとしてしまうのである。

 仕事が終わると、幸市が「飲みにいこうや」と真一を誘った。

 白髪が所々混じった頭で幅広い顔をしている。とうに定年を過ぎていて、社長とは古い知り合いということである。かつては国鉄に勤めていたそうだが、国鉄からJRに変わった時、幸市は再入社できなかった。幸市いわく国鉄時代に労働組合運動をやっていたから、解雇されたようなものだということである。

 幸市の権利意識はその頃から培われたものなのだろう。若い真一にも、いろいろなことを教えてくれる。ただ、どこか偏屈で頑固な性格にげんなりとする気持ちもあった。

 仕事も終わり、幸市のおごりで飲みに行くのはやぶさかではないが、国鉄時代の昔話を聞かされるのはいつものことながら、勘弁してほしいところだった。

 「おい、お前もいくか?」

 幸市は外国人も誘った。

 彼はニコリと笑い、「ごめんなさい」と片言の日本語で断った。

 「そうか、よし真一いこうや」

 幸市はあっさり了承した。そして行きつけの飲み屋にそのまま真一と連れだった。

 「あいつ、つき合い悪いっすね」

 真一は毒づいた。仕事ぶりもそうだが、人付き合いなど、社会人として基本的なことができていないのをみると、どうしてもイライラしてくる。そんな真一を幸市はなだめた。

 「あいつも大変なんだよ。日本語をどこかの教室で習っているらしいけど、まだ会話ができないから、俺たちとつき合うのも難しいのだろう。でもこれからも気軽に誘ってやろうや」

 真一は不思議に思った。会話ができないのに、どうやって仕事をおぼえていけるのだろう?その疑問を口にすると幸市は笑った。

 「日本語はある程度理解しているのさ。ヒアリングはできるというやつだな。聞くことと会話することというのは違うんだよ。だからお前、あいつの前であまり悪口は言わないほうがいいぞ」

 真一はどきりとした。彼がたまに仕事のミスをすると、どうしても悪態をついてしまう。

 「あいつのこと、やけに詳しいですね」

 「なに、社長に教えてもらったんだよ」

 幸市は結構な情報魔である。また、この年齢に見合った色々なことを経験もしている。若い真一には新鮮さを覚える様々なことをよく知っているので、それはそれで彼とつき合うことにはメリットがあった。

 「ところでどこから来ているんです?あいつ」

 真一は日頃の疑問を口にした。

 「あいつか…あいつは」

 幸市は夕陽が赤く染め上げている空を見上げて言った。

 「ミャンマーだ。5年前、僧侶や群衆がデモをやってニュースになっただろ?カメラマンの長井さんが撃ち殺されて…あいつは、それにも参加していたそうだ。そこから逃げのびてこの日本にきたんだよ」

 

 真一はこの日初めて、彼がシャイリンという名であることを知った。

「ミャンマーはかつて日本の植民地だった国で、戦前戦中の日本の軍国主義を真似して今の軍事政権のような独裁国家になったと言われている。まあ、あの国の民衆が苦労してるのも、元を正せばかつての軍港主義だった日本が原因だったというわけさ。少なくとも俺はそう思っている」

 店内には古い演歌が流れていた。真一にはなじみのない曲なので、今は黙って幸一の話を聞くしかない。

「あそこでお坊さんがデモしたりしたことがあっただろ?サフラン革命とか言って…欧米ではサフランの雌しべの色、これは赤色なんだが、その色の袈裟をきたミャンマーの僧侶が立ち上がったことにちなんでサフラン革命と呼ばれているのさ」

幸市の目の前に生ビールがドカンと置かれた。幸市はうれしそうに手をさすり、ジョッキに口をつけた。

「日本に支配される前はイギリスの植民地だったけどな。イギリスの植民地時代、なんとか祖国を植民地から独立させようと立ち上がった人たちがいた。そのリーダーがあの有名なアウンサン・スーチー女史のお父さんアウンサン将軍と軍事政権前の首相だったネウィンという男だ」

 「へ~え…」

 真一はまるっきり生返事である。

「彼らは日本と協力して…まあほとんど日本に利用されたようなものだが…イギリス軍を祖国から追い出し植民地時代を終わらせた。しかし、このアウンサンとネウィン、その後で対照的な生き方をする。まあ、ここからがミャンマーの歴史の面白いところで、今のミャンマー情勢に通じてくるわけよ」

「ふ~ん…」

 真一は、つまらなそうに枝豆を皮から出してその中味を頬張った。

「しかし日本も植民地支配ということではイギリスと何も変わらなかった。彼らは、今度こそ本当の祖国解放を勝ちとるためにまた立ち上がった。外国の力を借りていては真の独立は勝ち取れないと悟ったんだ。やがて日本が戦争に負けてビルマは…かつてミャンマーはビルマと呼ばれていたんだが…独立した。ここからが今のミャンマーの成り立ちに繋がってくる。アウンサンとネウィン、2人の確執によりアウンサン・スーチー女史を中心とする民主化勢力と、日本の軍国主義を手本にした独裁国家、軍事政権の闘争の歴史になるんだ」

 「…あっそう。でも俺、あんまり興味ないから」

 そっけない真一の反応に幸市は思わず舌打ちをした。

 「なんだよ、面白くねえ…」

 やけでも起こしたかのように幸市はまたグイッとジョッキを傾けた。

 「でもおっさんってさあ、そんな外国の歴史のことまでよく知ってるよな。そこだけは感心するわ」

 真一は幸市のことを「おっさん」と呼ぶ。「堅苦しい仲は苦手だから」と幸市がそう呼ばせているのである。

 幸市はそんな真一のお世辞など意にも介さず、ただジョッキを傾けて三口ほどビールを流しこんだ。

 「それよりシャイリンだよ。あいつは母国には帰れねえ。なにしろあの国では、デモの首謀者はもちろん、参加した人間を投獄しちまうひどい国だ。だからあいつらは日本とか他の国に逃げているんだ。シャイリンはたまたま日本にきたようだが…」

 「…」

「あいつ早く日本語がしゃべれるようになるといいなあ。こうやってビール飲み交わしてよう。いつもお前と2人きりというのもそろそろ飽きてきたしよお」

 幸市はグイッと生ビールを飲みほし、機嫌よさそうにもう一杯注文をした。

 「俺は勘弁願いたいっすよ」

 真一は枝豆を口に頬張りながら吐き捨てるように言った。

 「うん?どうしてだ?」

 幸市は目をトロンとさせている。まだ一杯しか飲んでいないのにもうまわっているようだ。酒を飲むことは好きだが、あまり強いほうではない。

 「外国人は嫌いか?」

 「いや別にそうじゃねえけど…う~ん、うまく言えないんですけどねえ…」

 真一はジョッキをグイッとあおった。

 「なにか違うんですよねえ、雰囲気といい。感覚というか、どこか日本人とずれてる気がするから…」

 「そうか?俺はあまり変わらない気がするけどなあ…おい、タバコいいか?」

 真一が返事をするより先に幸市はもうタバコに火をつけた。

 幸市いきつけのこの居酒屋は「桔平」といい、カウンター席と座敷のテーブルが3つほどのほどの昔ながらの小さな居酒屋である。幸市や真一はカウンター席にいる。

 他にも会社帰りのサラリーマンが4~5人ほど来ていた。みな仕事関係の話をしながらだろうか?瓶ビールをコップについであおっている。騒ぐ客はいない。酒が進むとドンチャン騒ぎを始める客もいないわけではないが、穴場的な店なのでどちらかといえば静かである。

 真一は灰皿を幸市の前に出しながら、「あれ?辞めたんじゃなかったんですか?」と皮肉を言った。

 「禁煙始めたぞ…なんて言ってたの、ついこの前じゃないですか?」

 「そうだったかな?」

 幸市はすこしとぼけた返事をして煙を吐いている。

 「ところでお前、まだ空手やってるの?」

 空手のことに話が向けられて真一は少し誇らしげな表情になった。

 「来年、初段っすよ。黒帯になったら、もうおっさんと飲みにいけないかもしれませんね。なにしろ稽古で忙しくなるから」

 「そうかい?まあいつも体を動かして、酒もタバコもやらなきゃ、それは健康にいいことだなあ」

 タバコをひとしきり吸うとジョッキのビールをまた口に含んだ。自身の健康などまるで他人事ごとだと言わんばかりである。

 「おっさんもやりなよ。すっきりするからさ」

 幸市は思わず、ビールを吹きそうになった。

 「ばかいえ、なんで俺がいまさら…そうだ、誘うならあいつを誘えよ」

 「あいつって?」

「シャイリンだよ」

 幸市は機嫌良さそうにジョッキをテーブルに置き、真一の顔を覗きこむように見つめた。

 「礼儀とか節度とか、空手を通して日本の文化を教えてやればいいじゃねえか」

 「論外っすよ。第一、あいつとのコミュニケーションどうするんですか?」

 「日本語一生懸命に習っているらしいから、会話できるようになってからでいいさ。俺は同じ職場の仲間としてあいつに早く馴染んでもらいたいんだ」

 酔ってその口調は呂律も回っていない。ただその焦点の定まらない幸市の瞳が、一瞬だけ真剣味を帯びたように真一には感じられた。

 「簡単に言いますけどね、日本の精神文化を外国人に教えるのはかなり難しいと思いますよ。俺は自信ないッスね」

 真一はえらそうにそう言うとジョッキのビールを飲み干した。しかし、実際に空手を教えるのは真一ではなく、道場の指導員である。

 「…お前って奴はいつもそうだな」

 幸市はなかば呆れたように店の天井を仰いだ。

 「あいつはダメ、こいつも使えない、あいつは根性がない…いったいお前さんのおめがねに適う奴がこの世に何人いるのかねえ。完璧な人間なんてどこの世界にもいねえよ」

「何言ってるんだよ。おっさんだって最近の若い奴はだめだ、全然なってないなんて口癖のように言ってたじゃないか」

 真一は反駁したが、虚しい気持ちにもなった。幸市に指摘されたような、自分の許容範囲の狭さは道場の先生たちからも指摘されていることなのだ。

 幸市は笑っている。彼自身、真一に指摘されたことに反論する気はなさそうである。

 ただそんな「最近の若い奴」のなかでもめずらしく、真一は一本気で根性が据わっている貴重な存在だと思っているふしもあった。

 「まあ、一回声をかけてみろ。やるかやらないかはあいつ次第だし。おいおねえさん、ネギマ持ってきてくれ」

 上機嫌で注文する幸市を尻目に、真一はただ黙ってビールをあおいでいた。

 

 ドスの利いた怒鳴り声と派手にものが壊れる音がした。続いて金物が散らかる金属音が響きわたる。真一は部屋の中で小さくなり、はやく嵐が過ぎ去ってくれることをひたすら祈っていた。

 無機質な灰色の部屋だった。片隅にテレビが置かれている。番組はニュースしかやっていない。女性キャスターが抑揚のない声でなにか喋っている。

(今日のニュースです。昨夜未明、一家4人が無理心中する事件がありました)

 そんな言葉を延々と繰り返している。

(今日のニュースです…昨夜…心中…事件がありました)

(今日の…昨夜…事件がありました)

(…事件がありました)

(…)

 真一はなお丸くなり耳を塞いだ。

「…!!」

「…!!」

 ガシャン!!

 ガシャン!!

 怒鳴り声と金属音も無数に響き徐々に大きくなる。真一はただひたすら体を小さくしてうつむき、耳を塞ぐだけだった。そして目が覚めた。

 「…」

 アパートのカーテンが開けっ放しの窓から、日がさしている。

 たまに見る夢。同じ夢をこれまで何度も見ている。見慣れた夢だった。しかし、何度見ても気分のいい夢ではない。

 消したくても消えないものが何度も脳裏から甦り、真一につきまとう。思わず「クソ!」と悪態をつき枕を壁に叩きつけた。

 時計を見ると、もう7時だった。出勤は8時からなのでまだ間に合うが、朝の目覚めが早い真一としては寝過ごしたほうであった。昨日、幸市につき合って飲み過ぎたようだ。

 (おっさん…今日、ずる休みするかもな)

 遅くまで飲んだ翌日の幸市はずる休みの常習犯である。

 今日はあのシャイリンと2人だけで作業か…と思うと気分が暗くなった。実質、自分と社長だけで仕事を回さなければならないからである。

 出勤してみれば案の定、幸市は休みだった。出勤早々、社長が真一の顔を見るなり「幸市のおっさん風邪ひいたそうだ」と告げたのである。

 真一より早く出勤していたシャイリンが、1人黙々と作業をしているのだが、相変わらず手際が悪い。

 (シャイリンに声をかけてみろ…)

 昨日の幸市の言葉が真一の耳に残っていた。

 社長は工場の隅で製品の点検をしている。西山マシンツールズは大手自動車メーカーの機械を製造している会社である。納期が間に合わなければすぐに仕事を打ち切られる厳しさと背中合わせの零細企業でもあった。同時に、不具合のある製品ももちろん出すことは許されない。

 シャイリンがやっている作業はネジを切る単純な作業だが、それでも幸市や真一がやれば2倍から3倍の作業効率である。シャイリンがまだ習い立てとはいえ、真一は彼の仕事ぶりを見ているとどうしてもイライラしてきてしまう。仕事をとりあげて代わりにやってやりたいところだが、真一には真一の進めている作業もある。ヤキモキしながらも彼を見張り、自分の工程を進めて行く以外になかった。

 本来、新人社員の育成は社長の仕事のはずだが、社長はなぜか真一にそれを押しつけ、自分は忙しそうなふりをしている。幸市にしてもシャイリンのことはやけに詳しいが、仕事を教える姿など見たこともない。

 (冗談じゃない!)

 真一は考えるだけでまた腹が立ってきた。

 いやな仕事を若い社員に押しつけるのはどこの会社でもありがちだが、この西山マシンツールズも例外にもれるものではなかった。

 シャイリンの横には切ったネジを入れるバケツが置かれているが、中を見ればバケツの半分ほど製品が入っているのが見える。

 朝早くから出勤していたためか、昨日よりは比較的作業は進んでいる様子である。

 それでも相変わらず効率が悪い。真一は、暗い気分に支配された。今日は幸市がいないのでシャイリンにはある程度能率をあげてもらい、他の仕事も手伝ってもらいたいところであった。

 「おい、急げよ!」

 真一は不機嫌そうに声をかけた。

 シャイリンに真一の声が届いたのかどうか…彼は相変わらず黙々と目の前の作業を進めている。聞こえているのなら返事くらいはしてほしい。真一が彼に対する不満の1つにその無愛想さもあった。幸市や社長には「はい」とか「すみません」とか片言ながら返事はするのに、自分とは今まで会話らしい会話などしたこともないのだ。

 「おい、わかっているのかよ!」

 真一は思わず声を荒げてしまった。

 シャイリンはビックリしたように真一の顔を見た。そして「はい、わかってます」と一言だけ言った。

 真一はもうそれ以上何か言うのをやめた。会話のできない相手にそれ以上何も言うことはない。それでも不満だけは募る。

 社長が来て「幸市のおっさんから電話あって、風邪の具合がよければ昼頃来るそうだ。それまで2人でがんばってくれ」と告げた。

 納期が近いためか、丸一日休むことに後ろめたい気持ちがあるのだろう。どのみち出勤できるのだから調子は悪くないのである。ただ、2日酔いがきついだけなのだ。

 そう考えて真一はまた、機嫌が悪くなってきた。

 その不満をどこにぶつけたらいいのか…。

 作業を始めた真一は、意味不明の悪態を口にし続ける。

 それも幸市に対する悪口だ。しかし火花の音でそれはかき消される。それでも一通り、幸市の非難を言い終わるとどこか気分がスッキリした。

 作業を続け、やがて昼近くになった。そろそろ弁当を買ってきてもいい時間である。

 いつもなら幸市が「おい、買ってきてくれ。お釣りはお前にやる」と言って真一に使い走りをさせるのだが…。どうやら彼が顔を見せるのは昼過ぎになりそうだ。

 真一がふとシャイリンのほうを見る。

 「…!」

 作業がまるではかどっていない。

 ネジを入れるバケツの中がまだ一杯分しか満杯になっていないのだ。

 よくみると、出来の悪いネジがいくつも見受けられた。こんなネジでは機械の組み立てにはまるで使えない。真一はたちまち不機嫌になった。

 真一は溶接をやめてシャイリンを手伝うことにした。仏心が芽生えたわけではない。むしろ意地悪い気持ちに支配されていた。溶接をやっていては声や音が聞こえない。だからわざと自分の作業を棚上げにしてシャイリンの近くにきたのである。

 「…あ~あ、どうするんだよ。こんなにしちゃって。このネジ使えないだろ」

 真一はわざと出来の悪いネジを見つけてシャイリンの目の前に突き出した。

 「…」

 「おい、黙ってないで何か言えよ」

 真一はシャイリンを睨んだ。

 「…すみません」

 シャイリンはそれだけ言うと目を伏せて作業を進めた。

 「あれ?こりゃひどいできだな。おい見ろよ、こんなの使えるかよ。あれだけやり方教えたのに…お前、今まで何やってきたんだよ」

 「…」

 シャイリンは黙っている。

 「やってられねえな。なんでこんなグズな奴と仕事しなきゃならないんだろ…」

 真一は自分の感情がもはや制御できないことを自覚した。しかしこういう形でしか鬱憤を晴らすことができないことに自らを恥じる気持ちに気づくことはなかった。

 ただ自分でもなんとも形容しがたいものに支配され、そういう自分をただ許容するだけだった。

 「…」

 「おい、はやく手を動かせ!」

 「…はい」

 シャイリンの手の動きが若干早くなった。しかし、真一からみればまだまだ不十分だ。

 「まだ遅いんだよお前」

 「…」

 「ほんとにのろまだな。それとも…お前の国じゃそれが当たり前なのか?」

 「…」

 「まったくろくなもんじゃねえな。お前の国の奴もきっと同じだろうな」

 「…」

 「お前の友だちもどうせろくな奴がいないだろ?」

 この時…真一はまったく気づいていなかった。

 彼に対して言ってはいけない言葉を発したこと、そして彼の手が震えていることなど、シャイリンの様相の変化である。

 仮にも武道空手を習い、それを誇りにしている真一である。不覚としか言いようがない。

 そして…その瞬間は、空手の試合ですら経験したことのない衝撃であった。

 真一の道場では、顔面に防具をつけて顔の急所を狙い競い合う試合がある。その威力や正確さでポイントを奪い合うのだが、本当に威力のある突きは防具越しにも効いてくる。

 その一撃は…今まで真一が出場してきたどの試合の相手より強烈であった。しかも顔を防御するものは何もない。

 一瞬火花が飛び散り、目の前が真っ白になる。

 気がつけば仰向けに倒れ、工場の無機質な天井を眺めていた。鼻から生暖かいものが流れているのを自覚する。手で拭き取ってみればそれは真っ赤だった。

 「…」

 シャイリンをみれば、彼の浅黒い顔も怒りに引きつっている。そしてミャンマーの国の言葉だろうか?真一には理解できない言葉で喚いていた。それは今まで真一が見たこともないシャイリンの姿だった。

 真一は茫然としている。しかしそれも長い時間ではなかった。すぐに起きあがり、シャイリンを睨みつける。

 そして…怒りとも屈辱ともいえない止めようのない衝動に駆られた。

 遠い過去に、同じくらいに強い衝撃をその顔に受けた記憶が呼び覚まされていた。

 それは真一が空手を習い始める遥か前…。

 ドスの利いた怒鳴り声と派手にものが壊れる音…。

 響きわたる金属音…。

 部屋の中で小さくなり、はやく嵐が過ぎ去ってくれることをひたすら祈るだけの日々…。

 片隅にテレビが置かれているだけの無機質な灰色の部屋…。

抑揚のない声で喋るテレビの中の女性キャスター…。

 無数に響く怒鳴り声と金属音…。

 その記憶が鮮明になった時、真一は自分の本当の怒りと屈辱の正体がわかり、どうしようもない感情に震えた。

 「ウオー!!ウオー!!」

 獣のような雄叫び…!

 それは、真一の中で抑圧されていたものが、一気にはじけ飛んだ瞬間でもあった。

 真一はすぐに立ち上がりシャイリンに突進する。そしてその怒りにまかせてシャイリンに殴りかかる。真一の拳で今度はシャイリンが倒れた。

 倒れたシャイリンに馬乗りになりその首に手をかける。シャイリンも負けじと下から真一の首をつかんだ。

 「おい!こら、やめろ2人とも!」

 社長が慌てて止めに入った時には、土埃にまみれて2人の作業着が真っ白になっていた。

 工場は剥きだし地面なので汚すのに時間はかからなかった。2人のその顔をみると目尻や鼻、唇などあちこちが腫れ上がり出血している。その被害の様相は甲乙つけがたく、奇妙なくらいに平等であった。

 「おう2人とも!随分色男になったなあ!」

 ガハハと笑い声が聞こえ、見ると幸市であった。

 いつ来たのだろう?昼休みが終わり、正午過ぎに出勤すると思っていたのだが、思いのほか早く殿様出勤してきた様子である。案の定、風邪をひいた様子は見受けられない。

 「まあ社長、説教は勘弁してやれよ。こいつら若いからエネルギーが余っているのさ。それがたまたま暴発しちまったんだよ」

 そう言ってまた呑気に笑う幸市を、うんざりした気持ちで睨みながら真一は、ただ口の中にたまった砂や血を地面に吐き捨てるだけであった。

          

 「おっさん、ずる休みも大概にしてくれよ。ぜんぜん元気そうじゃねえか」

 真一は腫れ上がった目を濡れたタオルで冷やしながら、幸市を睨んだ。鼻にはティッシュペーパーが無造作に詰め込まれている。

 「ばか言え、卵酒を今朝飲んだからこれだけ元気になったんだ。ずる休みじゃねえ」

幸市は悪びれることなくタバコを口にくわえ火をつけた。

 シャイリンは作業を再開している。相変わらず黙々と作業に没頭していた。彼の目も片方が腫れ上がり頬も2倍ほど膨れあがっているのが見てとれた。  

 「…」

 真一は、不思議なほど彼に対する憎しみが沸いてこないことを自覚した。

 今は感情が奇妙なくらいに落ち着いているのだ。

 お互いに感情を爆発させたこと、遠慮無く拳を交えたこと、そして彼が初めて自分に「向かってきた」こと…それが作用しているのだろうか?

 ただ目の前で、呑気に煙を吐いている同僚の「おっさん」だけはどうも大目にみることができない。

 「おっさん今のうちの状況わかっているんだろ?社長含めても4人しかいないんだから…簡単に休まれちゃ困るんだよ」

 「そう思ったからこうして出てきたんじゃねえか。納期も近いし…それよりよう…」

 幸市は真一に顔を寄せた。

 「お前、随分派手にやられたよな。空手習っているお前がなあ…おとなしそうにみえてあいつ、なかなか骨があって面白いやつかもしれない」

 幸市はシャイリンのほうをやや見やって声をひそめた。

 真一はやや苛立った。不覚にも素人にこんなにやられてしまったのである。不愉快極まりなかった。

 しかし、シャイリンの意外な向こう気の強さに面食らったと同時に、彼を見直す気持ちが出てきているのも事実だった。そういう意味では「なかなか骨があって面白い奴」なのかもしれない。

 その日、真一はシャイリンと言葉を交わすことはなかった。

 やはり気まずかった。なにより殴られたあとのダメージの蓄積もあり気持ちも重かった。

 (でも、おっさんの言う通りだな。あいつなかなか強い…)

 真一は頬をさすりながら帰宅の途についた。真一のアパートは工場から歩いて5分ほどの場所にある。

 夕陽が真一の腫れ上がった顔を照らしていた。この界隈は町工場が立ち並び、大手自動車メーカーの下請けや鋳物など、鉄工関係の会社がほとんどであった。鉄粉が出る時の独特の焦げ臭いにおいが風に乗り真一の鼻を刺すようにくすぐる。

 今日は空手の稽古日である。家に帰ったらすぐに作業着から着がえて、道着を担いで道場に直行しなければならない。

 また今日は、一月に一回、隣町にある本部道場から師範が指導にみえる日でもあるので、なおさら遅れてはもったいない。真一は急ぎ足になった。

 ちょうど信号機のある交差点が見えた時である。

 (…!)

 シャイリンの姿がみえた。

 そこは真一のアパートが道を隔てた向こう側にある一番近所の交差点である。

 そして彼の隣には、自転車から降りてハンドルを握り信号が変わるのを待つ女性の姿があった。

 「…」

 その女性はショートヘアで黒髪、ジーンズを履いている。後ろ姿なので顔は見えない。2人は時折、顔を見合わせてなにか喋っている様子だった。

(あいつ…日本人の彼女がいるのか?)

 真一がそう思うのも無理はない。それだけ2人は親密で仲が良さそうに見えた。

 (気まずいな)

 シャイリンの顔を変形させた張本人が、同じ顔で彼と信号機で並んだら…あの女性はどんな顔をするのだろう?

  真一は早く信号が変わり、シャイリンたちに道路の向こう側に渡ってほしいと思った。

 真一はその場に立ち止まり、シャイリンたちをやり過ごすことにした。我ながら男らしくない行為に恥ずかしさを覚えないわけでもなかった。

 やがて信号が変わり、シャイリンたちは横断歩道を渡り始める。反対側の歩道に出て左に歩き出すと、彼女の顔がよく見えた。

 メガネをかけている。知的な印象だが、それでいて決して冷たい印象は受けない。

 むしろその人懐っこい目は暖かい雰囲気があり、人柄がよくにじみでている。何かしきりにシャイリンに話しかけていて時おり見せる笑顔は屈託がない。その短い髪がよく似合う顔立ちでもある。

 シャイリンも彼女とはよくうち解けて喋っている様子だ。彼女も口元に手をやり恥ずかしげに笑っている。あんなに楽しそうな笑顔のシャイリンなど、職場では見たことがなかった。

 (…?あいつ日本語は喋れないのに?なんでだ?)

 彼女がシャイリンの母国ミャンマーの言葉に通じているのだろうか?そうでなければ、シャイリンが職場での態度とは裏腹に、自分が思っている以上に日本語が喋れるということなのか?

 もしそうなら…なぜ職場では心を開かないのか?

 (まあ、俺はあいつに嫌われているだろうしな…)

 社長も幸市もシャイリンを気にかけているフシはあるのだが、やはりどこか一線を引いている。そのうえ仕事を教える役目は真一に押しつけている。シャイリンが職場で心を開かないのも無理はないのかもしれない。

 (それでもなんか…腹がたつなあ…)

 またムシャクシャしてきた。これくらいのことで感情を掻き乱されるのだから、空手の修行が足りないのかもしれない。しかし制御できなかった。これは性分だからしかたがないと自分を納得させることにした。

 頬や目頭がズキズキと痛む。

 シャイリンも同じ痛みを抱えているはずである。彼もまた俺の顔を思い出しては同じ気持ちを抱いているのだろうか?

 シャイリンとメガネの女性は本当のカップルのように仲良さそうに歩いている。夕陽が2人の姿を赤々と照らして真一には眩しく見えた。

 (…)

 あのメガネの女性はシャイリンの顔を見てどう思っているのだろう。

 最初は驚き、シャイリンから事情を聞いて俺のことを「ひどい奴」と思ったに違いない。

 どのみち、俺はシャイリンにとっては悪役、いま彼女もきっと俺に対して仇のような感情を抱いていることだろう。

(どのみち、やり過ごして正解だよな…)

 真一は情けない気持ちになった。俺はなにをやっているのだろう?

 今日は稽古に身が入りそうにない。

 空手の稽古に関してはもうひとつ心配があった。

 この顔を見て師範も訝しがり、理由を尋ねるに違いない。素人を相手に喧嘩をしたことでお怒りになり、稽古を受けさせてもらえなくなるのではないだろうか?

 (まあ、考えてもしょうがねえや)

 真一は開き直り、とりあえず道場へ急ぐことにした。

 (それにしても…あいつの彼女…)

 真一は2人が歩いていく方向を振り返り、溜息をついた。

 (…ちくしょう…あんがいかわいいじゃねえか!)

 

 「オーライオーライ!真一、もう少し左だ!」

 幸市の声が工場内に響く。

 組上がった機械をトラックに積みこむ作業だが、クレーンであげて荷台に積み込む作業なので細心の注意が必要である。

 「おっさん!これくらいでどう?」

 真一はいったんクレーンを止め、まだ痛々しく絆創膏が貼られた顔を幸市に向けた。

 「おう、そんなもんだな。よし下ろせ!ゆっくりだぞ!」

 ブーン…とクレーンがうなりを上げる。機械はゆっくりと下がり荷台にあと数センチというところで止まった。

 「どうした?」

 真一はバツの悪そうな顔を幸市に向けた。

 「悪いおっさん、この数センチがどうも自信ねえや」

 「しょうがねえな、貸してみろ!」

 幸市はクレーンの席を真一と変わると、いとも易々と操作をはじめ音もなく静かに機械を荷台に下ろした。位置もピッタリである。

 「さすがだな、おっさん」

 「あったりまえだ。何年この仕事やってきたと思っているんだ」

 幸市は自慢げに鼻をこすった。

 「よし、ちょっと休憩だ。真一、缶コーヒー買ってきてくれ。それから…」

 幸市は、黙々と作業を続けるシャイリンのほうをみやった。

 「あいつも呼んできてくれ。缶コーヒーは3人分な」

 幸市は500円玉を真一に渡す。お釣りはいつもどおり真一の小遣いになる。

 「…」

 「どうした?あいつとはまだ気まずいままか?」

 「いや、そんなことねえけど…」

 真一は昨日、道場で師範と会話したことを思い出していた。

 シャイリンとの乱闘で顔を腫らしたことで、師範が咎めることもなくきちんと稽古をつけてくれたことは大変ありがたかった。

 ただ、帰り際に呼び止められ、乱闘の原因になったことなどを詳細に尋ねられた。

 「相手に大怪我させたわけじゃねえだろうな」

 その見上げるような大きな巨躯…。

 燃えさかる炎のような眼差し…。

 この人の前では隠し事はできない。真一はその日に起こったことをすべて包み隠さず師範に話した。師範も真一の言葉にいちいちうなずき、真一を諭す。

 そのなかで…真一は、本当は自分が何に憤り、何に対して拳を振るったのか…その原因が何によるものなのか…真一は理解することができた。

 真一の過去から現在、そしてその深層心理に深く根付いているもの…。

 「お前は、それと闘うために空手をやっているんだ。そして闘わなければならない…」

 師範の言葉が耳に残っている。力強くそして静かな声…そしてそれは、深く真一の心を捉えていた。

 「だが…」

 師範は続けた。

 「それはお前自身のこと。最初に手をだしたのは相手のほうだろ?」

 「…押忍」

 「なぜだろう?単純にお前の言葉に怒りを覚えて手を出しただけだろうか…」

「…」

 「お前、これからそいつと仕事をしていくのなら、そいつの怒りの原因もよく理解しなければならんぞ…」

 シャイリンの怒りの原因…。

 彼は真一との乱闘の最中、母国の言葉で何かさけんでいた。それは怒りというよりも魂の根底から沸いてきた叫び…。

 (あいつもなにかに怒っている…俺と似たものを背負っているのか?)

 真一は思わずシャイリンのほうをみやった。

 「…」

 幸市と真一の会話が聞こえたのだろうか?シャイリンが作業の手を止め、こちらを見ている。何かもの言いたげな表情である。

 そして彼は腰をあげて幸市と真一のほうに近づいてくる。その顔は真一同様、絆創膏が痛々しいままであった。

 「缶コーヒー、ぼくが買ってきます」

 そう言ってシャイリンは自動販売機のほうに歩き出す。それを聞いた幸市はあわてて、シャイリンの手に500円玉をにぎらせた。

 「お釣りは好きに使っていいぞ。なあ真一」

 幸市は真一のほうに振り向くと笑顔で同意を求めた。

 「おっ…おう」

 真一はそう言うのが精一杯であった。それほどシャイリンの予想外の行動に面食らっていたのである。

 「…ありがとうございます」

 シャイリンも笑顔をみせた。

 それは…シャイリンが初めて幸市や真一に向けた笑顔であった。

 真一は思わず目を見張った。

 (こいつ…こんな顔もできるんだ)

 いままでこんな顔をする人に出会ったことがあるだろうか?それほどシャイリンの笑顔は自然で屈託がなかった。

 ほどなくしてシャイリンが自分の分も含めて缶コーヒーを3つ買ってきた。見るとそれぞれが幸市と真一の好きな銘柄である。

 「おう、これ好きなやつだ。真一、おまえはこっちが好きだろ?よく2人の好みがわかったな?」

 シャイリンは2人の前に座ると静かにフタを開けて口をつけた。

 「…いつも飲んでいるもの見てるから…」

 シャイリンのその言葉で、真一はなぜか安堵する気持ちが芽生えた。

 相変わらず、片言の日本語である。それでもシャイリンがまるで幸市や真一に関心がなく、自分だけの殻に閉じこもっているわけではないことがわかった。

 彼はコミュニケーションをとることは滅多にない。しかし、きちんと自分たちのことは見ているのだ。

 3人は言葉を交わさない。ただ静かにコーヒーを飲むだけである。真一の缶コーヒーは無糖なので苦みが口いっぱいに広がった。しかし彼はそれが好みなのだ。

 「…真一さん」

 シャイリンはコーヒーを飲み干すとカラになった缶をその場に置いてうつむく。

 「昨日は…グーで…ごめんなさい」

 「…?グー?」

 幸市は笑った。

 「ジャンケンのグーだろ?お前、真一をグーで殴ったのか?勇気あるな?こいつ空手家なんだぞ」

 そういって幸市は、真一の胸を拳で叩いた。

 「本当にごめんなさい。反省します」

 そう言ってシャイリンは頭を下げた。

 「おう…」

 真一は自分でも思わぬ行動にでた。低くシャイリンより低く頭を下げたのだ。

 呆気にとられる幸市を尻目に、真一はシャイリンに謝った。

 「こっちこそ、空手やってるのに素人に手を出してしまって…本当にすまん!」

 それは真一とシャイリンが和解したと同時に、2人の心が通った瞬間でもあった。

 

 「おそいなあ…はやく変われよ」

 真一はイライラしながらハンドルを指で小刻みに叩いていた。信号機がなかなか青にならない。これほど長く待たされる交差点に出会うのも久方ぶりである。

 「真一さん、リラックス、リラックス」

 シャイリンが例のごとく片言の日本語で言うと、真一は思わず苦笑いした。

 「こういう時はリラックスとはあまり言わないんだけどな。使い方間違っているわけじゃないけど…」

 今日は組上がった製品を得意先の会社に届ける日である。

 シャイリンと連れだってトラックを走らせているのだが、納期が間に合わなければ、次回から仕事をもらえなくなるので早く納入しようと気ばかりがあせるのだ。

 またそれが終われば今日の仕事は終わり、あとは自由時間なので早く解放されたいという気持ちもある。

 とはいえ先方への納品の予定時間まではまだ余裕はあった。

 「まだ時間いっぱいある。慌てない慌てない…あっ、信号赤が消えた」

 「おう、青だな」

 真一はトラックを走らせた。

 「そういう時は信号が変わったとか青に変わったとか言えばいいんだよ。まったく、お前に日本語教えてる奴だれだよ?もっときちんと教えてやらなきゃ…」

 「ぼくの日本語おかしいですか?」

 「おう、微妙にな」

 真一は頭を掻いた。

 「ぼくの日本語の先生、ユウカさん。すごくやさしい先生」

 「へえ、女の先生かよ」

 「女」と聞いて真一は思わず身を乗り出した。

 「実は、ぼく優香さんに真一さんと喧嘩したこと話した」

 「ははっ、そりゃあんな顔をしてりゃ、聞かれるだろうし…まあ、正直に話すしかないよな…」

 「ユウカ」という先生の顔を思い出しているのだろうか?シャイリンは微笑んでいる。

 「ユウカさん、ぼくのこと怒りました。いきなり真一さん殴ったから」

 シャイリンは拳を手のひらで叩くような仕草をした。言いたいことを正確に伝えたいがためにわざと大げさなリアクションをとったのである。

 「あのパンチは効いたなあ…でもユウカさん、俺のことも怒ってただろ?」

 「いや…真一さんは悪くない。ユウカさんもそう言ってた」

 「そうか…。いい人だな」

 「また今度、紹介します」

 「ハハ、別にいいよ…」

 真一ははっと気づいた。

 「シャイリン、そのユウカ先生というのはなんだ、若い先生なのか?」

 「はい、ぼくと年齢が同じです。ぼくは今年で22歳になりますから先生も同じ」

 真一はシャイリンと喧嘩したあの日、シャイリンと並んで帰っていったあのメガネの女性のことを思い出した。ひょっとしてシャイリンの日本語の先生というのは、彼女なのだろうか?

 「その先生、メガネかけてる?」

 「はいかけてます。どうしてそれわかった?」

 「いや、なんとなく…ほら、先生ってメガネかけている人多いじゃねえか」

 真一は思わずごまかした。どうやらドンピシャリだ。

 「きれいな人?けっこうかわいい?」

 「はい」

 「そうか、そんな美人の先生に教えてもらっていいなあ、お前。でもそれだけ美人だと彼氏とかいるんだろうなあ」

 「さあ、どうでしょう?」

 真一は思わず、シャイリンの肘をこづいた。

 「そんなこと言って、お前その先生とつき合ってるんじゃないの?」

 「いや違いますよ」

 「…違うの?」

 「はい、彼女のプライベート、ぼくはわからないから…でもつき合ってる人いないようなこと前に言ってた」

 真一は心のなかで指をはじいた。「よし!」と思わず声が出そうになった。

 次の信号で止まった時、真一はシャイリンの手を両手で握った。

 「ぜひ…お前の先生、俺に紹介してくれ」

 

 幸市はいきつけの居酒屋「桔平」で懐かしい人を待っていた。

 国鉄時代、共に労働組合活動をやってきた仲間である。月に一度「一緒に飲んで近況を語り合おう」と約束していたのだが、しばらくお互いのスケジュールが合わず、なかなかその機会がなかった。今日は久々に互いの都合が合ったのである。

 カウンター席を陣取り、先に瓶ビールを注文して「冷や奴」の口取りを肴にあおっていた。酒は好きだが強くはないので、昔の仲間がきた頃にはできあがっていそうである。

 「幸ちゃん、待たせたな」

 店の入り口の格子戸が開き、かつての仲間である石田洋二が入ってきた。

 「おう、遅いんで先にやってたわ」

 幸市はニヤリと笑った。もうほのかに頬に赤みがさしている。

 「あんまり強くないんだから、無茶飲みしちゃいかんよ」

 石田は幸市とは対照的な細面な顔をわざと曇らせた。

 「遅かったじゃねえか」

 「悪い悪い…。孫の入学祝いを我が家でやってたもんだから…いやこの春、孫が私立の小学校に入学したんだがね、それはそれでお目出たいことなんだが…あんないい所じゃなくてもいいのに…入学させるのに嫁がもう必死でよう…ありゃ、どっちが受験生だかわかりゃしねえ…」

 石田はさっそく瓶ビールを注文した。

 「そうかい、たしか女の子だったな。お前さんの孫ももう小学生か…。時の流れは速いもんだ」

「おう、それにお互い歳喰ったしな」

 石田はビールをうまそうにあおった。

「もう去年の話になるか…。終わっちまったよな。長かったなあ…」

「ああ、本当に長かった。しかし無念だ。このことでお前と話すのは初めてだな」

 石田は幸市と同じく元国鉄労働者である。

 国鉄労組は昨年、24年の長きにわたるJR再雇用闘争を事実上打ち切った。

 まだ一部の闘争組織は裁判を継続しているが、「これ以上の継続審議は困難」というのが中央組織の見解である。

 国鉄からJRに民営化後、JRは労組活動家の再雇用を認めず、事実上のリストラを強行していった。「法的には認められない」として労組側は長い裁判闘争を組織的に行ってきた。ある程度の和解金を勝ちとることはできたものの、遂に最後までJR再雇用を勝ちとることはできなかった。

 「無念…だな」

 「…ああ」

 言葉は短い。しかし互いのその一言に歴史の重みが凝縮していた。

 幸市は長年、家族を犠牲にして闘ってきた闘士である。しかしその息詰まる闘争の日々に家族は耐えきれなかった。10年前より妻や子どもたちとは別居が続いている。ただ2人いる息子は両方がすでに自立していた。

 幸市は静かにビールをあおっている。だいぶ酔いも回ってきたようだ。

 国鉄民営化後、幸市は鉄工所など町工場を転々としてきた。ひきかえ、石田は運輸関係の中小企業に運良く入社できて今に至っている。これまで歩んできた道のりは互いに違うのだが、仲間意識が薄れることはなかった。

 「いまどうしているんだ?」

 石田が幸市のコップにビールを注いだ。そして自らのコップを幸市の前に差し出す。

“俺にも注いでくれ”というわけである。手酌でぐいぐいと飲んでしまう幸市のペースにブレーキをかけなければならない。

「相変わらず、西島さんのところだよ。最近、おもしろい若い奴が入ってきてさあ、なかなか元気のあるやつらだが…そいつらのお守りで大変さ」

 真一が聞けば(どっちがだ!)と吹きだしてしまうに違いない。

「へえ、うちの会社なんて派遣も多いしすぐにやめちまうから、若い奴なんてあまりいないんだが…」

 「まあトラックの運ちゃんなんて過酷な仕事だからなあ…」

「ああそうだ幸ちゃん、中小零細企業の労働組合…なんて言ったっけなあ、前はそっちのほうでも熱を上げてたじゃないか、今はどうしてる?」

 「ああ、『絆』か。最近はあまり事務所にも顔だしてないな。うちの会社はちゃんと給料ももらっているし、時間通りに終わるし…細かいことあげれば切りがないくらい改善の余地は残っているけどな、前いた会社みたいに『絆』に頼るほどでもないよ」

 幸市はタバコに火をつけて「フー」と静かに煙を吐いた。

 「…なんかお前、以前に比べて丸くなったな…」

 幸市は笑う。

 「歳をとったんだよ」

 タバコの煙が幸市の目の前で白い幽霊のように浮遊している。目は精気がなく、赤らんだその顔にただ窪みがあるだけだった。

 「昔は理不尽なことがあればすぐに上司にくってかかってたのに…」

 「それはいまでも変わらないさ」

 「ストの時も一番先頭切ってやってたお前がなあ…本当に時の流れって怖いもんだな」

 「お前も似たようなものだろ。机叩いてまであれだけ激しく当局と交渉してたお前が、今の会社に変わってからはおとなしくなったもんだ」

 「路頭に迷ってた俺を拾ってくれた今の会社への恩義もある。おとなしくもなるさ」

 「孫もできたしな…」

 酒を飲めば気分が高揚してくるはずなのに、段々と気分が落ち込んでくる。

 俗に言う「しけた話」しかできなくなっている自分が情けない。幸市はタバコの火を消すとまた手酌をやった。

 「俺が注いでやるって…」

 石田が慌てて、幸市のグラスにビールを注いだ。

 「まあ、話題を変えようや。最近、下の息子がよう、ようやく就職できたんだ」

 幸市の目がようやく輝いた。

 「そうか、そりゃおめでただな。派遣切りでしばらくブラブラしてたって子だろ?」

 「おう、とりあえず一安心だよ。まじめな奴だからまともに就職できないこと気に病んでたからな。派遣切りにあってる若い奴は、本当はそういう子のほうが多いんだよ。働きたくても働けないのが今の社会だから…。そういう若い子たちの為に、お前の力が必要なんだがなあ…」

 「俺だけじゃないだろ。お前も…」

 「俺はもうダメだよ、孫までできて気持ちが守りに入ってる。会社での立場もあるし…」

 「情けない奴だ…まあ俺も五十歩百歩似たか寄ったかだけど…」

 「お前はまだ、落ちぶれちゃいないよ、こういう話になったときの目が違う…なんというか活き活きとしてくる」

 「…」

 「お前の会社、若くてやんちゃな奴がいるんだろ?導いてやれよ。お前の力で…。お前は俺とは違って国鉄労組の指導者だったじゃないか?俺たちはただお前についてきただけだった…」

 「…無理だよ」

 幸市は笑った。

 「いや、俺の職場の奴の話さ。1人は空手家かぶれ、1人は外国人だ。組合活動うんぬんってレベルの話じゃないよ」

 「外国人って、この前お前が電話で話してた例のミャンマーの子か?」

 「ああ、シャイリンという名だ」

 「そういえば最近のミャンマーの政情は変動が激しいな。アウンサン・スーチー女史の民主化勢力も政治の表舞台にようやく立つことができそうじゃないか?」

 「スーチー女史の軟禁状態が長引き、民主化勢力に対する軍政の弾圧も2年ほど前のサフラン革命ようにあからさまだったからな。国際社会も黙ってはいないさ。しかし、キャスティングボードはまだまだ軍政に握られたままだよ」

 「亡命してきてるのか?若いのに苦労してる…」

 「ああ、休日はミャンマー人の仲間とデモやら学習会やらいろいろと活動してるみたいだな。仕事しながら日本語も覚えなきゃならんし…大変だと思うよ。まったく昨今のたるんでる日本人の若者に爪のアカでも煎じて飲ませてやりたいよ」

 「でも…さっきの派遣切りの俺の息子の話じゃないけど…今時の若い奴が生き難い世の中ってやつは、俺たちの世代が造ってきちまったんだよ」

 「バカ、何言ってる!俺はそんな世の中にするために、人生の大半をこれに賭けて労組を闘ってきたわけじゃねえぞ!」

 幸市は気色ばんだ。

 「でも…。俺の周りもそうだけどよ。今の労働組合にきちんと労働基準法を学んで、元気に労組で活動してる若い奴っているか?それどころか就労する権利が与えられているのに、それを知らないで働きたくても働けずブラブラするだけ、就職が見つかっても日本の労働基準法のイロハも知らないから、ただ企業の奴隷になるだけ…そんな若者ばかりじゃねえのか?」

 「…」

 幸一はテーブルに肘をついたまま黙っている。ビールジョッキに残っているきめ細かいビールの泡がジョッキの底に静かに沈殿していくのを眺めているだけだった。

 「なあ、幸市よ。若者たちにこんな時代を残すために俺たちは、労働組合で闘ってきたんだろうか?もっと働くことの意義、働くことの権利、いろんなことを学んで勝ちとって…貧困に苦しまない最低限の賃金と、文化的な生活を保障される休暇と…そんな当たり前のことが当たり前にできる世の中にするために…俺たちは国鉄労組を闘ってきたんじゃなかったのか?」

 「…」

 「俺も反省しなきゃいけねえけど…俺たちって何をやってきたんだろうなあ…」

 幸市はドン!っとコップをカウンターに叩きつけるように置いた。

 「酒がまずくなるじゃねえか!やめろ!」

 「そんなに怒るなよ」

 「俺たちは…少なくとも俺は懸命にやってきた。その結果がこういうことなんだ。仕方ないだろ!」

 興奮が収まると幸市はまた、静かにコップにビールを満たした。

 「若い奴らが今後どうするかは…若い奴らが決めるよ…」

 

 真一や幸市の住んでいる町の最寄りの駅は東畑といって、とても小さな駅だった。

 プラットホームは古く、縁に地割れができていて傾いている。駅舎もなく、切符は自動販売機で買うだけだった。そんないつ潰れてもおかしくないような駅の片隅で、幸市とシャイリンは次の電車が来るのを待っていた。

 プー…と音がして2人が振り向くと電車が走ってくるのが見える。しかし反対電車である。到着の時間は、彼らの乗る電車より早い。反対側のホームには人っ子1人いないので、到着してすぐに出発していった。

 「なあシャイリン、ビルマ語って難しいんじゃねえか?」

 真一は不安げな表情を浮かべてシャイリンの顔を見た。

 「ハハ、大丈夫。日本語より簡単だから」

 「いや…お前にとってはそうかもしれないけど…」

 真一は苦笑いをした。

 今日はシャイリンたちビルマ人が「ユウカ先生」にビルマ語を教える日である。

 彼女の日本語教室の部屋を借りて毎週やっているのだが、受講する日本人が彼女しかいないのでそれでは寂しい…そこで「真一さん、こんどユウカ先生紹介する。ビルマ語を先生と一緒に習いましょう」ということになったのである。

 「真一さん、がんばりましょう」

 「…いや、なにも一緒にビルマ語習わなくても…。普通に紹介してくれればいいんだけど…」

 真一は頭を掻いた。

 それにしても…と真一は思う。

 シャイリンは真一と打ち解けてから、本当によく喋ってくれるようになった。

 冗談もよく言うし、からかわれることもある。本当は茶目っ気のある面白い奴で、日本人にもよくいる普通の若者と変わらないのだ。

 シャイリンは笑うと、そのきれいな目が輝いて笑顔も屈託がない。顔立ちも整っているので今風に言うのなら「イケメン」に違いなかった。

 「真一さん、電車がきた」

 シャイリンが指さした方を見ると電車がゆっくりホームに近づいてくるのが見えた。

 電車の到着を知らせるベルがホームに鳴り響く。

 「東通りという駅で降ります」

 電車に乗り込み席に座ると、シャイリンが口を開いた。

 「…実はユウカ先生、教室は東通りだけど住んでいるのは、ぼくたちと同じ東畑」

 「へえ、そうかよ?」

 真一はわざと驚くふりをした。シャイリンとユウカ先生が並んで帰っていくのを目撃した時、なんとなくそうじゃないかと感じてはいたのだが…。

 「ユウカ先生、ぼくたちが喧嘩したときすごく怒った、でも仲直りしたと言ったら、すごくほめてくれた」

 「そうか…安心した。じゃあ今日俺は、ユウカ先生に怒られることはないんだ」

 「ユウカ先生いい人、めったなことじゃ怒らない。真一のこと話したらぜひ、連れてきなさいって言ってた」

 (よっしゃー!)

 真一は心の中で密かにガッツポーズである。

 電車は静かに走る。帰宅途中の学生やサラリーマンで混雑してもおかしくない時間帯だが、田舎のローカル線ということもあってか、乗客はまばらであった。

 「真一さんに殴られた頬、まだ痛い。真一さんも僕に殴られたところ痛むか?」

 「おう、まだ腫れがひいてねえや。まったくお前って痩せているのに、すごい馬鹿力あるなあ」

 真一はシャイリンの腕や拳を触った。真一と同じく、いやそれ以上に痩せていて、とても喧嘩などできそうには思えなかった。

 「そうだお前、俺と空手習わないか?」

 「空手?K-1?」

 「いや、俺の習ってるのはK-1じゃねえよ。あんなのとはわけが違う」

 「K-1より強いんですか?」

 「ああ、K-1より強い。というか強くなれるんだ」

 「真一さん確かに強かった。パンチも凄かった」

 「そうだろ。伊達に空手やってるわけじゃねえのよ」

 「真一さんパンチ強い」

 「どうでもいいが、俺のはパンチじゃない、突きだ」

 「はあ…どう違う?」

 「う~ん…と、それはだな…」

 真一は必死に手振り身振りを加え、パンチと突きの違いを説明しようとするのだが、いかんせんよく伝わらない。シャイリンは首をかしげるばかりである。窓の外はいつの間にか暗くなり、星も瞬いていた。

 真一が諦めて、電車の座席に深く座り直した時だった。

 シャイリンが真一の顔をまじまじと見ている。

 「…どうした?」

 「あの時の喧嘩…あの時。真一さんあの時なにか、叫んでた。心が悲しいそうだった」

 「…?」

 真一は、なにを言うんだこいつは?という目でシャイリンを見た。

 叫んでいたといえば…シャイリンお前もじゃないのか?真一はそう口にしかけた言葉を呑み込んだ。シャイリンの目が憂いを含み、また表情も真剣そのものだったからである。

 「何か…つらいことがあって…あの時、真一さん心を解放した。それぼくも同じ。ぼくも解放した。あれからぼくの心、すごく軽くなった」

 「…」

 真一は黙ってシャイリンの言葉に耳を傾けた。彼の日本語はたどたどしいが、訴えかける何かを感じたからである。

 「真一さんぼくは…友だちを助けられなくて…友だちを置いてこの国に逃げてきました」

 真一は思わず、シャイリンの顔を直視した。

「サフラン革命…ビルマのお坊さんが立ち上がってデモをやった時、ぼくも友だちとデモに参加していました。日本人の長井さんが銃で撃たれた現場の近くに僕たちもいました」

「ああ、日本でもニュースで流れたからな。覚えてるよ」

「…あの日…お坊さんの服…みんな血の色にどす黒く染まりました…トラックで逃げて…兵士たちが群衆やお坊さんを囲んで殴り血まみれにしている光景を何度も見ました…」

 シャイリンは正面の暗闇が広がる窓の外を直視している。風景は凄い速度で変わっているはずだが何も見えない。

真一はシャイリンの言葉を待った。

「でも、ぼくは…卑怯ものです」

 シャイリンの両目は涙に満たされて光っていた。

「どうして?」

「ぼくの友だちはぼくを助けて兵士たちの餌食になってしまった…なのにぼくは彼を助けることができなかった」

「…」

「ぼくは卑怯ものです」

 シャイリンは膝の上で拳を握った。その拳の上に何粒かの涙がポタポタとこぼれ落ちた。

 「ぼくのおじいさんはかつて勇敢に軍事政権と闘いました。でもぼくは逃げてきました。タイにわたってタイからこの日本にきました。海外に逃げて活動してる仲間がいたから、この日本にもいたから。あの時はそうすることが一番いいと思ってました。でも…本当はインセン刑務所に入れられることが怖いだけだったかもしれません…」

 真一はなにも言えなかった。

「そうか。お前、そんな修羅場をくぐって…」

 それは真一にとって想像もできない世界だった。

同時に、シャイリンが空手家の自分とほぼ互角に殴り合いができた理由がわかるような気がした。精神力が違う。もし自分ではなく他の日本人が相手だったら勝負にならなかったに違いない。

 「シャイリン、お前…。だからあの時…」

 シャイリンは覚えていないだろう。

 彼も真一を殴ったあと、まるで獣のように叫んでいた。そんな過去があったからこそ、あの叫びだったのだ。

 真一はそんな自分の過去を話してくれたシャイリンに我知らず、心を許せる気持ちが芽生えた。こんな気持ちになるのは初めてであった。

 「…シャイリン、俺は…」

 ドスの利いた怒鳴り声と派手にものが壊れる音と響きわたる金属音…。

 部屋の中で小さくなり、はやく嵐が過ぎ去ってくれることをひたすら祈っていた。

 片隅にテレビが置かれているだけの無機質な灰色の部屋…つけっぱなしのテレビには抑揚のない声で女性キャスターが喋っている。

(今日のニュースです。昨夜未明、一家4人が無理心中する事件がありました)

(…)

 玄関では、怒鳴り声が大きくひどくなってくる。

「…!!」

「…!!」

 ガシャン!!

 ガシャン!!

 そして無数に響く金属音…。

 「やめろー!」

 必死で玄関まで飛び出して、そいつらの腕に噛みついた。  

そして凄まじい衝撃とともにはじき飛ばされる。

 「真一!真一!」

 母の必死の声。

 それは、真一の中で深く封印しておきたかった過去の忌まわしい記憶であった。

「シャイリン、日本語がわかったら聞いてくれ。まあ無理に俺の昔話につき合う必要もないけど…」

 シャイリンは思わず真一の顔をみた。

「いえ、ぜひ聞かせてください」

「そうか、まあたいした話じゃないんだけどさ。俺の実家は金物屋でよ、金物なんて今のご時世、大型店舗にみんな客とられちまうし、なかなか経営が厳しくてなあ。そのうえ親父が借金の保証人になっちまってよう、俺と違って人がいいものだから…」

 こんどは真一が正面の暗闇が広がる窓の外を直視していた。

 「…大変でしたね」

 「いやもう毎日ヤクザがうちにきてよう…」

 真一の顔色が曇る。

 「…そいつらに…殴られたこともあったっけな。ありゃ痛かった」

 真一は笑った。

 「鼻から止めどもなく血が出て…赤い絨毯がもっと赤くなってどす黒く染まったのを覚えている…」

  シャイリンはただ真一の顔をみつめるだけだった。

 「俺は…その時の痛みと悔しさで、未だに自分がどうかなりそうな時があるんだ…」

 シャイリンは静かに真一の言葉を待っていた。

 「だから…だから俺は空手をやっているようなものさ」

  場内アナウンスが流れ、次に到着する駅が「東通り」であることを告げる。

「お前のパンチもそれぐらい痛かった。それはお前の心の痛みそのものだったんだなあ…そう思ってさ」

 シャイリンは静かに目を伏せていた。

 「シャイリン、お前には悪いことしたな。俺こそお前に謝らなきゃな。おっ、もう東通りだな、よしシャイリン降りるぞ」

 

 NPO法人「もみの木会」が運営する日本語教室は、東通り7番団地最下フロアの一角を借りていた。

「はじめまして、須藤優香といいます」

 「こちらこそはじめまして。このあいだシャイリンにボコボコにされてしめられた東間真一といいます」

 優香は思わずクスクスと笑った。

 「あれからシャイリンの子分になったんですか?」

 「へへ、まあそんなようなもんです。だから今日は、シャイリン兄貴のお供でついてきました」

 そう言うと真一は「へへ」と笑った。

 シャイリンは「しめられた」とか「子分」という日本語が理解できないからキョトンとしてる。

 予定の時間が近づくと他のビルマ人も顔を出し始めていた。

 シャイリンの仲間たちである。

 みな浅黒い肌の色をしているのは共通しているのだが、微妙に顔立ちも肌の色も違う。ミャンマーは他民族国家なので部族によってかなり特色が違うらしい。民族間による争いやいざこざももちろんあるのだが、基本的に民主的な国家を目指すという大きな目標で彼らは団結している。

 日本に在住しているビルマ人は首都圏に出て小規模ながら民主化要求のデモをやるなど、地道に活動している者もいる。ここにいるシャイリンの仲間はそういうことも厭わない猛者であった。

 そんな彼らをシャイリンが順番に紹介をしてくれるのだが、ビルマ人の名前は独特の発音なので覚えづらい。優香の話では、日本語を覚えるためにここへ通っているビルマ人の大半は、ビルマ語講座に顔をだしてビルマ語を教えてくれるのだが、最近ではシャイリンとマンツーマンになることが多くなった。

 日本人が優香しかいないことが原因なのだろう。

 それでも優香以外の日本人がくるということで、今日はこれだけ集まってくれたということである。

須藤優香は真一に自分が外国人支援センターの勤務員であることを話した。そしてその勤務の傍ら、日本に在籍する外国人に日本語を教えるボランティア活動をしており、数年前、外国人支援センターに勤務する仲間たちと「もみの木会」を立ち上げたということだった。

 外国人に日本語を教える活動が主だが、時には就労支援、難民申請の手伝いなど、職場で得た知識を活かして幅広い外国人の支援活動も行っていた。    

 ミャンマーから日本に政治亡命をしてきたビルマ人たちと出会って以来、ミャンマーという国に興味を持ったらしい。

その理由は、1つは軍事政権下にある本国で弾圧を逃れ、亡命をしてきた彼らに対する興味、1つは最近まで軟禁状態が続いていた政治指導者アウンサン・スーチー女史があまりにも有名であることに尽きた。

 そして彼らが母国を「ミャンマー」と呼ばず「ビルマ」と呼んでいることにも疑問をもった。

「ミャンマー」とは軍事政権が名付けた国名であり、母国をそう呼びたくないというのが彼らの主張らしい。だからシャイリンたちは祖国をミャンマーではなく、国王制から植民地時代、その後のネウィン政権時代に呼ばれていた国名で「ビルマ」と呼んでいるのである。

 そして彼らに日本語を教え、時には彼らにビルマ語を教えてもらいながら交流を深めてきた。その延長線上がこのビルマ語教室ということだった。

 「フフ…おかしい」

 優香は、真一の顔を見てクスクスと笑った。

 「なにがおかしいの?」

 真一はけげんな顔をした。

 「だってシャイリンから『職場の人を殴ってしまった』『殴り合いの喧嘩になった』と聞いた時、最初はどんな凶暴な人がいるのかと思ったから…あなたを見て拍子抜けしたわ」

「俺、凶暴そうにみえる?」

 「そんなことないわ。とても人がよさそう」

 「そう、安心した」

 真一は率直に話す優香に好感を覚えた。正直な性格なのだろう。

 「でも驚いたわ。シャイリンは日本人とほとんど打ち解けることなかったし。それが日本人を、しかもよりによって殴り合いの喧嘩の相手をこのビルマ語教室に連れてきてくれたんだもん。でも嬉しいわ」

 確かに日本人は真一と優香だけである。まわりはみなビルマ人だった。こんな状況は初めてである。

 真一はここに集まったビルマ人たちの様子にどこか違和感を覚えていた。

 みんな愛想はいいのだが、どこかよそよそしくしかも落ち着きがない。みんなソワソワしているのだ。

 最初に教室に入ってイスに座っていたビルマ人の青年は、つい今し方、顔を出した仲間と少し言葉を交わすとスッと出ていった。

 (…?なんか妙に緊張しているな?)

 シャイリンがそっと耳打ちをする。

 「ビルマ本国で選挙があったんですよ。その結果がもうじきに出るので…今日はみんな情報を集めるために動いているんです」

 「…そうか、なんだか大変だな。それじゃビルマ語教室なんてやってる場合じゃないんじゃないか?」

 「それは僕たちの都合だから。真一さんは気にせずに楽しんでください」

 楽しめと言われても…と、真一は思った。

 ビルマ語の文法は日本語とほぼ同じなのだが、馴染みのない発音の仕方に戸惑った。

 それでも優香は楽しそうにビルマ語を習っている。日本語の先生だけあって、言語学の向上心は並はずれているのだ。

 (…ついていけねえな)

 真一は思わず、シャイリンの顔を見た。

 どこか寂しそうだが、屈託のない笑顔…シャイリンは優香が楽しそうなので彼も満足しているのだ。

 (こいつ…先生のことが好きなんだな…)

 ビルマ語を教えているのはシャイリンである。

 優香も彼が先生なら安心できるのだろう。シャイリンの言う言葉にいちいち笑顔で頷いている。完全にシャイリンのことを信頼しきっているのだ。

 (俺が入り込む余地はなさそうだな…)

 教室が終わり、優香や他のビルマ人たちと別れ、2人は帰宅の途についた。

 ローカル線なので終電も早い。ぼやぼやしていると帰れなくなってしまうからだ。

 シャイリンは妙におとなしかった真一を気遣ってか「真一さん、今日はどうだった?」「ビルマ語難しかった?」と声をかけた。ビルマ語もそうだが、他のビルマ人…自分の仲間たちと打ち解けるのも難しかったのでは…と気を揉んでいるのだ。

 「優香先生ともあまり話さなかったね」

 「でも携帯番号はちゃんと聞いたぜ」

 真一は自分の携帯電話をシャイリンに見せびらかしてニヤリと笑った。

 「そうですか。真一さん、優香先生のことがんばって…」

 「いや…シャイリン、あの子はきっとお前のことが好きだよ」

 「…そうですか?」

 シャイリンは意外そうな顔をした。

 「お前も…そうなんじゃないのか?」

 真一は穏やかに笑った。

 「まあ、俺は引くよ。お前あの子ともう少しうまくやれよ」

 「…」

 シャイリンはうつむく。

 「なんだよ、意気地がねえな。そうだ、ここへ来る前に話してた空手のことだが…」

 真一はシャイリンの背中をドンと叩いた。

 「お前やってみろよ。道着くらい俺がプレゼントしてやるからさ。こういう恋愛にも度胸がつくぜ」

 「…」

 「…?どうした?」

 「…真一さん」

 シャイリンは寂しそうに真一を見上げた。

 「ごめんなさい真一さん…ごめんなさい…。新しい情報が入ったんです。いまビルマでは、アウンサン・スーチー女史が選挙に当選して、ぼくたちのような民主化求める人たちが国で議席をたくさんとりました。ビルマは変わります」

 「…そうか。よかったじゃねえか」

 「ぼくは…ビルマに帰ろうと思っているんです。あの時、ぼくが助けられなかった友だちをさがすために…」

 「…!」

 シャイリンは空を見上げた。

 「そして…母国を変えたい。真一さんや優香さんのようなすばらしい人たちがいる…この日本のようにきちんと自分たちの主義主張が言えて…時には…殴り合うほどの喧嘩もできるような国に…」

 

 須藤優香から真一に携帯電話が掛ってきたのはそれから間もなくだった。

 彼女もシャイリンの意志を本人から聞いていたのだ。

 「彼がわたしに言うの。今までありがとう。それからごめんなさいって…」

 優香の声は沈みがちであった

 「ああ、似たようなこと俺も言われたよ」

 真一の声は抑揚がなかった。

 「でも…今はまだ、帰るのは危険だわ」

 優香の声は少し上ずっていた。

 「ビルマは確かにスーチーさんが国会議員になって政治の表舞台に出たけど、軍政はまだ政治犯は釈放してないし、サフラン革命に参加したシャイリンが今帰っても大丈夫という保障なんて全くないわ」

 優香は捲くし立てるような口調で話す。電話越しとはいえ、その様子はビルマ語教室の時の彼女とは明らかに別人のようであった。

 真一もシャイリンが母国へ帰ることの危険性はわかる話だった。

 「お願いです、真一さん。シャイリンにわたしの今の言葉を伝えて…彼を説得して」

 優香は、真一にシャイリンを止めてもらいたいのだ。

 ただ自分にシャイリンを止めることができるかといえば、全く自信はない。それほどシャイリンの意志は強固なのだ。

 「キミが直接言えばいいじゃないか?キミでは止めることができないのか?」

 真一より、シャイリンとの付き合いは長いはずである。また互いに恋愛までは進展してないにしろ、ある一定の男女の信頼関係はあるはずだった。

 「わたしは…真一さんみたいにシャイリンとは喧嘩ができないから…」

 「…?」

 「男同志ってこともあるだろうけど…わたしは彼とは、そこまで踏み込んだ関係をつくってないんです」

 「…」

 「真一さんってすごいね。外国の人とそんな関係つくれる人ってなかなかいないよ。だから真一さんにシャイリンを止めてほしい」

 「別に…そんな大したことでもないけど…でも、話はしてみるよ」

 優香の声音がまた変わった。

 「お願い…。殴ってでも止めて…」

その声は静かに、そして悲しい色を含んでいた。

 「ああ…できる限り、説得してみるよ」

  真一は優香にたいして、それだけ言うのが精一杯であった。

  「約束は…しかねるけど」

 真一は電話を切った。

 真一は考えている。

 (殴ってでも止めて…か。女が気軽にいう言葉じゃねえな)

 男の拳はそんなに軽いものではないのだ。互いの気持ちをぶつけ合うのだから…。

 そんなにシャイリンを殴ってでも止めたいのなら、彼女がやればいい!

 真一は窓をあけ、夜空を見上げた。

 (…真一さん、ぼくは…友だちを助けられなくて…友だちを置いてこの国に逃げてきました…)

(…あの日…お坊さんの服…みんな血の色にどす黒く染まりました…トラックで逃げて…兵士たちが群衆やお坊さんを囲んで殴り血まみれにしている光景を何度も見ました…)

(…ぼくは…卑怯ものです…)

(ぼくの友だちはぼくを助けて兵士たちの餌食になってしまった…なのにぼくは彼を助けることができなかった…ぼくは卑怯ものです…)

 真一が住んでいる部屋はアパートの2階である。窓の外には無数の星々がその天空を覆い尽くしていた。

 (あいつは…帰らないと救われないだろうな…)

 天の怒りの如く青光りする稲妻…。 

 空気が震えるような僧侶たちの読経の音、群衆の罵声、投石…。

 武装して不気味に静まり返る、黒々として禍々しい兵士たち…。

 そして…。

 彼らはまるで小魚の群れに襲いかかる鮫のごとく群衆に殺到…。

 1人ずつ取り囲み、首といわず腹といわず棍棒で殴る。無数にこだまする悲痛なうめき声や悲鳴…。

 神聖な僧侶にも暴挙を働く兵士たち…。

 どす黒く血に染る袈裟…ビルマ人にとって神聖な色である太陽の赤色…。

 怒りに任せ、僧侶に暴行を加える兵士たちに殴りかかるシャイリン…。そんなシャイリンを友人のココラットは必死で救ったという。

 (お前が無事でよかった…)そう言って笑う友人のココ…。

 逃げながらトラックに必死に飛び乗るも、乗り損なってしまう友人のココ…。

 (がんばれ!もう少しだ!)

 ココが手をのばす。シャイリンとココラットの指先が触れる…しかし…。

(ココ!!ココ!!)

 シャイリンの叫びも虚しく…。

 後ろから兵士が殺到し、ココラットを取り囲み…。

 (…)

 シャイリンが真一に話した母国で起きたことの一部始終…。

 星空を見上げながら真一は思った。

 こんな…命をかけて救ってくれるような友人が…自分にいるだろうか?

 そして…こんな思いを背負っている彼を、どうして止めることができるだろうか?

 俺にそんな資格があるのだろうか?

 (僕は…母国を変えたい。真一さんや優香さんのようなすばらしい人たちがいる…この日本のようにきちんと自分たちの主義主張が言えて…時には…殴り合うほどの喧嘩もできるような国に…)

 昨夜もこの夜空のような星が無数に瞬く空だった。その星空の下、シャイリンが言った言葉…真一の胸に今も響き、そして頭を離れない。

 一瞬、光が尾を引いて消えた。流星が落ちたようである。

 そして真一はまた考えた。

 (俺には、シャイリンのように自分の国を変えたいとか、そういう気持ちも情熱もないな)

高校生の頃から空手を続けてきた。自分の弱さを克服することだけに精一杯だった。今もそうだし、これからも自分はそうあり続けるだろう。それでも少し、友人のこと自分の祖国のこと…あれだけ熱心に情熱的になれるシャイリンがうらやましくもあった。

 (おっさんは、どう思うのかな?)

 幸市のおっさんは昔労働組合の闘士だった。シャイリンと相通じるところもあるだろう。彼の気持ちは自分以上にわかるかもしれない。明日、シャイリンを引き留めるか否か、幸市に考えを聞いてみようと真一は考えた。

 

 「…あいつの好きにさせればいいさ」

 幸市はタバコの煙を吐き、作業に没頭しているシャイリンをみやった。

 真一と殴り合ったあの日以来、シャイリンの作業効率は格段に上がっていた。今では半日でバケツ三杯ほど、ネジを作れるようになった。これから西島マシンツールズの主力に成長してくれるだろうと社長も大いに期待を寄せてきたほどなのだ。

 「あいつに空手を習わせてやりたかったんですけどねえ…」

 真一は静かに笑った。幸市の意見には賛成である。ただ…こみ上げるものがあり、それがうまく表現できなかった。

 だからそう言うしかないのだ。

 「真一よう…俺は…」

 幸市はタバコの火を消した。

 「いや…なんて言ったらいいか…」

 「…?なんだよ?おっさん?」

 「いや…お前にしてもそうだが…今時の若い奴も捨てたもんじゃねえな…って思ってな」

 真一は笑った。

 「なんだよ?急に…」

 「なあ、真一よう…」

 幸市は真剣な面持ちで真一を見据えた。

 「絆っていう労働組合があるんだ。中小零細の労働者が加入できるんだが…お前も入らないか?」

 「なんだよ?あらたまって?俺は空手が忙しいからやらないよ」

 真一は苦笑して幸市の申し出を断った。しかし、幸市の様子に今までにないものを感じてその顔をまじまじと見据える。

 「なんか…いつものおっさんじゃないみたいだ?」

 「そうか?でもよ、おっさんだって変わるんだぜ。若い奴に負けないくらいにな」

 「今まで、そんな話したこともなかったのに…」

 「もう一度…もう一度だよ」

 幸市はつぶやいた。

 「外国の若い奴が命かけて祖国を変えようとしてるんだ。歴史をつくろうとしてるんだ。民主主義がある程度、成熟した…こんな恵まれた国に生まれた俺たちが…もちろんそういう日本を造ってきたのも俺たちだが…だからこそ…だから…これからも、もっと頑張らなくてどうするんだ…」

 自身に言いきかせるような幸市の言葉は、真一には聞こえなかったようである。

 幸市は立ち上がった。

 そして自分の作業場に戻っていく。

 真一は、シャイリンの隣に座った。そして彼より早い手つきでネジを切っていく。

 「…いつ日本を発つんだ?」

 「一週間後です」

 シャイリンはその手を休めない。そして彼の顔を見つめてニコリと笑った。

 「また…日本に戻ってくるのか?優香さんが心配してるぞ」

 「はい…いつかは…必ず戻ってきます」

 「そうか…」

 「真一さん」

 「なんだ?」

 「黒帯のテスト必ず頑張って下さい」

 「おう!絶対に取るさ!」

 真一はシャイリンの目の前に拳を突き出した。

 「シャイリン…絶対に戻ってこいよ…」

 「…はい、真一さん」

 「空手、教えてやるから…だから…」

 「はい…」

 「絶対に…戻ってこいよな…」

 真一とシャイリンは黙々と作業を続けた。

 真一は俯いたままだった。目の前の視界がなぜかぼやけてくる。剥きだしの地面にポタポタと滲みができる。シャイリンに気取られたくなかったから…だから真一は一言も発せず、ただ黙々と作業を続けた。

 「おーい!終業だ!」

 社長の声が工場内に響いた。

 夕日が工場の窓から見えている。その日の仕事は終わった。

 

                                  (おわり)

       

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