
あの暑き太陽は遠く
加藤康弘
荒れた海は、日差しを反射し、いくつもの光の乱舞を、生みだしている。
太平洋の果てに、マルシアの故郷がある。
あの熱き太陽の照りつけたディオネジャネイロの空は、見上げれば、紺碧の果てに彼女を誘い、白い陽光の中に包まれていくようでもあった。その追憶の果てを、この海の向こうにマルシアは見ていた。
マルシアは泣いていた。
涙のしずくが白い浜辺に落ちるがままになっている。
サラリとした長い髪を、額ごとわしづかみにして、彼女は嗚咽をもらしている。
小波の音は時が止まったかのように、彼女には聞こえてはいない。
この浜辺に彼女は何度、足を運んだことだろう。
そう、失恋の度に・・・。
心があらわれる・・・というより、心をあらいたい、あらわれるようような気持ちになりたい。故郷のブラジルの空を、思い出しながら・・・。
彼女は空を海を、涙でぼやけた瞳で眺めつづけている。
今まで何人の男との恋に破れたことだろうか?
今回で何人目であろうか?
マルシアは、別れた男、想いを告げてかなわなかった男には二度と会わない主義だ。
いい友達であり続けることなどありえない。
思い出に残る写真、そして彼の携帯番号もメールも・・携帯ごと全て海に投げ捨てた。
マルシアは泣いている。
そして空を仰ぎ見る。涙が頬を伝い、こぼれ落ちるのもそのままに・・・。
わたしはなにがいけないのだろうか?
わたしにはなにが足りないのだろうか?
わたしは思いやりがなかったのだろうか? 彼につらくあたり過ぎたのだろうか?
昨夜、”もう付き合えない”という彼からのメール・・・・
(なぜ?)と思っても理由は聞かなかった。もうおわったことなど追いかけたくない。
今までの失恋なら、友達と酒を飲んで忘れる。”あんな男!”などと・・・・。
しかし今回は違った。失恋したことには変わりはないが、海を眺めながらも自分を見つめ直している自分がいる。彼女も今年で28歳。失恋から何も学ばない、同じ事を繰り返すだけの自分に気づいたのだ。
今頃になって、ようやく気づいたといってもいい。
今までわたしは何をしていたんだ?
マルシアは立ち上がり、砂浜を駆け出した。
潮風を切り、砂浜を駆け巡る。空を仰ぎ、アハハ、アハハ、と声高く笑いながら・・・
波が高くうねり、二三滴の波しぶきが彼女の顔にあたった。
やがて立ち止まり、髪をかきあげながら、遥か彼方の水平線をみやった。
(・・・故郷に帰りたい。あの暑い太陽が懐かしい・・・)
父に連れられ、日本に来て十数年が経とうとしている。日系ブラジル人である父にとって日本は働き口と、そして家族と生活する環境としては申し分ないはずであった。
しかし、実際の労働条件や生活環境は劣悪であった。
父は何度となく職を変えたが、その度に腰や足を歪めたりして五体満足に家族の前でいられたことはなかった。朝は決まって早く、早朝六時頃には目を覚ますマルシアが起きても、父と顔を合わせたことはなかった。
帰宅も遅く、ある職場では零時を回ることもざらにあった。
たまの休日に目にするのは、くたびれた父の姿だけであった。
マルシアの家族はまた、住居も転々とした。自治体によっては医療保険が在日の外国人には適応されない所もあり、引越し先にも選ぶのに苦労を強いられたりもしたのだ。
日本での友人も同じ境遇の在日ブラジル人の中の社会でしか出来なかった。
マルシアは日本に来る前に日本語をよく勉強してきたこともあり、言語にそれほど苦労することはなかったが、彼女の友人の中には日本語がわからず、学校に行かない、いや、行けない子供も何人かいたのである。
やがて社会にでたマルシアは父と同じ苦労を実感することとなる。
父のように体を壊すほどの職に就いた経験はまだないが、ある職場では「生活雑費」などというわけのわからない名目で給料からてんびきされていたこともあった。
ただでさえ安い給料であるにもかかわらず・・・。
この国で生きていくことの生き難さは、自然とマルシアを「いい男と恋愛をして幸せをつかむ」という方向に走らせている。しかしそれも、いくつもの恋愛を経てもこの歳になってまで一向に成就しないのだ。
日本に来たことは間違いだったのだろうか?
マルシアはデオネジャネイロのスラム街で育った。寂れたあの街並が、今は懐かしく思われた。
ヨハンは?トモは?カツミは?アヤコは?みんな元気だろうか。マルシアは幼い頃、共に遊んだ友人たちの顔を順に思い出していた。
あのデオネジャネイロの暑き太陽の下、スラムの街角を子猫のように駆け回っていた日々が、彼女の脳裏に蘇る。
失恋が望郷の念を強くしているのだろうか?こんな思いが巡ることは今までにないことだった。
マルシアは今、自分が変化し始めていることを実感している。
(・・・ヨハン?彼は・・・今、どうしているのだろう?)
赤茶けたブロンドの髪、鋭い目つきやしなやかな身のこなしは、野生の狼を連想させた。しかし、彼が微笑むと、もし天使さまが本当にいらっしゃれば、こんなの笑顔で微笑むのだろうなと連想させるほど、なんともいえない笑顔を見せるのだ。
ヨハンは、マルシアが家族と共に日本に移り住む前、さよならを言っていない唯一の友達だった。なぜなら、その時彼はある犯罪を犯し、警察に捕まり少年施設に送られてしまったのだ。
マルシアは彼が泣き叫び、手足ももげんばかりに暴れながら、警察に連行されていくのを目撃していた。
マルシアはそこから一歩も動けなかった。だだ顔を覆い泣きじゃくり、ヨハンの名を叫ぶだけだったのだ。
あれから十年以上の月日が流れている。
彼はとうの昔に釈放はされていることだろうが、今、彼はどうしているのだろうか?
ヨハンには両親はいなかった。幼い弟と妹と三人で路地裏を住みかにしていた、いわゆるストリートチルドレンだった。
あの頃、マルシアはヨハンによくからかわれた。
「泣き虫」と・・・。
マルシアはよく泣く子供だった。ほんの些細なことで涙を見せ、大声でわめいたりした。それは大人になった今でもあまり変わっていない気もする。
マルシアが泣き出すとヨハンは決まって、腕組みをする。しばらくじっと狼のような目を細めてその様子を眺め続け、そして急に顔をほころばせて例の微笑みを浮かべる。
「泣き虫」と彼は笑うのである。
マルシアは本当に泣き虫だったのだ。そして負けず嫌いだった。嗚咽を漏らしながら彼女は声にならない声で何か言い返す。何を言っているのかわからない。ヨハンは笑いながら「マルシアの泣き虫」と繰り返し、太陽の照りつけるスラムを走り去っていく。
一人ポツンと立ちすくむマルシアの影だけが彼の走り去った方に伸びていった。
ヨハンはスラムの街角の片隅でいつも方膝を組み座っていた。街の様子を眺めているようだった。
ヨハンの目は細く、そしていつもギラギラしていた。
照りつける暑い日差しを反射し、その目は爛々としていた。
まるで生まれ育ったスラムを憎悪するかのような眼差し・・・皮肉に満ちた嘲笑を浮かべているかのように、唇をゆがめてさえいるようだった。
マルシアが声をかけると、彼ははじめて彼女に気づきそして微笑んだ。別人のような天使の笑顔をマルシアに向けるのだ。
マルシアはヨハンが逮捕された直接の罪状を覚えていない。
少年施設に送られるのだろうと父親が話をしていたのを覚えているだけだ。
ヨハンはよく繁華街に出て、盗みやかっぱらいをやっていた事をマルシアは知っていた。話さなくてもいいことなのに、彼はそのことを友達の前で自慢げに話すのだ。
彼に罪の意識はなかった。それは生活のため、そして幼い弟や妹を食べさせていかなければならないため・・・。
かわいた、そしてどこかわりきったような感覚。盗みをゲームのように楽しみ、それを誇らしげに話す彼に、当時マルシアはヨハンから危険な何かを感じるには幼すぎた。
ただ、いつかこうなる、彼の身によくないことが起きる・・・マルシアはどこかでそう予感していたはずであった。
(ヨハン・・・なぜ今、彼のことを・・・?)
荒れた海の砕けるような波の音。海鳴りは潮風を呼び、彼女の黒髪を揺らす。そしてそれは肌寒く、思わずマルシアはそっと自分の両腕を抱いた。
季節は秋から冬に変わろうとしていた。冬の海と潮風はマルシアの身を引き締める。
しかし空は晴れ渡り、陽光はやさしくマルシアを照らしていた。
追憶の果てのスラムの空が、そして太陽が、不思議とこの冬空と重なってくる。
あの暑き太陽の下のほろ苦い記憶。それは肌を刺す潮風と共に、海の彼方から運ばれてくるようでもあった。
ヨハンが警察に連行された直後、マルシアは泣きじゃくりながら、ヨハンの弟と妹の所へ向かった。その時、彼女の影が物悲しく行く手に伸びていたのを、マルシアは記憶している。
彼らは棲家から出て路地裏にたたずんでいた。幼い二人の影がマルシアと同様にスラムの街並に伸びていた。そしてじっとマルシアを見つめていた。
マルシアは泣きながら二人を抱きしめた。
そして嗚咽を漏らしながら、なぜかその時こんなことを口走ったことを覚えている。
(ごめんね・・マルコ、リア・・・ごめんね、ヨハンを守ってあげられなかった・・・ ごめんね、ヨハン・・・ごめんね・・・)
あの時、なぜ?わたしは幼いマルコとリアに謝ったのだろう?そしてヨハンに謝ったのだろう?彼が警察に捕まったことは悲しいことだった。しかしその原因や責任がわたしにあったわけではなかったはずなのに?
なぜ?あのとき謝ったのだろう?そして自分を責めたのだろう?
そして・・・・なぜ?
(ヨハンを守ってあげられなかった)・・・と口走ったのだろうか?
なぜ・・・・・?
強い潮風と共に荒波が押し寄せた。波しぶきが飛沫する。マルシアは思わず顔をそむけた。潮風だけが吹き抜けて彼女の黒髪を揺らす。
冬の海は白く光を湛え、そしてどす黒くうねる。遥かな水平は無言にマルシアに問いかけ、そして答えを返すことはなかった。
マルシアは再び砂浜を歩きだす。浜風はただ身に染みて冷たく、心の隙間に容赦なく吹き込んでくるようでもあった。
(・・・ヨハンを守ってあげられなかった・・・ごめんね、ヨハン・・・ごめんね・・・)
あの時わたしは・・・ヨハンを守ってあげられなかったのだろうか?
いや・・・守ろうとしていたのだろうか?
あの当時を振り返ると、ヨハンはマルシアにとって決していい友達とはいえなかった。よく遊んだ仲だが、友達をからかってはゲタゲタと笑い、盗みを働いてはそれを自慢げに話す彼に、貧しいとはいえ、それなりに教養を重んじる家庭で育ったマルシアにはついていけない所があったことも確かなのだ。
それでも・・・マルシアはなぜかそんなヨハンにいつも、くっつくようにして遊んでいた。スラムを走り抜けるヨハンをいつも追いかけるようにして・・・例え「泣き虫」と揶揄されようとも、彼を嫌いになることはなかった。
あの時、わたしは・・・ヨハンに対し、どんな感情をもっていたのであろうか?
どんな感情を・・・?
砂浜はマルシアの通った足跡が点々と続く。波は先ほどより少し凪いできた。
海鳴りも静かに、そして潮風は厳しさをひそめ、マルシアに対し少し緩やかになってきた感があった。
黒髪をかきあげたその視線の先には、浜辺に打ち上げる白波と、冬の空にしてはよく晴れ上がった広い青・・・あの空は雲ひとつ遮ること無く、デオネジャネイロの青空に続いているのであろうか?
マルシアはどちらかといえば、自分から男を好きになるタイプではない。アプローチを待っていることが多い。そして自分をなにより大事に想ってくれる男を選ぶ。
自分が想うより、自分が大事に想われること・・・今までつき合ってきた男にはそれをなにより求めてきたのだ。時には相手を試し過ぎるくらいに試すことも・・・。
一際、大きな波の音が鳴り響いた時、マルシアは、ハッと我に返ったように波打ち際を振り向いた。
(わたしは相手を大事に想ったことがない・・・)
あの時、ヨハンに対して抱いていた感情・・・それはそういう感情にもっとも近いものではなかったか? あの時は・・・・それは間違いなくあったのだ!
いつからわたしは、人を想う心を失ったのだろうか?
いつからわたしは、人を大事にする心をなくしたのだろうか?
いつから・・・・?
ブラジルから日本に渡って十数年、行き詰るような生活感から、自分が幸せになることだけを追い続けてきた。自分のことしか考えてこなかった。そんな生き方がいつしか、マルシアに大事なものを見失わせていたのだ。
砂浜を歩き続けるマルシアの瞳からまた、涙がこぼれだす。
あの時も、生活のためとはいえ、盗みを繰り返すヨハンに何かをしてあげなければならないという気持ちがありながら、なにもできない自分がいた。
必死でもがきながらも抵抗虚しく警察に連れて行かれるヨハンを、泣きながらその場から一歩も動けず、ただ見送るだけだったのだ。
(あのころから・・・わたしは何も変わってはいないのか?)
いや、あの頃のほうが今よりまだよかったのではないだろうか?
(ヨハンを守れなかった)と彼の幼い兄弟の前で叫んだ、あの頃のほうが・・・・。
波がまた、荒れてきた。潮風は一段と強く吹きぬけ、マルシアの頬の涙と黒髪をさらう。もう一度、自分を取り戻したい。マルシアは今、それを強く実感していた。
(ブラジルに帰りたい・・・ヨハンに会いたい・・・父さんはそれを許してくれるだろうか?)
マルシアの見上げた先には、冬にしては広く晴れ渡った空があった。
あの空はデオネジャネイロの、あの暑き太陽の照りつける紺碧の空に、雲一つ隔てることなく続いているのであろうか?
マルシアは浜辺を歩き続けている。青く広がる空に向かうように・・・。
終