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怪談?花田村は大騒ぎ!

                                                      加藤康弘

 

 岐阜県の深い山間に、花田村という小さな村がある。

 その村はずれに小さな廃屋があり、一人の電力会社の社員が、出向でこの村に来て、その廃屋に住み始めたことからこの物語は始まる。

 これは深い山間の村に起こった、一大騒動記。やがては村人を巻き込んでの、上へ下への大騒ぎとあいなる。さてその顛末はいかに?

 

 カッコウの鳴き声が、緑映える山々から、こだまするように聞こえてくる。小鳥の「チュンチュン」というさえずり、耳を澄ませば、かすかに聞こえる川のせせらぎ・・・。

 「すいませーん」

 吹き出た汗が、その広い顔いっぱいに流れる。手持ちのタオルでそれをぬぐいながら洋介は、前を歩く、家主の正三に声をかけた。

 「遠いんですね。まだ歩くんですか?」

 正三は齢七十五歳。三十を少し過ぎたばかりの洋介とは、親子以上の歳の開きがある。しかし、正三のほうが遥かに健脚だ。どちらが若者なのかわからない。

 洋介には長年、空手で鍛えてきた体があるのだが・・・このところ会社でのトラブル等でまともに稽古ができていないせいか、体力は落ち気味である。意志に反してついてこない自分の体に情けなさが募る。

 「もうじきですわ。ほら、向こうに少し見えてきた。いや、まだ見にくいかな・・・あんたさ、荷物も重いでしょうが、もう少しがんばってください」

 洋介は手荷物をいっぱいに抱え、汗を流しうなだれるように歩いく。確かに手荷物の重さもある。しかし、正三爺も洋介の荷物を背負いながら歩いているのだ。長年、農作業で鍛えた体である。年齢は関係ない壮健さが彼にはあった。

 (老人に負けるなんて・・・)

 若く血気盛んだった頃は、選手権大会で何度も上位にくい込んだ。夜、午前様になってまで稽古しても平気な体力が昔はあった。しかし、今は年齢と、このところの稽古不足が重なり、体力の衰えを顕著に感じる今日この頃である。普通の人、いやそれ以下の体力に落ちているのではないかと、自らを疑うことすらあるくらいだ。

 「ああ、ここからならよく見える。あれがあんたさの住まいですわ」

 正三が声をかけた。そして彼の指さすほう・・・。その家を谷の向こう側に見たとき・・・洋介は血の気が引くような感覚を覚えた。

 それは古びた廃屋。とても人の住む場所には思えなかった。

 屋根の瓦は一部が崩れ落ちていた。、家の白い壁ははがれ、中の竹格子がむきだしになっているのが見える。

 (あんなところに住むのかよ・・・)

 気落ちする洋介の心の内を、知ってか知らずか、正三は相変わらずマイペースである。

 「ほら、ここはあんたさが働く花田ダムも見えますよって。大きいでしょう?放水の時はそらあ見物ですわ」

 正三に催されて、洋介は明日から自分の職場になる花田ダムを眼下に望んだ。

 落差は九十メートル。ここから見下ろすだけでも、めまいを覚える。ダムの水は緑色がかって底は見えないが、かつてはダムの底には、ちょっとした集落があったらしい。

 潜れば今でも、その遺構を見ることができるという。

 「あのダムは古いダムですよ。あのダムのおかげで日本人は終戦後、電気が不足するゆうことはなかったですわ。あんたさあそこで働くゆうことですけど、あのダムはほんにありがたいダムです。こう言うのもなんですけど、あんたさ、あそこで働けるゆうのは光栄なことですよ」

 洋介はうんざりした気持ちで正三の言葉を聞いていた。

 こんな僻地まで飛ばされて、挙げ句の果てには、あんな人の住めないような廃屋での生活である。光栄もへったくれもあったものではない。

 「それにしても、すごいところに家を建てたものですね。土砂崩れが起きたらひとたまりもなさそうだ」

 洋介は上を見上げ、下を見下ろしながら溜息をついた。

 「なんの・・・」

 正三は言う。

 「この辺りの山は花崗岩でできていて、岩盤が非常に固いんですよ。だから、土砂崩れなんて今まで、ただの一度も起きたことはありません」

 正三爺は汗を手ぬぐいでぬぐった。

 彼の担ぐ洋介の荷物は衣類がほとんどだ。洋介の持つ日用雑貨類よりははるかに軽い。それでもこの急峻を、そんな荷を持って登るのもこの老体には難儀なことだろう。ひたいに滲んだ汗をしきりに拭いている。

 「申しわけありません、荷物まで運んでいただいて・・・」

 洋介の荷物はこれだけではない。麓に止めた車の中にまだ、小型の冷蔵庫やテレビの類が残っているのだ。その荷物運びを、老人の正三に手伝わせているところに、洋介の良心の痛みがあった。

 「いや、気にせんと。こんなところしか、住まいを提供できなんで、わしらこそ申し訳ない・・・」

 正三はくったくなく笑った。

 「さあ、行きましょう」

 廃屋は近づくにつれ、その惨状があらわになった。

 木造の古い建物である。正三の話では、昔は果樹園や棚田をこの辺りでやっていたため、しばらく納屋に使っていた時期もあったが、最近ではそれもやめて、あの建物もほとんど用を足すことはなくなった。だから、手入れが行き届いていないのだ。

 まず、玄関の戸が外れている。それは簡単に直せるとしても、問題は何枚か窓のガラスが割れていることである。だから、窓ガラスも入れなければならない。

  戸の外れた玄関から中に入ると、割れた窓からさすわずかな陽の光が、薄暗い廃屋の中を照らしている。

 古びた農器具や、がらくたの類が無造作に置かれていた。正三は荷物を降ろすとまずその整理にとりかかる。

 「これでも片づけたほうですがね」

 正三はバツの悪い笑いを浮かべた。

 「荷物はここに置いて下さい。まだ汚いですが、中のほうは整理が終わってます。まあ、そちらで休んで。また、後で一緒に下の荷物を取りに行きましょう」

 いそいそと片付けを始める正三に、洋介も突っ立ってばかりもいられない。

 手伝い始めはしたが、心は複雑である。

 (俺・・・なんでこんな所に住むハメになったんだろう?)

 洋介の勤める電力会社は、県下にいくつかの水力発電所をもつ。花田ダムはそのうちの一つだが、これだけ大きいダムなら、職員寮があってしかるべきなのにもかかわらず、洋介が割り当てられた住まいは、花田村の空いた住居の間借りであった。

 それがこの正三爺の家の、今は使われていない廃屋なのである。

 (冷てえよなあ、うちの会社は・・・)

 空手を続けていきたいがために昇進を断った。昇進すれば、他県へ飛ばされる危険性があったためだ。道場へは通えなくなる。しかし、社内の再編とリストラにやっきになる会社が、洋介に課した処置は冷たいものだった。

 ”昇進の意欲のない社員をいつまでも同じセクションには置かない”という方針のもと、配置換えをさせられ、飛ばされた場所がこの花田村なのである。

 結局、道場が遠くなってしまったが、それでも恵那市内にある道場までは、車で一時間くらいの距離。まだ空手を続けるのに支障のない範囲である。

 (でも、なんでこんなところで・・・)

 仕事をやめようかとも考えた。しかし、就職難の続く今のご時世、三十歳を越えた洋介の新しい就職先など、用意に見つかるものではない。

 「ハア」と溜息がもれる。気持ちもどんどん落ち込んでくる。こんな姿、うちの師範に見せられたものではないな・・・とも思う。

 こんな時、師範だったら、どんなことをいうのだろうか?

 頭の頂点のまぶしい?師範の顔が思い浮かぶ。

  ”くさるな”

 師範の声が聞こえてきたような気がした。

 初老だが、そのありあまるほどのエネルギーは凄い。今時の若者など、鼻息で消し飛ばせるほどである。

 その情熱を、空手だけに一途に捧げてきた人生・・・やや、気弱なところのある洋介が、師範についてここまで来たのも、その彼の気迫と情熱に自分にないものを感じ、それを欲したが為でもあった。

 (師範なら・・・こんなことでくじけない!)

 洋介は、廃屋の中を見渡した。

 土間の片隅に古瓦が何枚も積み重ねてあるので、試し割りの練習には、事欠かないだろう。あとはブロックでもあれば。正三爺の片づけ始めたガラクタの類には、武器法の稽古などに使えるものもありそうだ。

 洋介の中で、何かふつふつと沸いてくるものがあった。

 要はどんな環境や境遇に置かれようとも、あきらめないことが肝心なのだ。

 (少し、元気が出てきた)

 整理や片付けに、小気味よいテンポがではじめた。

 下の車の荷もあげて、一通りの引っ越しが終わった頃、陽は傾き、夕闇も迫る時刻になっていた。カラスが山から山へ「カーカー」と鳴きながら飛んでいくのが見える。

 「この辺りの夕陽はきれいですねえ」

 縁側に出て、辺りの景色を眺めていた洋介は、そう声をあげた。

 「そうですなあ、農作業さ終わり、トラクターで家路さつくと、ちょうど夕陽が見えるんですわ。そらあもう、今日一日、よう仕事したなあという気になれますわ」

 竈から水蒸気が、プクプクと音を立てながら、吹き出しているのが見える。

 火を入れて竹筒で空気を送り込んでいるのは、正三である。

 「久々にこの竈で焚きましたわ。まだ、使えますね。炊飯器もいいけど、たまにはこいつも使ってやってください」

 居間には、地元の酒と近くで獲れたという川魚、山菜の類がある。今晩は引っ越しを手伝ってくれた正三爺と晩酌である。

 「正三さん、もうこっちへ来て下さいよ。一杯やりましょう」

 こんな自然豊かな場所で毎晩、晩酌ができる・・・そう考えると、決してこの生活も悪くはないかもしれない。あとは山にはいった修行僧のごとく、稽古に励む。

 (そう、俺は山に修行にきたんだ。これは山籠もりなんだ)

 そう考え始めるとこの生活も楽しくなるだろう。先ほどの憂鬱な気持ちが、まるで嘘のように気持ちは明るくなってきた。

 「それじゃあ、一杯もらいますかのう」

 正三爺が来て茶碗を差し出した。トクトク・・・と音がして、酒が注がれる。

 「うまい!」

 正三が短く声をだした。よほど、この一杯はおいしかったのだろう。

 「さあさ、洋介さんもどうぞ」

 正三が返杯をする。洋介も注がれた酒は、一気に飲み干した。

 「うまい!いやあ、いい酒ですねえ、これは」

 「花田でできる物に、まずい物なんてありゃしませんわい。さあさ、もう一杯」

 ご飯も炊きあがっているが、二人は酒に夢中になっている。

 酔いが回ると二人の舌も饒舌になってくる。洋介は空手談義に花を咲かせ、正三は今年の農作物の出来など。花田に昔から伝わる昔話も、手振り身振りを交えながらおもしろおかしく話す。そうこうしているうちに、いつのまにやら夜は更けていった。

 闇夜に野犬がウオーン・・・と吠える。

 まるで、今宵、始まる狂想曲の始まりを告げるかのごとく・・・。

 

 どれほどの時間が過ぎたことだろう?

 花田の夜は暗い。遠くおぼろ月が出ているが、今日は三日月。夜の闇を照らすほど明るくはない。ホーホー、とフクロウの鳴き声が山奥から聞こえてくる。

 洋介と正三は眠りこけている。花田の酒はよく利いたようである。

 竈の火は消えているので、土間は特に暗い。部屋の点けっぱなしになっている電気だけが、煌々とこの家とその付近を照らし、この辺りで、一番明るい場所になっている感があった。

 突然、その部屋の電気が消えた。

 ヒュー・・・と風が窓から吹き抜けていく。

 草木も眠る丑三つ時・・・怪談話でおなじみのこの出だしの言葉。今がまさにこの瞬間であった。

 ヒュー・・・ドロドロドロ・・・・。

 洋介はフッと目を覚ました。

 「・・・・」

 どこからともなく、音が聞こえてくる。

 よく耳を澄ますと・・・・。

 ドンクタクタクン、ドンクタクタクン、ドンクタクタクン・・・・。

 太鼓の音?だろうか?それは段々とこちらに近づいてきている。

 ドンクタクタクン、ドンクタクタクン、ドンクタクタクン・・・・。

 洋介は、となりで眠りこけている正三を揺すり起こした。

 「正三さん、正三さん・・・」

 洋介の声で起こされた正三は半分、寝ぼけ眼。それでも、事態の異様さには、すぐに気づいた。

 ドンクタクタクン、ドンクタクタクン、ドンクタクタクン・・・・。

 近づくにつれ、段々と大きくなるその音は、明らかに太鼓のような打楽器の音である。

 「・・・今夜は、お祭りでもあるんですか?」

 「・・・いや、花田のどの部落も、お祭りは秋。それに、こんな変わった音のする太鼓は、どの部落の祭りでも叩きはしませんわい」

 ドンクタクタクン、ドンクタクタクン、ドンクタクタクン・・・・。

 不思議なことに、その音は洋介と正三のいる居間の北側、ふすまの向こうから聞こえてくるのだ。ふすまの向こう側はもう一つ部屋があり、外とは通じてないはずである。

 そして・・・ピタ・・・っと、音が鳴りやんだ。

 「・・・・?」

 「・・・・?」

 洋介と正三は互いに顔を見合わせる。

  二人は音を立てないよう、抜き足差し足という具合に、ふすまに、おそるおそる近づいた。左右に別れ、ふすまの取っ手をつかむ。

 そして二人は目配せをすると、左右から同時にふすまを開いた。

 「・・・・!」

 「・・・・!」

 息を飲む二人!それは二人の想像を、はるかに絶する光景であった。

  そこには・・・見慣れない民族衣装を着た、十数人の男たちが、これまた見慣れない楽器を肩から下げ、四列縦隊で並んでいた。

 両手にはバチ・・・だろうか?日本の太鼓のバチとは形態が違うようだ。左右に持つバチの形がそれぞれに違うのである。

 そして、彼らの持つ楽器。肩からぶら下げたその楽器こそ、今まで聞こえてきた太鼓の音の音源に違いなかった。

 日本の太鼓とは明らかに違う、独特の形をしている。まるで木彫りの砂時計のように、真ん中がしぼった形で彫られ、左右の革は、太い紐で結ばれ、しぼられている。

 そして、前列の一番右端の男。変わった形の鐘を持っている。金でできた鉢のような形態で、また、そのバチの形も、円盤に棒を差し込んだ変わったものであった。

 その鐘を持った男が・・・おもむろに、鐘を叩きはじめた。

 また・・・演奏が始まったのである。

 ジャンジャジャンジャジャンジャジャンジャ・・・・。

 バチを鐘の平たい面にこするように演奏する。独特の金属音だ。

 その鐘の演奏に合わせ、他の男たちも一斉に打楽器の演奏を開始した。

 ドンドンクタクン、ドンドンクタクン、ドンドンクタクン・・・・。

 左右のバチを、おそろしく速いテンポで交差させるように革に叩きつける。リズムはアップテンポに上がっていく。

 ドンクタクタクタ、ドンクタクタクタ、ドンクタクタクタ・・・。

 リズムに合わせ、男たちは踊り始める。

  鐘を鳴らす男を先頭に、一列に並び、洋介と正三の周りに円を描くように行進する。

 時折、くるりと回り、体を上下に揺らしながら、踊る、踊る、踊る。

 洋介と正三はその場で腰を抜かしたように、へたり込んでしまった。

 「う、うわああああ!」

 二人は同時に叫んだ!

 「で、でたああああ!」

 洋介は幾多の空手の大会に出てきた歴戦の猛者である。その彼でさえ、目の前で繰り広げられる光景は、まさに未知の恐怖であった。

 正三は亀のように体を丸め、両手を合わせて、念仏を唱えはじめる。

 「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」

 それでも、彼らの演奏や踊りは止まる気配はない。逃げようにも完全に彼らに囲まれた状態なのでそれもかなわない。洋介はしかたなく、正三にならって念仏を唱えようと両手を合わせた。

 その時である。

 「こりゃ、正三!へたな念仏をやめてこっちを向け!」

 一喝するように響く女性の声。演奏が止んで部屋はシーン・・・となった。

 しずしず・・・と、男たちは下がり、闇の中にスッと消えていく。

 開いたふすまの向こうの部屋にボウッ・・・と、火の玉が現れた。

 それもやがて、闇に溶けるように消え・・・。こんどは・・・白装束の女がスッ・・・と、現れる。

 「正三!」

 女はまた一喝した。

 「こっちを向けというに!」

 正三はおそるおそる、顔をあげた。そして女の顔を見て、驚くように声をあげる。

 「ね、ねえちゃん?トシねえちゃんなん?」

 女ははまだ若い。正三とは祖父と孫くらいの年齢の差がある。それでも、正三が「ねえちゃん」と呼ぶこの女性は一体何者なのか?

 「ねえちゃんじゃないわ、このはな垂れ小僧!あんた、今年、慰霊祭をやらんかったんは、どういうことなん?言い訳があるなら、言ってみい!」

 方言まるだしで正三を罵倒する女は、黒髪で、血の気のない瓜実色の顔も、みとれるくらいに美しかった。

 「そんなん、ねえちゃん・・・もう、毎年やってきたし、わしももう歳だし・・・まあええやろ、思って・・・」

 「たわけ!」

 ねえちゃんがまた、一喝した。

 「とにかく、今年もやらな!盛大にやらな!毎年のようにチマチマとやらんと!花田寺借りて、盛大に!あんたと村の人が、世間様にわからんようにチマチマやっとるから、あの人たちもわたしも、いつまでたっても成仏できんじゃないの!それにあの人も・・・。あの人の骨、見つかったの?」

 正三は悲鳴をあげた。

 「そんなん、七十年も前のことやん、見つかるわけないに・・・」

 「見つけな!」

 ねえちゃんが一喝すると、正三爺はびくっとして、背筋がピンとのびる。

 よほど、恐いねえちゃんだったのだろう。

 「慰霊祭はあの人の骨が見つかってからやること!あそこにあるのは間違いないのだから・・・。ちゃんと捜しなさいよ、骨がみつかるまでは、あの人たちが毎晩のように村にでてくるからね。覚悟しとき」

 正三はまた、悲鳴をあげた。

 「毎晩、村にでてくるって!そんなあ、ねえちゃん、勘弁してなあ」

 「はよ、捜し出して、慰霊祭やればいいんよ。あんたがさぼろうとするから、そうなるだにな。わかったら、あしたからやるだに!さぼったら、真っ先に、あんたの家にあの人たちが行くからね。覚えとき!」

 ヒュー・・・ドロドロドロ・・・と、また例の音がする。そしてねえちゃんの体は、闇に溶けるようにすっと、消えていった。

 洋介は茫然自失している。正三が再び手を合わせ、「ナンマンダブ、ナンマンダブ、」とやりだすのを見て、思わず彼は正三の肩を揺すってさけんだ。

 「正三さん!これは一体どういうことですか?聞いてないよ、こんなこと!一体、あの幽霊はなんなんです?一体、この村になにがあったというんですか?」

 正三は悲しげに洋介をみつめた。

 「洋介さん、こんなことになってしまい、本当にもうしわけない・・・。住まいの件はしばらく、わしの家に泊まって。そこから、ダムの方に通って下さい。それで・・・このことは他言無用に願います。誰にも言わんでください。この村には、おおやけにはできない、悲しい歴史があるんです」

 「・・・・」

 「お願いします。今日のことは忘れてください。お願いします・・・」

 何度も頭を下げる正三を見て、洋介はそれ以上、何も言えなくなってしまった。

 外は、夜の帳が明けかかっていた。薄闇の中、花田の山々がシルエットとなって、日の出をまつばかりである。

 

 「うわあ~!でたあ!」

 その叫び声が何度、花田の山々にこだましたことだろう?

 洋介が、花田村に来た夜から数日、あの謎の民族楽器集団の幽霊は毎晩、花田村を席巻し続けている。

 ドンクタクタクン、ドンクタクタクン、ドンクタクタクン・・・・。

 そして、夜な夜な響く、あの民族楽器の音。

 時には、ある家の茶の間に現れる。、

 その家の子供がポカンと口を開けて見ている中、彼らは踊る、踊る、踊る。

 両親はがたがた震えながら寄り添い、電話で百十番通報。

 数分後、交番のおまわりが駆けつける。しかし、相手は死人だから、逮捕もできない。本来なら、彼らに科せられるのは、住居侵入罪などであるが・・・。 

 また時に、彼らは部落の寄り合いの場に乱入する。

 彼らが現れれば、村人たちはこぞって、念仏を唱える。「ナンマイダ」「ナムミョウホウレンゲキョ」「ナンマンダブ・・・」等・・・。

 宗派によって唱えるお題目は違うが、効き目があったと報告のある念仏は、今のところない。唱えても、彼らは何事もないかのように、自分たちの演奏を続けるからだ。

 どうやら、村人たちの信心深さが足りないようである。こういう時だけ、神仏に頼ろうとするのは、ご都合主義の極みであろう。

 そしてまた時には、山奥までドライブにきた、若いカップルの停車中の車の前で演奏会!キスをしようと見つめ合う二人の前で、彼らは叩き、かつ踊る。

  女が驚いて目を見開き、彼らのほうを指さす。男はその指さされたほうをみやる。

 次の瞬間、情けない悲鳴をあげて、男は慌てて車を走らせる。峠の走り屋も真っ青のスピードで山道を走るものだから、助手席の女はたまったものではない。来週のデートを約束した遊園地・・・そのジェットコースーターの気分を、一週間早めに体験できたことだろう。

 またまた、時には仔牛の出産を待つ牛舎で。

 「モー」と母牛が吠える。人も牛も、しばし唖然・・・っと、仔牛が出てきて、牛舎は出産祝いの祝賀会。かれらの演奏に合わせて牛たちも踊り出す。

 「めでたや、めでたや」である。新たな命の誕生を祝うのに、人も死人も動物も関係ない?のであろう。音楽の宴は夜通し続き、翌朝、牛は寝不足でダウン。結局、朝の搾乳はできず・・・。

 牛乳の出荷ができないもので、牛屋は頭をかかえるばかり。生まれたばかりの仔牛は罪もなく・・・だだ、「モー」とかわいらしい鳴き声をあげるばかり・・・。

 そんなありさまが、ここしばらくの花田村なのである。

 彼らはあのリズムで、どこでもお構いなく現れては踊り、そして一通り演奏をし終わると消えていった。意気揚々と消えていく様は、まるで、”今夜も素敵な演奏ができて最高!”とでも言いたげなくらい、満足そうなのだ。

 そんな騒動の最中、正三のあせりは極度に達していた。

 例の骨が見つからない。騒ぎの元ともいうべきか?それを見つけ、早く慰霊祭を執り行わないと、この騒ぎは、いつまでたっても収束しないだろう。

 正三の責任は重大である。

 さて、正三爺がどこで、また誰の骨を捜しているのかという話は、また後ほど。

 話は洋介のことである。

 

 実は洋介は、まだあの廃屋で生活をしていた。

 正三爺の家に住まうのにも、また山道を通って、引っ越しをしなければならなかったし、また、彼の家族にも気を遣いたくなかったからだ。

 それに洋介の空手の修練の場としてもここは魅力的で、試割りの為の瓦や、武器法の鍛錬の為の道具も豊富にある。また家が集落と離れたところにあるため、夜、気合いを入れた稽古をするのにも、近所に気兼ねをする必要もなかった。

 なによりも、職場が目と鼻の先にあるのだ。正三爺の家からだと、花田ダムはやや方角も違い、遠くなってしまう。だから、わざわざ引っ越す必要性は、洋介は感じなかったのだ。ただ、問題はあの幽霊たちである。

 彼らは夜、決まった時間(10~12時くらい)になると、例の部屋のふすまから演奏をしながら現れ、村に繰り出していく。そして明け方、また戻ってきて部屋に消えていくのである。その間、彼らが洋介に危害を加えるようなことはなかった。その騒音は確かにうるさく睡眠の邪魔にはなるが、慣れてしまえば、さほど気にもとめなくなる。

 並の人間なら、今頃、気がふれていてもおかしくはないが、彼には空手で鍛えてきたその精神の強さからくる、剛胆さがあった。

 彼らを恐れることはなくなったが・・・疑問や疑念は根強く残っている。

 彼らは一体、何者なのか?

 顔立ちや肌の色は日本人にそっくりなのだが・・・あの独特の民族衣装や楽器からして、まず、日本人ではないことは確かだ。

 では、彼らはどこから来た人たちなのか?そして、いつ頃、日本にきて、そして何が原因で死人となったのであろうか?

 また・・・彼らが奏でる音楽、そしてあの楽器は何なのか?あれは彼らの独自の文化なのだろうか?

 そして・・・正三や、幽霊となった正三の姉、トシとの関係は?

 ほどなくして、それらの疑問や疑念が晴れる時がきた。

 それは、ある月夜の晩のことだった。

 その日、洋介は仕事が遅くなり、恵那の本部道場まで、稽古に行く時間がとれなくなってしまった。

 仕方なく、道着を着て、家でできる稽古をやろうと心に決めて、基本から稽古に励んでいた。時間は夜もだいぶ更けた頃・・・そろそろ、彼らが出てくる時間帯である。

 ドンクタクタクン、ドンクタクタクン、ドンクタクタクン・・・。

 (きたな!)

 洋介は構わず、稽古を進める。

 洋介が家で自主稽古をする時間帯と、彼らが現れる時間帯が重なるのは、これが初めてであった。

 それが・・・この後、思わぬ展開を呼ぶこととなるのだ。

 ドンクタクタクン、ドンクタクタクン、ドンクタクタクン・・・。

 洋介は心を静め、精神を集中させて立ったまま、その場で黙想をする。彼らの演奏に心乱されないように・・・体の隅々の状態まで広く深く探り・・・心身のバランスを整え・・・深く瞑想・・・。

 洋介は立禅の状態にあった。

 と、彼は突然に目を見開き、息吹の呼吸を始める。

 「カアー・・・カッ!」

 「平安」の型が始まった。

 「平安」と書いてピンアンと読む。元々、沖縄が発祥である空手は、本土に伝わった時、型しかなかったという。型は決して踊りや形式ではない。元来、型は達人の稽古方法の一つであったが、その型の意味や、そこに含まれるその膨大な情報を、継承する道場は非常に少なくなった。洋介の通う道場は、その数少ない道場の一つなのだ。

 「平安」の型は幾通りもあり、今、洋介が行っている型は「平安その五」の型である。

 動きはまるで水の流れのよう。一つの動きが決まるごとに、洋介の体は鋼のように引き締まる。いにしえの達人の魂が乗り移ったかのような、洋介の見事な動き・・・それはさすがに空手の有段者だけのことはあった。最後に、両腕を左右に引き裂くような形をとって、「平安その五」の型は決まった。

 「・・・・?」

 静かである。先ほどまでの騒々しさがまるで嘘のようだ。

 振り向くと・・・洋介は思わず、腰を抜かしそうになった。

 彼らが・・・じっと身じろきもせず、洋介の動きをみつめていたからだ。

 ガヤガヤと、互いに顔を見合わせ、何事か話をしている。彼らの言葉はよく聞き取れないが、明らかに日本語ではない。

 と、彼らの中から、洋介の前に進みでてきた人物がいた。

 彼らのリーダーであろうか?死人にしては人なつっこい笑顔で、人好きのする顔立ちの男であった。

 「あのう・・・あなたが今、やっていたものは一体、何ですか?」

 幽霊がしゃべった!しかも日本語で!

 洋介は戸惑いを隠せない。彼らが自分に話しかけてきたのは、今晩が初めてではあるが・・・なにより、衝撃を受けたのは、自分の型稽古が、明らかに彼らの関心を引いたことなのである。

 「どうやら・・・テコンドーとも、チャクリキとも違うようですね。あなたがやっていたものには何か、気高いものを感じました」

 洋介は相手が幽霊だということも忘れて、無性にうれしくなった。

 「これは、空手というものです。日本の伝統の武道の一つです。日本が世界に誇れる文化でもあります!」

 オオー!っと、どよめきが起こった。

 「カラテー」「カラテー」という声がバラバラに聞こえてくる。

 洋介は思いきって彼らに尋ねた。

 「あのう、あなた方はどこからきたのですか?一体、どこの人なのですか?そして・・・あなた方が奏でる音楽は一体、なんですか?」

 彼らはまた、互いに顔を見合わせる。すると、最初に日本語で洋介に話しかけた男が、また洋介の前に進みでてきた。

 「申し遅れました、わたしはパク・ヘソンと言います。わたしたちの仲間で日本語が話せるのはわたしだけです。わたしたちは、七十年前、朝鮮半島から日本に来ました。ここにいるほとんどの者が、全羅道という所の出身です」

 そしてその男・・・パクは誇らしげな表情で、その打楽器を前にやり、両手で洋介の前に差し出した。

 「そしてこれは朝鮮半島の伝統楽器、チャングというものです。ヨルチェ、クングルチェという形の違う二つのバチで叩きます。これをやるとわたしたちは、とても元気になるんですよ」

 カチャカチャン・・・と、音がした。

 見ると、例の伴奏をしていた鐘の打楽器の音である。

 「これは、ケンガリ。これで調子をとって、チャングの演奏を引っ張っていきます。これを叩けるようになるには、ある程度、チャングの演奏経験が必要です」

 「チャングにケンガリ・・・ですか?」

 洋介は新鮮な興味を覚えた。

 朝鮮半島といえば、日本のお隣の国(韓国か北朝鮮かはわからないが)である。なのに、日本の文化とは明らかにおもむきが違う。

 民族衣装もあでやかで、あかぬけた感じがある。もっとも外国人から見たら、日本の伝統的な着物も、色鮮やかな印象をもつらしい。人間誰しも、他の文化と接すれば、色もおもむきも自国の文化にない、新鮮さを感じるものなのだろうか?

 ともあれ洋介の好奇心は、とどまる所を知らない。

 「わたしも自己紹介をしなければいけませんね。西岡洋介といいます。花田ダムで働きながら、ごらんの通り、空手もやってます。パクさん、あの・・・それ。そのチャングを少し、叩かせてもらってもいいですか?」

  パクは、笑顔で洋介の求めに応じた。

 「いいですよ。では洋介さん、あなたは、これを使ってください」

 パクがパチンと指を鳴らした。

 すると、洋介の目の前にチャングが一台、現れる。

 ヨルチェもクングルチェもある。

 そして、パクも自前のチャングを地面に置き、自らもその前に座った。

 「最初の練習は、座りながら叩くのが基本です。では、洋介さんも座って。右手でヨルチェ、左手でクングルチェを持ってください。では、少し簡単なリズムから教えますので、やってみましょう」

 ドンドンクタクン、という具合にパクが叩いた。

 「とりあえず、一度、ドンドンクタクンと口ずさんでみてください」

 洋介が口ずさむと、パクも口ずさみながら、ゆっくりとチャングを叩く。

 「ドンは両方のバチで、クンは左手のクングルチェで、タは右手のヨルチェで、という具合に叩いてみて下さい」

 口ずさみながら、叩いてみると、意外にいい音がでた。

 「すじがいいですね。では次は、ケンガリの音に合わせて叩いてみましょう」

 ジャンジャジャンジャジャンジャ・・・。

 演奏が始まる。最初はゆっくりめだったが、徐々に早くなる。

 ドンドンクタクン、ドンドンクタクン・・・・。

 演奏が早くなってくると、パクも他の幽霊たちも伴奏を始めた。

 ドンドンクタクン、ドンドンクタクン、ドンドンクタクン・・・。

 洋介は、ついていくのが精一杯だ。

 そして手がもつれ、その早さにお手上げになった時、演奏はやんだ。

 「いやあ、みなさん早いですね。僕はもう、手がクタクタだ・・・」

 パクは微笑んだ。

 「いや、初めてにしては、よく叩けるほうですよ」

 洋介は汗だくである。

 「でも、こうして叩いてみると・・・何か、体内がら湧き上がるものがあって・・・確かに元気が出てくるようです。パクさんが言った意味が、なんとなくわかりましたよ」

 パクは洋介の言葉を聞いてうなずく。

 「それを感じ取ることができるのは、さすがです。チャングは宇宙の気を集め、鼓の中に納める・・・気は風の流れ。クングルチェで風を送り、ヨルチェで止める。鼓の中に収まった宇宙の気は、チャングの叩き手に還元され、その人に力を与えます」

 洋介は目を輝かせて、パクの話に耳を傾けている。

 「気ですか。空手の気合いにも相通ずる話ですね。無言の突きと、気合いを入れて突く突きとは、明らかに威力が違いますから・・・」

 洋介の目に、庭に積んである瓦が目に入った。

 洋介はニヤリと笑う。

 「ちょっと、見ていてくださいね」

 平たい庭石を左右に固定させると、その上に瓦を五枚ほど積み上げる。

 パクさんたちは何ごとかと、洋介の様子を固唾を飲んで見守る。

 月光を背に、洋介は静かにその瓦を見下ろしている。風が吹き、静かに洋介の髪の毛を揺らした。そして次の瞬間!

 「いやあー!」

 気合いの声が庭にこだました。手刀一閃!

 ガラガラっと音をたて、瓦は見事に五枚とも真っ二つに割れた。

 「ウオオオオオー!」

 幽霊たちから歓声があがる。

 パクも目を丸くして、割れた瓦と洋介とを交互にみつめている。

 洋介は照れ笑いを浮かべ、「まあ、これが空手の気合いです」と言って頭をかいた。

 パクの後ろでガヤガヤと、幽霊たちが話をしている。

 と、一人進み出てきてパクになにか言っている。朝鮮語だから、当然、洋介には何を言っているのかわからない。

 やがてパクは洋介に向き直ると、いたずらっぽい笑いを彼に向けた。

 「洋介さん、みんなは、あなたのやっている空手を、自分たちもやってみたいと言っています」

 「・・・・」

 「わたしも興味があるので、是非、教えてもらえませんか?」

 (・・・え?本当に?)

 洋介は戸惑いを覚えた。

 幽霊に空手を教えるなど前代未聞である。気がつけば、ここまで彼らとうち解けて話せて・・・なんと不思議な夜だろう?もちろん、空手の素晴らしさを広めたい洋介としては、断る理由などない。

 「う~ん・・・よし!わかりました。任せて下さいよ、まだ指導員の資格はありませんが、精一杯、教えさせていただきます。ただし・・・」

 「・・・?」

 「わたしの稽古は厳しいですよ、覚悟してくださいね」

 パクは笑った。

 「ハハ、お手柔らかに、洋介先生」

 月は天高く上がっていた。

 幽霊たちは空手を習えるうれしさからか、その満月の下、歓声を上げながらチャングを叩き、踊りを踊る。

 そして・・・その日の晩から、幽霊たちは花田村に降りてこなくなった。

 正三が不審に思い、洋介の住まいに顔を出すのは、それから数日後のことである。

 

 正三は暗い夜道に、懐中電灯を照らしながら歩いていた。

 歩き慣れた道だが、やはりこの時間の山道を歩くのは恐い。電照の先には、眠る草木。そして山は静かだ。ただ、ホーホーと、フクロウの鳴き声が、黒々とした山々の果てまでこだましていた。あとは川のせせらぎが聞こえてくるだけだ。

 「・・・・?」

 いや・・・何か聞こえる。

 正三は立ち止まり、耳を澄ませた。

 「・・・・セイ!セイ!セイ!セイ!」

 何だろうか?無数のかけ声が聞こえてくる。あの幽霊たちがまた何か始めたのか?

 正三は駆けだした。

 声は廃屋に近づくにつれ、大きくなり、正三の耳にもよく入るようになった。

 「はいなおれ!呼吸を整えて!」

 洋介の声だ。一体、彼は何をやっているのか?

 「はい、不動立ち!右三戦(サンチン)立ち用意!構えて!」

 「セイヤー!」

 一斉にかけ声がした。

 正三が急いで駆けつけると、そこは・・・。

 「・・・・!」

 正三は唖然とした。

 空手の道着に着がえた洋介は、縁側の上に立っていた。しかも膝を内側にしぼった変わった格好で。庭をみると、あの幽霊たちが二列間隔で並び、これまた一様に洋介と同じ格好をしている。

 「では上段に構えて!上段突きいきます。気合い入れて!」

 「セイヤー!」

 なんと洋介は、あの幽霊たちを前に空手の指導をしているのだ。

 「イチ!」「セイ!」「ニイ!」「セイ!」「サン!」「セイ!」「シー!」「セイ!」

 洋介が数を数えながら、上段を突き、生徒の幽霊たちがそれに続くようにかけ声を上げながら、洋介にならって一斉に同じ動作を繰り返す!

 想像を絶する、あまりの光景に正三は、あいた口が塞がらない。

 「ちょっと!ちょっと、洋介さん!」

 正三は洋介の袖を引っ張った。

 「何をしているんですか!幽霊たちを相手に!彼らに取り憑かれでもしたんですか?」

 洋介は汗ばんだ顔を正三に向けた。中断されて、やや怒った様子だ。目は正常そのもので、取り憑かれたという様子はない。

 「ああ、正三さんか。邪魔しないでくださいよ。今、いいところなんだから・・・」

 正三は半ばあきれ顔である。

 「いいところじゃないですよ、洋介さん。幽霊に空手を教える人なんて、聞いたこともない・・・」

 「彼らはいい生徒ですよ、飲み込みも早いし。稽古が終わったら、彼らにチャングを教えてもらうことになっているんです。だから、邪魔しないでくださいよ」

 「な、何を教えてもらうって?」

 正三は目をぱちくりさせた。

 「だから、チャングですよ。朝鮮半島の民族楽器です。朝鮮人なんですよ、この人たちは。日本と朝鮮半島の文化の違いって面白いですよ。お隣同士なのに、いろいろと違うんだから・・・。ああ、あちらがパクさん。彼らの中で、唯一、日本語が話せるんです。彼からいろいろと、教えてもらっているんですよ」

 洋介は好奇心旺盛な性格である。きっと、いろいろと彼らに、刺激を覚えることがあるのだろう。しかし、相手がよりによって幽霊とは・・・!

 「あちらが、キムさん、踊りがすごく上手なんです。こちらがイーさん、ケンガリっていう鐘を叩くんです。ケンガリってねえ、簡単そうに見えて難しいんですよ・・・」

 夢中で喋る洋介ではあるが・・・。

 「・・・・」

 正三はもう、わけがわからない。

 彼らが、花田村に降りて来なくなったわけは解った。

 しかし、このままでは、洋介は幽霊たちに取り憑かれて、いいように操られてしまうのではないか?

 不安になった正三は、強引に洋介を引っ張って、ここから連れだそうとした。

 「洋介さん!行きましょう!ここにいてはいけない!さあ、早く!」

 「ちょっと、正三さん!何をするんですか!」

 洋介も抵抗する。

 そしてすったもんだの挙げ句・・・ヒュー・・・ッと、生暖かい風が吹いた。

 ヒュー・・・ドロドロドロ・・・。

 「これ、正三!その手を離しなさい!」

 ボウ・・・と、火の玉が現れる。

 そして、白い着物姿の女性が出てきた。正三の姉、トシである。

 正三は青くなった。

 「うわあ、ねえちゃん!」

 正三は伏して両手を合わせ、「堪忍、堪忍!」とやった。

 「堪忍じゃ無いわ、この小便小僧が!あんた、まだあの人の骨見つからんの?この一ヶ月、なにをやっとるの!」

 正三は塩をかけられたナメクジのように、タジタジである。

 「一生懸命、捜しとるだに、花田組いう土木屋、あそこ繰り出してなあ。でも、まだ、みつからんよ・・・。なんせ、七十年も前のことだもん、なかなか、出てこんて・・・」

 トシの幽霊はまた、正三を一喝した。

 「いいわけは聞きとうないわ!はよ、捜せ!さもないと、この人たちの代わりに、わたしが花田にでてやるぞ!」

 「ひいー!」と、悲鳴をあげて正三は、一目散に山を駆け下りていった。

 「・・・まったく!」

 トシの幽霊は、憤懣やるかないという感じだ。

 洋介はおそるおそる、トシの幽霊に尋ねた。

 「あのう・・・」

 トシが洋介のほうに振り向く。瓜実顔のきれいな女性だ。

 「なにか?」

 幽霊は微笑んでいる。どうやら、洋介に対しては、悪意はもっていない様子である。

 「わたしは、西岡洋介というのですが・・・一体、この村では何があったのですか?もし、よろしければ、わたしにも話してもらえないでしょうか?」

 幽霊は思案した。

 「そうですね・・・あなたは、この人たちに空手を教えてくれたりして、とてもいい人だし・・・」

 「・・・・」

 トシの幽霊は、翳りを帯びた横顔をかいま見せる。

 ことの成り行きを、ポカンと見つめるチャング軍団よりは、こちらのほうが、よほどか幽霊らしい。

 「そう、あれは七十年前・・・。忌まわしい出来事でした。あなたなら、聞いてもらえそうね・・・お話しましょう。この村で起こったあの出来事のこと・・・。なぜ、わたしやこの人たちが成仏できずに、今もまだ、この世をさまよっているのか、そのわけを・・・」

 

 正三は昼間は畑仕事に忙しい。

 今日も、花田の山間にあるキュウリ畑の収穫を終え、トラクターで帰路についていた。

 夕焼けがまぶしい。あの一件がなければ、快適な気持ちで、家で待つ女房の手料理をつまみに飲める、うまい花田の酒を楽しみに家路を帰ることができただろう。

 酒が飲めることには変わりはないが、今日もやけ酒になりそうである。

 要は気分の問題である。当分、うまい酒、気持ちのいい酒は、おあずけになりそうだ。

 「正三さん、正三さん」

 誰かが正三を呼んだ。

 振り向くと、仕事着のままの洋介が、用水路のポンプの近くに立っている。

 正三は洋介の表情を見て、すべてを悟った。

 洋介は知ったのだ。

 おそらく、姉のトシからすべての事情を聞いたことだろう。

 正三は溜息をつき、あきらめ顔で洋介を手招きする。

 「洋介さん、乗って下さい。わたしの家で話しましょう」

 洋介は無言で、正三のトラクターに乗り込んだ。

 カーカー・・・と、カラスが鳴きながら、夕陽を横切り、北の山間に消えていく。

 正三と洋介を乗せたトラクターは、エンジン音を響かせながら、あぜ道をコトコトゆっくりと正三の家に向かう。

 赤々とした陽の光が、二人の背を照らしていた。

 

 その夜、正三と洋介は、広い和室で花田の酒をはさみ、無言で向かい合っていた。

 「・・・なぜですか?」

 沈黙を破ったのは洋介である。

 「七十年もずっと、村ぐるみで隠していたなんて!慰霊祭も誰にも知られないように毎年密かにやっていたんですね。でも・・・よくもそんな、ひどいことを平気で・・・」

 正三は湯飲みに手酌で酒を注ぐ。押し黙ったまま、みじろきもしない。

 「いくらなんでも・・・あの人たちを洞窟に生き埋めにしてしまうなんて!あんなにいい人たちなのに・・・。なぜ・・?なぜですか?正三さん!この村の人たちはなぜ、そんなひどいことを!」

 正三はぐいっと、酒を飲み干した。

 「洋介さん、この村は確かに、彼らにひどいことをしてしまいました。でも、聞いてください。憲兵たちの監視下の中、食べ物もろくに与えられなかった彼らを助け、いつも親切にしていた村人だっていたんです」

 「・・・それが、あなたのお姉さん?」

 「・・・そうです。七十年前、あの廃屋で首を吊って自殺した、わたしの姉トシです。姉は、彼ら・・・あの幽霊たちが毎晩現れる、あの部屋で首を吊った・・・」

 「・・・・」

 そんな家に俺を住まわせたのかよ・・・と、言いたげな洋介ではあったが、深く沈み、思索に耽る様子の正三を見て、何も言わずに酒のビンを取り寄せた。

 洋介も、手酌で酒を湯飲みに注ぐ。

 「七十年前、日本は戦争も末期でした。この辺りでは、花田を始め、到るところに地下壕が掘られたんです。そのほとんどの地下壕が、軍需工場として使われました。地下壕を掘るために、大陸から、数多くの中国人や朝鮮人たちが、ポーターとして狩り出されて来たんです。この村にも多くの朝鮮人たちが来ました」

 「・・・・」

 「洋介さん、あんたさが勤めとる花田ダム、あれも彼らが造ったもんなんですよ。あのダムがあったおかげで、日本は終戦後、電力不足に悩まされずにすんだ。わしら日本人は、彼ら・・・あの時代に大陸から連れてこられた、中国人や朝鮮人たちのおかげで、生きてこられたようなもんです。彼らには感謝しなければならない・・・」

 「でも、あなたたちは、そんな彼らを生き埋めにしてしまった!」

 ドン!と洋介は、酒ビンを畳の上に叩きつけるように置いた。真っ赤に紅潮した顔は、酒の酔いによるものか、怒りによるものなのか?

 「確かに、あれは過ちだった。でも、仕方がなかったんじゃ。終戦後、日本の各地で、中国人や朝鮮人たちの暴動が起こった。花田でも彼らが暴れるんじゃないかと・・・そんな不安や憶測が流れて・・・結局、当時の花田村の有力者たちの取り決めで、密かに彼らを葬ろうと・・・これは花田だけじゃない、おおやけにはなってはいないが、日本のいたるところで、おこなわれたに違いないことなんです・・・」

 「でも、彼らにそんな意志はなかった!パクさんと話をしてみて、よくわかりました。彼らはただ、民族楽器がやりたかった。終戦後、自由になったあかつきには、祖国に帰ってチャングを叩く・・・それが彼らの夢だったんですよ!」

 「・・・・」

 正三は黙って、酒ビンを洋介から取り返した。そしてまた、湯飲みにそれを注ぐ。

 「洋介さん、わしをせめんで下さい。あの当時、わしは五歳かそこらの小僧だったんです。あの当時、この村で何がおこなわれたか、知るよしもなかったんです」

 「しかし、あなたの家は、この村の有力者の家系・・・あなたのお父さんは、この一件に深く関わった。毎年の慰霊祭を行う責任も負った・・・もちろん理由はそれだけじゃない、トシさんの件もあったから・・・トシさんの苦悩は、考えただけでもつらくなります」

「・・・・」

 「好きな人がいたんですね、彼らの中に好きな人が・・・その人の骨は今だに洞窟の中・・・まだ、その骨は見つからないのですか?」

 「ええ、必死に捜しとるんですが、まだ・・・」

 二人のいる部屋は、ふすまを挟んで縁側に続いており、そこから月夜を見上げることができた。今夜は新月である。

 正三は遠くを見つめるような目で、縁側をみつめていた。

 「トシ姉さんは勝ち気な性格でしたが、やさしい人でした。あの人の死に顔は、今も忘れられません。降ろされた時の彼女は、本当に無念そうでしたわい。彼らを殺すことの決断を下したのは、わしら姉弟の父でしたからなあ・・・」

 「・・・・」

 「洋介さんの言うとおり、彼らに暴動を起こす意志はなかったと思います。わけがわからぬまま、朝鮮半島から連れてこられた彼らは、日本人を憎むより、いかに一日の労働を何事もなく終えて・・・そして一日もはやく、故郷に帰ることだけを夢に見ていた・・・そして故郷に帰ったあかつきには、洋介さんの言うとおり、民族楽器が叩きたかった、ただそれだけだったと思いますから・・・でなければ、彼らの幽霊があんなに明るいはずはありませんからな。洋介さんにも恨み言は、いっさい言わないようですし・・・。誰かさんとは違って・・・」

 言ってから、しまったと思ったか、正三は身震いして、念仏を唱えながら手を合わせた。今ここで、でてこられては、たまったものではない。

 洋介はうつむいている。正三はまた沈黙して、ただひたすら、酒をあおった。

 「・・・その洞窟は、どこにあるんですか?」

 「山の一つ向こう・・・今、花田組に頼んで、掘り返しとります」

 酒ビンはいつの間にかカラになっている。洋介は(俺はまだあまり飲んでいないのに)とうらめしげに正三を見やったが、正三は月夜を見上げるばかりで、洋介の視線には気づく様子もない。

 「あの洞窟もじつは、中国人、朝鮮人に掘らせた地下壕なんですよ。無抵抗だった彼らをそこに集めて、あとはハッパ(ダイナマイト)で入り口を塞ぐ・・・わたしの父は、姉が自殺したあと、あそこを掘り返して、姉と一緒に彼らを供養しました。ところが、掘り返して出てきた仏さんの数が一体足りない・・・それが姉と恋仲になった人だったと知ったのは、数年後でした・・・」

 「・・・・」

 「実は、姉の幽霊がでるようになったのは、今回が初めてじゃないんですわ。生前の父がよく見たと言っていましたし、わたしの枕元にも現れたこともありました。そして、しきりに言うんですよ。”あの人はまだ、あの中だ”と・・・」

 「・・・・」

 「だから毎年、慰霊祭を続けてきました。そしていつの間にか、彼女の幽霊がでなくなったものですから、もう充分だと思っていたのですが・・・姉の想いはことのほか、強かったようです。なにしろ、慰霊祭を一年怠っただけで、彼らの霊魂まで呼び出して・・・そしてこの騒ぎですからなあ・・・」

 ジー・・・っと、虫の鳴き声が、新月に照らされる庭先から聞こえてくる。ときおり「チリチリ」とする音は、コオロギか?あるいは鈴虫か?

 「・・・しかし、なぜ、その人の骨だけ、でてこないのでしょうね?あそこに入れられたことは間違いないのだし・・・」

 「・・・はい」

 正三はまた沈みこんだ。洋介もトシの話を思い出して、暗い顔になる。

 「残酷な話ですわ。ハッパで洞窟の入り口が塞がったあと・・・中から一週間くらい、あの人の声が聞こえてきたと・・・向こうにもこちらの声が聞こえて・・・彼が死ぬ間際まで会話をしていた・・・と、こう言うんですわ、姉さんは・・・」

 「・・・はい。確かに彼女は、そう話してました」

 暗い洞窟に閉じこめられ、息も苦しかったろうに・・・それでも、トシの声だけを支えに、彼は、一週間も土の中で生きながらえることができたのか?

 「実はあの洞窟、仏さんを掘りだしたあと、また埋め直してしまったんですわ。過去の記憶ごと封印しようと・・・こんなことになるくらいなら、あの洞窟、掘り返したままにしとくべきでしたね」

 正三はカラになった酒ビンをもてあそんでいる。外からは相変わらず、虫の鳴き声が間断なく聞こえてきた。

 「でも・・・なぜトシさんは、その人が洞窟に閉じこめられたあと、その人の生存を確認することができたのでしょうかねえ?中から、その人の声が聞こえて来たのでしょうか?」

 「いや、ねえさんが崩れた洞窟に、必死で呼びかけたんだと思いますよ。それで声が帰ってきた・・・それから、死の間際まで会話が続いて・・・やがて彼の声が聞こえなくなり、それからほどなく、姉は首をくくりました・・・」

 「・・・・」

 洋介は何ごとか思案している。

 「・・・正三さん、最初にあなたのお父さんが、その洞窟を掘り返された時、どこから掘り返したのか聞いていますか?」

 「それは、洞窟の入り口からですよ。花田組も今、そこから掘り進めとります。一度埋め直したものを、また掘り返すのですから、手間のかかることです」

 「・・・・」

「洋介さん?何を考えとるんです?」

 正三は洋介の顔をのぞきこんだ。

 すっと、洋介は立ち上がった。そしてポカンと見上げる正三(酒で目はトロンとしている)を見やる。洋介の表情は、何ごとか決心がついたような様子である。

 そして「彼らに空手を教える時間です。家に帰ります」と言って、そそくさと正三の家をあとにした。

 あとに残った正三は、立ち上がって、洋介の後ろ姿を見つめ続けるだけであった。

 

 「トシさん、トシさん!出てきてください!ちょっと、聞きたいことがあるんです!」

  家に帰った洋介は、暗い奥の部屋に向かい、大声で叫んだ。

 しばらく、沈黙が続いた。そして生暖かい風が吹く。

 ヒュー・・・ドロドロドロ・・・。

 白い着物姿のトシが現れる。両手を前にかざし、それはうらめしそうな顔をして、洋介を睨みながらの登場であった。洋介はぎょっとして、やや後ずさった。

 「な?何ですか?トシさん?わたし何か悪いことをしました?」

 トシはフッと、顔をほころばせた。

 「冗談ですわ。洋介さん、あんたさがあんまりにも幽霊を恐がらんもんだで、ちょっと脅かしてみただけです」

 「は、はあ・・・」

 洋介は拍子抜けのする思いであった。

 トシとしては幽霊の立つ瀬がないというもので、不満に思うのかもしれないが・・・しかし洋介にはその件に関しては、彼なりの言い分があった。

 だいたい、あのチャング軍団といい、このトシといい、幽霊にしては、あまりにもひょうきん過ぎるのである。「恐がれ」というほうが無理というものである。 

 「トシさん、そんなことしとる場合じゃないですよ。例の地下壕の掘り返し、今のままだと、あの人の骨、永久に出てこないかもしれません」

 トシの顔に怒りの色がさす。

 「正三の小便たれが、いい加減なことやらせとるの?」

 トシの霊気と言うべきか?怒りで一瞬のうちに、それが増大した感がある。洋介はその怒りにあてられる正三がかわいそうになった。

 「い、いや、決してそういう意味じゃありませんよ。正三さんはがんばってますから・・・。わたしが聞きたいのは、あなたが、最後にあの人と会話をしたという・・・その時の状況なんです。それを正確に教えてほしいのです」

 「・・・・」

 トシの表情が、一瞬のうちに悲しみに曇る。

 「あの人のことで、わたしがお話することはないです。思い出すだけでも涙がでます。わたしにあるのは、父に対して、この村に対しての恨みつらみばかりです」

 トシはそう言うと、顔を覆った。しくしく・・・と、すすり泣きを始める。

 「話は、昨夜お話した通り・・・それ以上のことはありません・・・」

 しくしく、しくしく・・・彼女のすすり泣きは止まない。洋介はうろたえ、トシをなだめようとするが、彼女は泣きやまない。

 トシの涙は止めどもなく溢れでる。いつの間にか、床は水浸しになっていた。

 洋介は困惑する。この調子では、肝心なことは聞き出せそうにない。そればかりか、今夜の寝床にも困る始末である。

 そんな場に、例の如く響きわたるあの音・・・。

 ドンクタクタクン、ドンクタクタクン、ドンクタクタクン・・・。

 チャング軍団登場の時間である。

 「洋介さ~ん!今日は型を教えて下さいよー!」

 パクさんの声が元気に響きわたる。死人にしておくのは、もったいないくらいに、彼はいつもエネルギッシュだ。

 「あれ?どうしたんです?」

 洋介は濡れた片足をあげながら、両方の手のひらを上に向けて「お手上げだ」というポーズをとった。

 「あ~あ、女性を泣かせるなんて・・・。日本人て無粋ですね。もっと、女心がわからなきゃ・・・。そんな風では、彼女ができませんよ」

 洋介は「ほっとけ!」と言いたかった。それがわかれば、今頃、結婚できとるわい!

 「一体、何があったんです?」

 洋介がわけを話すあいだ、トシの泣き声はすすり泣きから、わめき声に変わった。

「ヨンハ~!ヨンハ~!地下壕掘ってる時でも、あんなに元気だったのに~!いつも地下壕から『トシ、俺は今、ここ掘ってるよ』って・・・いつも声かけててくれたのに~!

ああ~!ヨンハ~!今、どこにいるの~?ああ~!ヨンハ~!」

 トシの涙は洪水のように流れ出る。家の中はもう、床上浸水である。縁側に到っては、流れるそれで滝のようであった。

  「うわあ~!もう、始末に終えねえ・・・パクさん、ヨンハって?トシさんの恋人の名前ですか?」

 「ええ、そうです。ぺ・ヨンハ・・・わたしたちの、かけがえのない仲間でした。彼はまだ、あの地下壕で眠っているんですよね?実はあの地下壕は、わたしたちが掘ったものなんです。戦時中にわたしたちが連れてこられた時は、あの地下壕の工事が主でした。後に花田ダムの工事に移されましたけどね・・・。工事中、トシさんとヨンハは・・・いつも地下壕の中と外で声をかけあっていました。あそこの洞窟は不思議で、ある場所に行くと、外からも中からも声が聞こえて、会話ができるんですよ」

 「・・・え?」

 洋介は思わず、パクさんの顔を凝視した。

 「ある場所で?会話?」

「そうです。ヨンハはいつもその場所がお気に入りで・・・わたしたちが地下壕に閉じこめられた時も、彼だけは真っ先に、その場所に向かいましたね」

 「・・・・」

 「なにしろ、村長が、あの洞窟で酒盛りをやると言うんで、われわれは喜んでついていったんですよ。まあ、今にして思えば、われわれもずいぶん、単純だったなあと思いますけど・・・でも、チャングと酒には目がないもんですからねえ、わたしたちも」

 手を頭の後ろにやり、「あははは!」とパクさんは笑った。

 洋介は注意深く、彼の話に耳を傾けている。

 「そのあと、ダイナマイトの轟音が響いて・・・日本人たちは、ハッパと呼んでましたけど・・・それが爆発して、わたしたちは岩盤の下敷きになり、そのまま即死でした。だから、彼がそのあと、どうなったかなんて、全然わからないのです」

 「でも、正三さんの話では、塞がれた洞窟の入り口で会話したと・・・」

 洋介は思案した。

 そして「そうか!」と叫び、ぱっと、その表情が明るくなる。

 「そうか!洞窟の入り口は、パクさんたちを下敷きにしてしまうほど、岩盤の崩れが激しかった。それだけの岩の厚みがあれば、中から声が届くはずがない!」

 パクさんがキョトンとするのも構わず、洋介は手のひらを叩いた。

 「二人が会話をしたという場所は、そこじゃないんだ!」

 花田組が今、掘り返している場所は違う!洋介の中で、それが確信となりつつあった。

  「パクさん、その場所・・・外から洞窟の中の声が聞こえるという場所、そこがどこかはわかりますか?」

 「ええ、だいたいは・・・」

 洋介は微笑んだ。

 「パクさん、もしかしたらヨンハさんの骨、見つかるかもしれません。そこまで、案内していただけないでしょうか?」

 パクさんも半信半疑ながら、洋介の提案には同意した様子である。

 「ヨンハの骨が・・・見つかればわたしもうれしいです」

 パクさんは思案する。

 「案内ですか?それはかまいませんが、わたしの記憶もあいまいです。道案内でしたら、彼女のほうが詳しいんじゃ・・・」

 そう言ってパクさんはトシを見やったが・・・トシの様子は相変わらずであった。  まだ「ヨンハ~!ヨンハ~!」と泣き叫んでいる。こころなしか、水かさも増してきているようだ。

 「これじゃ、まともな道案内なんて出来ませんよ。もっとも、彼女は連れていきますけどね」

 洋介はトシの手をとった。

 「トシさん!行きましょう!ヨンハさんに会いに!」

 「え?ヨンハに?」

 グスリ、と鼻を鳴らし、トシは一瞬、泣きやんだ。

 「パクさん、案内お願いします!」

 「いいですよ。でもただ案内するだけじゃ、つまらないな・・・」

 そう言ってパクさんは、自前のチャングを軽く「ドドン」と叩いた。

 「よし、みんな、今夜は久々に村にくりだして演奏会だー!山の一つ向こうまで、楽しくいこうぜー!」

 「オオー!」

 ときの声が上がった。そして、ケンガリの音が鳴り始める。

 ジンジャジンジャジンジャジンジャジンジャジンジャ・・・。

 踊りとチャングの音が、今夜も陽気に始まる。

 ドンドンクタクン、ドンドンクタクン、ドンドンクタクン、

  パクさんを先頭に、ケンガリを叩くイーさん、踊りの得意なキムさんと続く。

 「さあ、洋介さん、トシさんもついてきてくださいよー!今夜も陽気に行きましょうかー!」

 チャング軍団は一列になり、山を下りていく。トシは・・・と見れば、先ほどの大泣きはどこえやら、楽しげに腰を振って踊りながら、彼らについていく。

 洋介は呆れて、列の一番うしろに、ついていくしかなかった。

 (やれやれ・・・これは正三さん、今夜も眠れそうにないな)

  あの人のいい老人の、安眠の日はいつくるのやら・・・と、正三に思いを馳せる洋介であった。しかし、それも今夜で終わりを告げるのかもしれない。洋介は正三のためにそうなることを祈った。

 

 酒の酔いでウトウトとしていた正三は、久しぶりに聞こえてきた、あの音を聞いて目を覚ました。

 ドンクタクタクン、ドンクタクタクン、ドンクタクタクン・・・。

 正三は、ぱっとはね起きる。

 (また、始まったのか・・・)

 先ほど、「彼らに空手を教える時間がきた」と言って出ていった、洋介はどうしたのだろう?出ていく時に、彼が垣間見せた、あの決意に満ちた表情・・・それが、この騒ぎとなにか関係しているのであろうか?

 (とにかく、行かなければ・・・)

 ぐずぐずしていると、なにが起こるかわからない。あの連中(洋介も含めて)のことだ、きっとまた、なにかしでかすだろう。

 (やれやれ、今夜も眠れんわ)

 正三は酔い覚ましに、洗面所に駆け込んで顔を洗った。そしてそのまま、玄関に出て、あの音が響きわたる方角に向かって走った。

 

 今夜は久しぶりに、花田に響きわたるチャングの音・・・。

 花田の家々に、煌々と灯っていた家の明かりは、順々に消えていく。

 家の中では、布団をひっかぶって念仏を唱える人、恐いもの見たさにカーテンの隙間からのぞく人と様々だ。しかし、ほとんどの村民は、明かりを消した暗い家の中で、息をひそめている。

 村の通り沿いには、人っ子一人もいない。

 深夜だから、当然といえば当然だが、それは明らかに、幽霊たちが通るということで、みな家に籠もってしまっているからだろう。

 この静けさを破って、幽霊たちは音を奏で、踊る、踊る、踊る。

 先頭をいくパクさんが振り返る。

 「洋介さん、ちょっと、近道をしていきますね」

 洋介はパクさんのイタズラっぽい顔を見て、少しだけいやな予感がしたが、あえて口にはださなかった。

 案の定、パクさんは民家の中に入っていく。

 玄関から台所を突き抜け、ちょうど、山が裏手になる家だったので、そこから山道に入っていった。

 家の中では、老夫婦が数珠を手にして「ナムアミダーナムアミダー」とやっていた。

 洋介は恐縮しながら、何度も頭を下げ「すいません、お騒がせしております」と、ただ一人だけで謝っていた。生きてる人間の、せめてもの役割である。

 山道に入ってしばらく行くと、鶏小屋が見えてくる。

 中では、チャングの音に目を覚ました鶏たちが「コッコー」と騒いでいる。パクさんはその中にも入り、その小屋の裏手の山道に入っていった。洋介の頭は騒いだ鶏たちの羽毛で真っ白である。

 鶏たちの騒音は、チャングの音よりもうるさく近隣に響いたようだ。しばらくすると、鶏小屋の主が様子を見にきた。主がおそるおそる、中をのぞくと・・・・。

 「・・・あれ!まあ!」

 なんと、すべての鶏に卵が産まれているではないか!

 鶏小屋の主が、その卵を「花田村特産、幽霊たまご」として売り出しを始めるのは、後の話である。また、その話はこの物語とは直接には関係ない。

 パクさんたちの行進は続く。

 山道は暗く、木々が月星の光さえ遮っている。黒々とした山々は、まるで洋介たちを呑み込まんとする怪物のようにも見える。

 しかし、そんな山道でも、パクさんたちと行進していくと、不思議と恐いものがなくなったかのようにウキウキとしてくる。幽霊たちと一緒にいるのにもかかわらず・・・である。

 と、パクさんが立ち止まった。

 演奏は中止され、辺りは静寂に包まれる。

 キョロキョロとしているパクさんに、洋介は声をかける。

 「どうしたんです、パクさん?道に迷いました?」

 「・・・いや、おかしいなあ。この辺りだと思ったんだけど・・・」

 パクさんはトシのほうをみやる。

 トシはゆっくりと、辺りを見渡しながら歩く。月が山間から顔を覗かせ、トシの青白い顔を照らした。その表情は悲しみを内に秘めながらも、核心に迫る恐さ、そしてそれに打ち勝とうとする勇気をも滲ませていた。

 トシは木々をかきわけて林の中に入り、そっと山肌にふれた。

 そして、耳をそこにつけて目を閉じ・・・じっと、耳を澄ませて何かを聞き分けようとしていた。

 静寂が山々を包んでいる。

 やがてトシは、目を見開いた。

 「・・・あの人の声が聞こえる。わたしは彼が息絶えるまで・・・彼の声が聞こえなくなるまで・・・ここで彼の声を聞いていた・・・。間違いない、ここですわ!あの人が眠っている場所はここですわ!」

 そしてトシは向きなおり、「ああ、ヨンハ・・・いま、そちらにいくわ・・・」と言って、溶けるように山肌に姿を消していった。

 「洋介さん!」

 洋介が振り向くと、スコップとツルハシを持った、正三がそこにたたずんでいた。

 「正三さん・・・どうしてここが?」

 正三は黒々とした山間を見上げて、感慨深げに溜息をついた。

 「生前の姉の話を思い出したんですわ。わしも小さいころだったので、よう思い出せなかったのですが・・・確かに姉は、地下壕の中と外で声が通じ合う場所があると言ってましたわい。わしはてっきり、崩れた地下壕の入り口だとばかり思って・・・洋介さん、手伝って下さい。声が通じ合うくらいですから、そんなに深く掘る必要はないはず・・・きっと、ヨンハさんの骨もここから出てくるでしょう」

 洋介はうなずいた。そして差し出されたツルハシを、何も言わず受け取る。正三はカンテラを照らし、その石灰岩を含んだ白い山肌に、最初にツルハシを入れた。

 山奥からは、ホーホー・・・と、フクロウの声が聞こえていた。

 二人は黙して、ツルハシを振るう。

 荒い息づかいが聞こえ、「カツンカツン」とツルハシの音がひびく。汗がしたたり落ち、暗い地面に滲みる。岩盤は固い。その白い山肌を二人だけで崩すのは容易ではない。

 パクさんたちは黙って二人を見守っていた。

 彼らは、生前は穴掘りのスペシャリストだったが、今はただ、二人の作業をみつめるだけだ。これは、今を生きる人たちが成さねばならない役割であり仕事である。その仕事に死人は介入すべきではない・・・パクさんたちの表情が、それを物語っていた。

 そして、洋介も正三も、彼らに求めるものは何もなかった。

 今を生きる人間たちの使命・・・そして、これは日本人としての使命なのだ!

 洋介と正三はその共通の思いで、泥まみれ汗まみれになりながら、ツルハシを振るい続けた。

 夜の闇が白み始めたころだ。

 洋介のツルハシが「パコ」っと音を立てた。

 正三が縦にスコップを入れる。ボロボロ・・・と、山肌が崩れた。

 次の瞬間!

 カッ!と、一条の光が中から溢れでた。

 それはこの世に在らざる光!

 そのまぶしさに、洋介と正三は思わず、手をかざした。

 ガラガラ・・・っと、岩の割れ目が崩れた。

 そして、中から出てきたのは・・・・!

 「洋介さん、正三・・・ありがとう!ようやく、わたしたちは会えたわ!」

 光のなか、二人の男女が、手をつないで現れた。

 幸せそうに微笑んでいるのは、正三の姉トシ。そしてトシと手をつないでいるのは・・・・?

 「ヨンハ!」

 パクさんが叫んだ。

 ヨンハもニッコリと微笑んでいる。細身で柔和な顔立ち。ボロ着を身にまとった姿は戦時中の朝鮮人労働者そのものだ。トシと並ぶと、確かにお似合いのカップルである。ヨンハは、七十年ぶりに再会する同胞に手を差し伸べ、喜び勇んで駆け寄り、彼らとしっかりと抱き合った。

 洞窟の中からの光は、いつの間にか消えていた。

 正三と洋介は中を覗きこむ。そこは地下壕というより、天然の洞窟で、地下壕のどこかにその入り口があるらしかった。ヨンハは工事の最中、偶然にもこの場所を見つけたのだろう。せまい空間ではあったが、外の人間との会話ができる、唯一の楽しみな場所であったにちがいない。

 そして・・・岩肌にもたれるように、うずくまる白い骨・・・。

 これこそが、七十年ものあいだ正三が探し続け、トシさんが求め続けた、ヨンハの骨であった。その当人は今、恋人や同胞との再会を果たし、その喜びに顔がほころんでいた。

 トシも満足そうである。彼女は洋介に一礼すると、微笑んだ。

 「洋介さん、本当にありがとう。あなたのおかげで、この人に再会できました。感謝します。ほんに、ありがとうな・・・」

 正三は、やや不満げにトシの顔をみやる。

 「ねえちゃん、わしかて、いろいろがんばったし、苦労しただに?」

 トシはきつい目で正三を睨む。

 「あんたは苦労して当たり前だに!慰霊祭さぼるからこういうことになるだにな!さあ、そこにこの人の骨がある!はよ、拾って慰霊祭の準備でもせんか!」

 萎縮して黙る正三に、トシはイタズラっぽく笑いかけた。

 「まあ、あんたにしては、ようやってくれたよ。ほんにありがとうな・・・」

 正三はようやく破顔した。その目には涙が浮かんでいる。

 「ねえちゃん、これからどうするに?」

 トシは天を見上げた。

 「どうするもなんも・・・あんたが今年の慰霊祭をやってくれれば、わたしはヨンハともう、あの世へいくよ。でも、またあんたが毎年の慰霊祭さぼったら、あの世から舞い戻ってきて、あんたのこと祟ってやるだにな」

 正三は笑った。

 「慰霊祭は続けるだに。でも、わしももう歳だでなあ・・・もうすぐ、ねえちゃんのところへ逝くかもしれん。その時はよろしくな」

 洋介はパクさんと握手を交わした。

 「もう、これで会えなくなるんですね。あなたたちとの交流は、とても有意義でした。日本の伝統文化の空手と、朝鮮の伝統文化のチャング・・・こんな形でしたけど、両国の文化交流ができたのは本当に奇跡です。わたしは、あなたたちのことは決して忘れません・・・」

 洋介の目に涙が溜まっていた。

 「会えて・・・とてもよかったです」

 パクさんは、力強く洋介の手を握り返している。その手は死人の冷たさがあったが、洋介には、他の誰との握手よりも、強い絆と友情を覚えた。

 「わたしも、あなたに会えて、とてもうれしかったです。あなたのような日本人に巡り会えて、わたしたちはとても救われました。日本と朝鮮半島には、悲しい歴史があります。おそらく、二つの国の垣根を越えることは困難なことでしょう。でも、洋介さんと正三さん、あなたたち二人が、懸命にヨンハの遺骨を掘り返す姿を見て・・・わたしは確信しました。あなたたちのような日本人がいれば、きっと、その垣根も越えられると・・・。そして、文化には国の対立による垣根はありません。異なる二つの国の文化交流は、あなたの言うとおり、とても有意義だったと思います」   

  「・・・・」

 「・・・洋介さん、わたしはあなたともう少し、一緒にいたいです」

 パクさんの目からも涙が溢れる。

 みんな泣いている。ケンガリを叩くキムさんも、踊りの得意なイーさんも・・・。

 みんなみんな泣いていた。

 気がつくと、辺りは洪水にみまわれたよう・・・洋介の腰の辺りまで、水かさが増していた。

 慌てふためく洋介の様子みて、トシが笑った。

 「あはははは!正三、みんなは洋介さんとの別れを惜しんでいるだに。慰霊祭はもう少し先延ばしにしたら、どう?」

 「え?」

 正三は驚いてトシの顔をみやった。

 「わたしは別に構わんよ」

 トシはヨンハと顔を見合わせて微笑んだ。ヨンハもトシの意見には、同意している様子である。七十年ぶりに仲間の演奏を聴きいて、血が騒いだところもあったのかもしれない。彼もチャングが叩きたいに違いないのだ。

 洋介は正三の顔をみる。

 正三は何も言わない。

 ただ目をつむり、夜風を感じるが如くにそこにたたずんでいる。正三の七十年にも渡る苦悩の日々は、洋介の想像を絶するものがあったはずである。

 今、彼は万感の想いを込めて、トシの提案に同意していることは確かであった。

 洋介は目を輝かせて、パクさんをみた。

 「明日の夜、恵那の道場から、稽古仲間を連れてきます。みんな、びっくりするかもしれないけど・・・慰霊祭が行われる日まで、わたしたちで文化交流をしていきましょう!そう、慰霊祭が行われるその日まで・・・」

 パクさんは表情を輝かせて、うなずいた。

 「洋介さん、あなたの提案はとてもすばらしいです!わたしは大賛成ですよ!」

 そしてパクさんは一同に同意を求めた。

 「みんなはどうだ?」

 みんないっせいにうなずき、にっこりと微笑んでいる。

 「よし、明日から、大日朝文化交流大会の幕開けだー!」

 洋介がそう叫ぶと、チャング軍団は歓声をあげた。

 そして、大会の開催の前祝いだとばかりに、彼らは演奏を開始する。

 ケンガリの金属音が鳴り響き、乾いたチャングの音が山々にこだまする。 

  洋介の目の前にはいつの間にか、チャングが置かれていた。彼は見よう見まねで、パクさんたちの演奏に入っていく。トシもヨンハも彼らに混じって踊りを踊る。

 月は傾き、空は夜明け前の紺碧色であった。

 それでも彼らは、日が昇る時間が迫るのも忘れ、いつまでもチャングの音を響かせ、踊り続けていたのであった。

 

                                                              

                               (終わり)

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