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忘却の岬

 

                                                       加藤康弘

 

 貴志は夢を見た。

 眼下に荒ぶる波が何度も押し寄せ、岩に当たり砕け散る。見上げれば空は鈍い灰色だった。浜風が吹き荒び、倒れそうになる。それでも貴志はその場に踏みとどまり、荒れ狂う海に向かい叫ぶのだ。

 何度も何度も…。

 何を叫んでいるのか、自分でもわからなかった。それは獣の咆哮にも似ていた。

 貴志はひたすら海に向かい、己の感情をぶつけていた。

 自分の想いのたけをぶつけてぶつけてぶつけ続けて…しかしなお、足りなかった。

  一際、大きな波が岩礁にぶつかり、耳をつんざくような音を立てて砕け散った時、貴志は目覚めた。

 海嘯の音がまだ耳の奥で鳴り響く。まどろみを続ける貴志に、古い梁が剥きだしの天井がその視界に入った。

 「…」

 枕元にはウイスキーの瓶が置かれていた。まだ、3分の1程度の量が残っている。月明かりに照らされて琥珀色の液体が、貴志の精気のない顔を映し出していた。

 隣の部屋から嘉吉爺の金属音のようないびきが聞こえてくる。この古びたアパートに入った当初は、そのいびきには毎晩のように悩まされた。今は慣れた。上の階のギシギシとする音も気になり眠れない時もある。古びたアパートなので床はあちこち傷んでいるのである。最近は、引っ越しをしたのか、ただ帰ってないだけなのか、音も声も聞こえてこないのは救いだった。

 上の階は雨が降ると時折、雨漏りがするらしい。

 共用のトイレが廊下の向こうにあるが、夏場は鼻をつくような臭いを発する時もある。 臭いのおさまる今は秋である。鈴虫の音が、外のあちこちから聞こえてくる。

 腕時計を見れば、夜中の3時をちょっと過ぎた時刻だった。

 貴志はウイスキーの瓶をそのまま口につけ、ラッパ飲みをした。

 昨晩から飯は食べてない。ウイスキーしか口にしていない。もうそんな日々がしばらく続いている。

 酒は、このアパートの家主である酒屋の売れ残りを安い値段で調達している。アパートのすぐ向かい側にあり、カウンターも備えて夕方になれば、近所から酒好きの男たちが集まって酒盛りをしていた。

 アパートは家賃1万円程度で、日雇い労働者や高齢者が寄り集まっている。

 この町に移り住んで3ヶ月が経とうとしていた。貴志は町の土建屋に日雇いで勤めに出ている。となりの部屋で高いびきをかいている嘉吉爺もそこに勤めているが、今は腰を悪くして現場にでていくことは少なくなった。

 貴志も嘉吉爺も実入りはいい方ではない。

 2人の勤めている土建屋は、この小さな町の中でもさほど大きい会社ではなかった。

 町役場の発注する工事の入札もより大きな土建屋に仕事をとられるのが常であった。大きな工事があれば、下請けに入ることもできるが単価は切り下げられる。

 老夫婦が経営している会社で、社長は体調を崩し気味なので、会社そのものもいつまで続くかはわからなかった。そしてここ最近もあまり仕事は入ってきていない。

 なによりこの町そのものの存続も危ぶまれていた。

 隣の大きな市との合併が進行し始め、話し合いによっては、3年以内に実現するのではないかと噂されているのである。

 (…この町もそろそろ潮時か…)

 貴志はまた、ウイスキーを口に含んだ。

 勤め先の仕事が少ないので、当然金もなく、飯も満足に食うこともできず家賃も滞っている。いつまでもこの町に留まる理由はなかった。

 貴志は外に出て夜の町を歩きはじめた。もう寝付けないのだ。

 小さな港町なので、歩けばすぐ海にでる。防犯灯が煌々と灯る夜道を貴志はひたすら南へと下っていった。

 新聞配達のバイクと時折すれ違い、ライトをまぶしく照らされた。

 潮の香を含んだ風が南から吹き抜けてくる。この町の港や浜辺に出るためには、大きな高架橋を渡っていくが、その橋には等間隔で外灯が設置されており、夜はまさに星の架け橋のようでもあった。

 高架橋は左に曲がり港へと降りていくが、さらにその先には、浜辺が波の音を響かせて広がっている。

 貴志は、ウイスキーの瓶を片手に、潮風を受けながら歩く。空は紺碧色に変わり、夜明けも近い。たなびく雲も見えるようになった。無数の漁船が浮かぶ港を通り過ぎ、そのまま浜辺へと向かった。

 打ち寄せる波が白いスジをたて何度も迫ってくるのがみえた。

 夢に見たあの岬の光景が重なり、ウイスキーの酔いとあいまって目眩を覚える。

 貴志は今年で40歳を迎えた。

 未だに定職に就いた試しはない。町から町へと方々を転々としている。

 貴志にとって必要なものは酒以外何もない。その日に暮らせる金があればそれでいい。 生まれ故郷にも未練はなかった。

 貴志は幼い頃、両親と生き別れ施設で育った。父は蒸発し、水商売の母は貴志を育てる義務を放棄して施設に預けたである。しかし、母親が施設に顔を出すことはなかった。貴志は母親に捨てられたものと再会は諦めた。

 少年期にはいい思い出はなかった。施設から学校に通っていること、また無口で同級生らとうち解けることが苦手なため、小学生の頃から、同級生や先輩に激しいいじめを受け続けてきた。不登校が続き、その期間に町をブラブラすることが多くなった。

 施設は貴志を持て余すようになり、それを感じた貴志は中学を卒業する前に施設を出た。 そして今の生活を繰り返すようになった。

 日銭を稼ぐため、町から町へと転々とする日々…。

 以来、施設はもちろん、故郷に帰ったことは一度もない。

 浜辺にでた貴志は、その場に座り込み、またウイスキーを呷った。さざ波が白いスジとなって何度も押し寄せ、貴志の足や腰を濡らした。それでもお構いなくウイスキーをあおり続ける。

 空の色は紺碧から白へと変わってきていた。夜明けは近い。潮風が伸ばし放題の鬚を揺らし、手入れのない髪をたなびかせた。

 貴志の生まれ育った町も、海が見え潮風が吹き渡る町だった。

 施設の近くに浜辺があり、そこに出ると太陽が波間を絶え間なく照らし、白銀の光がまぶしく貴志の瞳に焼きついた。

 学校で同級生らにひどい仕打ちを受けると、決まって貴志がいくのはその浜辺だった。

 遠い日の記憶が吹きつける潮風とともに鮮明に甦ってくる。

 あの日も…貴志は、ぼんやりと海を眺めていた。

 

 いつの日のことか、貴志の記憶の中ではあまり定かではない。

 中学生になり、秋も深まったある晴れた日のことである。その頃、貴志は中学にいくのをやめた。施設から学校にいくふりをして毎日のように海にきていた。白い砂地の上にそのまま座り、一日中、海を眺め続けていたのだ。

 海鳴りと海鳥の鳴き声が浜辺に無数のこだまとなって貴志の耳に響き続けていた。

 そして…海鳥が一際、大きな鳴き声を上げた時、その人は現れた。

 「…いつも来てるんだね」

 振り向くと、赤いスカーフを頭から被った若い女性だった。細面で透き通るような白い肌…微笑をたたえて貴志を見つめている。

 貴志は、この女性には見覚えがあった。

 貴志の通う中学の先生で、音楽の先生である。貴志は直接、彼女の授業を受けたことはない。ただ貴志が中学にあがった頃には、男子の間では人気のあった先生であった。

 しかしいつの間にか、学校で姿を見かけなくなってしまった。病気で入院していると女子生徒が噂しているのを聞いた気がするが、貴志はあまり関心を持たなかった。

 名前さえ、貴志は覚えていない。自分をいじめる生徒たちの憧れの的である彼女に、興味などわかなかった。

 貴志は反射的に逃げようとした。ぐずぐずしていたら、学校に強制的に連れ戻されてしまう…。しかし、彼女はのんびりと伸びをして、その場にすわり頬杖をついた。そして「フー」と溜息をつく。

 海鳥がまた、一際大きな鳴き声をあげた。

 「ねえ…確か…石井貴志…くんだよね?先生のこと知ってる?」

 「…」

 貴志は茫然と目の前の先生の顔をみつめるだけだった。彼女は自分の名前を知っていたのだ。

 「そうか…知らないよね。受け持ったこともないし…わたし、大村小百合っていうんだよ。ほら、こう書くの…」

 そう言って大村先生は、近くにあった小枝を拾い、砂地に自分の名前を書いた。

 (大村…小百合…)

 貴志は、言葉もなくただ、白砂に刻まれた「大村小百合」の文字を見つめるだけだった。

 先生は小枝を放ると、頬杖をついたまま、またぼんやりと海をみつめる。

 「…先生さあ、実は元気ないの…」

 「…」

 「こう見えて病気なんだよ」

 大村先生は貴志の顔を見てにこりと微笑んだ。

 と、潮風が吹き抜け、先生の頭を覆っていたスカーフが飛んだ。「あっ」と先生が叫んだ頃には、海鳥たちとともに風の中、鮮やかな紅色を陽光に透かし、乱舞して空の彼方へ消えていこうとしていた。

 スカーフをとった先生の長髪がゆるやかに肩まで垂れ下がった。艶やかで、透き通るような黒髪だった。

 「あ~、あのスカーフ高かったのに…」

 残念そうな声をあげて先生は、風の彼方を見つめているが、その表情は微笑みを湛えてさして残念そうでもなかった。

 貴志は不思議な面持ちで大村先生をみつめていた。最初は、自分を学校まで連れ戻しにきたのかと疑ったが、そうではないらしい。そして彼女もどうやら、この浜辺によく来ているようなのだ。

 「…ガンなの。今はまだいいけど…」

 先生はその艶やかな髪の毛を手ですくいやや表情を曇らせてみつめた。

 「抗がん剤治療をやっているから、そのうち禿げちゃうの…。だから、今のうちに頭を隠しておこうと思って、あのスカーフを被ってたのよ」

 けっこうお気に入りだったのに、と先生は残念そうに言うが、そのくせ朗らかに笑う。

 貴志は、この大村先生の心境が不思議に思えてしかたがなかった。ガンに冒されているのが本当なら、こんなに明るく振る舞っていられるものなのだろうか?

 訝しむ貴志にお構いなく、先生は歌を口ずさみ始めた。

 音楽の先生らしく、透き通るような声…打ち寄せる波の音と共鳴するかのように、貴志の耳に心地よく響いた。

 「…先生、その歌なんて歌?」

 貴志は初めて口を開いた。

 歌謡曲など聴いたこともない。また興味すらもつことのない貴志にとって、大村先生の口から紡ぎ出される歌詞は新鮮であった。それだけ彼女の歌唱力ははっきりと貴志の心に響いたのである。

 すると大村先生はにっこりと笑った。

 「石井くん、初めてしゃべってくれた。うれしい」

 大村先生ははじけるような声で本当にうれしそうだった。

「この曲はね、山口百恵の『いい日旅立ち』って言うの。わたしは大好き」

 先生は曲の最後まで「いい日旅立ち」を口ずさんだ。

 貴志は…まるでゆりかごの中で子守歌を聞いているような…不思議な感覚に浸っていた。

 「…」

 貴志にとって自分を捨てた母は恨みの対象でしかなかった。しかし、幼い日に母と過ごした日々の記憶はおぼろげながらもある。母の背に揺られながら、施設の門をくぐったあの日…。

 (すぐにもどるから)と母は施設の玄関で手を振った。それきり彼女の顔を見ることは2度となかった。

 波の音と海鳥の鳴き声が、貴志の耳の奥で共鳴し響きを増す。

 貴志の瞳からは涙があふれて止まらなかった。そして視界がぼやけ、気がつけば大村先生の胸の中で嗚咽している自分がいた。

 大村先生は何も言わず貴志を抱きしめていた。耳元で何か言っているのが聞こえたが、貴志にはわからなかった。ただ…その言葉の一つ一つが貴志の魂を揺さぶり、凍りついた心を緩やかに氷解していった。

 そしてその温もりも、今も忘れ得ぬ記憶の奥に刻まれていた。

 

 その日を境に、貴志は大村先生と毎日、浜辺で会うようになった。

「貴志くんが毎日、浜辺にきていたのはずっと前から知ってたけど、あまりに寂しそうにしてるから…声をかけずらかったの。でもこうして毎日会って、おしゃべりできて…先生楽しい」と先生はうれしそうに笑った。

 なぜ学校に行くよう注意しないのかと聞いたが、先生は何も言わなかった。

 ただ貴志にとっては、大村先生と浜辺で会う時間は、日々新鮮であった。その当時の貴志は気づかなかったことだが…間違いなく、自分の境遇を忘れることができる至福の時でもあったのだ。

 青い空と海、吹き抜ける潮風、飛び交う白い海鳥の鳴き声と打ち寄せる波の音…。

 貴志にとっては、それらの風景や音律と共に刻まれた確かな日々の記憶であった。

 今、貴志の目の前には夜明けを待つ浜辺が広がっている。その追憶の彼方にある光景がありありと甦り、重なってくる。それはウイスキーの酔いとともに、貴志を過ぎ去りし日々へと誘った。

 (それから先生は…俺を帰らぬ旅路の道連れに選んだ…いや、選んでくれた。だが俺は…)

 その日は風が強く、波が一段と高かった。季節は晩秋。潮風も肌寒さが身に染みた。

 日も傾きかけた時刻だった。

「ねえ、あの岩の上まで登ろうよ」

 大村先生は浜辺の先にある岩山を指さして、いつもの朗らかさで貴志を誘った。

 ゴツゴツとした岩山を登るたびに高波が岩礁にぶつかる音が響き、まるで揺れるような感覚を覚える。海鳥の声も遠くから聞こえてくるようだった。

 岩山を登り切った時の光景を、貴志は今も忘れることができない。

 見上げれば紺碧の空。金色に染まった海の果てに群青の雲がたなびき、その狭間に落ちかけた太陽が最後の輝きを放っていた。

 大村先生の黒く艶やかな髪が潮風をうけてなびき、陽を浴びて輝いていた。その瞳も琥珀色に燃え、晩秋の海を見渡していた。

 波は絶え間なく岩礁にぶつかり飛沫を上げ、2人の立つ高台まで跳ね上がるかのような勢いがあった。

 「寒くない?」

 大村先生は羽織っていた上着を貴志の肩にかけた。照れくさかったが素直に従った。制服だけでは震えるほどに冷え切っていたからである。

 「先生ね、もうすぐ入院するの。もう、キミとは会えないかもしれない」

 「…」

 「もう先は長くないみたい…」

 大村先生は髪の毛をかき上げた。女性にしては背が高く、貴志はいつも彼女を見上げる格好になる。その痩せた体…。病気と冷える空気のせいか顔は青白かった。

 沖合に海鳥が無数に舞っているのが見える。下を覗けば波が轟音を上げて白く泡立ち、大きく揺れているのが見えた。

 「どうせ死ぬのなら…この場所で死のうか…」

 波の音が一際大きく響き、1羽の海鳥が高い鳴き声を上げた。

 「…一緒に来てくれる?」

 貴志は…その時の大村先生の表情を追憶の彼方から呼び覚ますたびに、ゾクッとするような感覚と、得も知れぬ切なさに今も胸が締め付けられる。

 底冷えのするような冷えた瞳。底知れぬ悲しみを湛えたその瞳。そして…まるで哀願するような切なさがその瞳に宿っていた。その悲哀に満ちた迫力に貴志は気圧され、我知らず後ずさった。

 「…お願い」

 貴志はハッとした。

 大村先生のその琥珀色の瞳の奥は潤み、こぼれ落ちそうだった。

 それを見て貴志はこの場から逃げ出そうとする自分を自覚して恥じた。情けなさがこみ上げ、思わず膝をついて先生を見上げる。

 波がまた岩山を揺らした。

 大村先生は微笑んだ。

 「冗談よ」

 落日に照らされた大村先生の姿は、まさに女神のようであり観音菩薩そのもののように貴志には思えた。

 「アハハ、ビックリした?ごめんね。寒くなってきたし、もう降りよう」

 冷えた海の風が大村先生の黒髪をなびかせていた。彼女曰く、この髪も抜け毛が多くなってきたらしい。あと一ヶ月もすればわたしの頭もツルツルよと、朗らかに笑った。

 「石井貴志くん」

 岩山を降りた後、大村先生は貴志に指をつきつけてイタズラっぽく笑った。

 「君は生きるのよ、わたしの分まで。何があっても…」

 「…」

 「それから…キミは学校に行きなさい。今の学校がいやなら行かなくてもいい。夜間高校もあるから、そこに入って遅れた分を取り戻すこと。いい?約束よ」

 貴志はしかし、未だその約束を果たしていない。学業からはまったく遠ざかり、流れ者の生活を送りながら、とうとう40歳を超える年齢になってしまった。

 「キミに言ってなかったことがあるの」

 さざ波が大村先生と貴志の足元まで寄せてきた。太陽は水平線の向こうに消えようとしていた。

 「先生の両親は、先生が中学生の頃、交通事故にあって2人ともいないの。妹がいたけど、一緒に車に乗ってて、両親と天国へ行っちゃった。あと先生には、遠い親戚がいるだけ…」

 「…」

 「…天涯孤独よ」

 寂しげに大村先生は目を伏せた。風と波の音が一段と高鳴り、潮風が2人の間を吹き抜けていく。

 「だからわたし、貴志くんと同じよ。中学や高校は施設から通ってた。学校に施設から通っている子がいると聞いて…その子が不登校になっているというから…どんな子なんだろって興味もって…だから、キミに声をかけたの」

 「…」

 大村先生は微笑んだ。

 「キミ、すごくいい子だよ。今まで受け持った生徒たちの中でも一番目くらいに…」

 貴志は黙って大村先生を見つめている。

 「…さようなら」

 大村先生は貴志に手を振って、砂地を踏みしめ帰路につく。風になびく髪の狭間に哀愁を帯びた瞳の光を見た気がして、貴志は先生を呼び止めた。

 「先生!大村…小百合先生!」

 先生は振り向いて貴志を見つめる。

 貴志は…言葉が出なかった。自分は彼女に何を言いいたいのか?

 言葉がつかえて何も言えなかった。ただ…想いが強すぎて熱いものがこみ上げ、頬を伝う。それだけは止まることはなかった。

 「泣き虫ね」

 大村先生はポツリとつぶやくだけだった。

 「…生きるのよ。それだけは約束して」

 そう言い残し、大村先生は二度と貴志に振り向くことはなかった。

 砂地に彼女の足跡だけが残った。

 貴志はその場に崩れ落ち、声にならない声で大村先生の名を叫び続けていた。

 やがて大村先生の足跡は波がさらい跡形もなく消していく。それでもなお、貴志の慟哭は止まなかった。

 

 その日を境に大村先生が貴志の目の前に現れることは二度となかった。彼女が亡くなったのは、それから二ヶ月後のことである。その後、貴志は中学卒業を待たずして生まれ故郷の町を去った。

 

 たなびく雲の向こうから朝日が海を照らし、波の音とともに潮風が貴志の頬をなでた。

 夜明けである。群青の空に輝く金星…あの日、大村先生と岩山の上で見た夕陽の光景と重なる。

 (昨日の夢…)

  眼下に荒ぶる波が何度も押し寄せ、岩に当たり砕け散る。見上げれば空は鈍い灰色…浜風が吹き荒び、倒れそうになった。それでも貴志はその場に踏みとどまり、荒れ狂う海に向かい獣の咆哮にも似た叫び声を上げ続ける。何度も何度も…。

 貴志はひたすら海に向かい、己の感情をぶつけるが…自分の想いのたけをぶつけ続けても…なお、足りなかった。

 (あの日、あの時の俺もそうだった…)

 大村先生が永遠の別れを告げたあの日…。貴志は波が打ち寄せようとも、先生が去った浜辺で自分の想いを叫び続けていたのだ。

 (…生きるのよ。それだけは約束して)

 大村先生の声がまるで昨日のように貴志の脳裏に甦ってくる。

 (先生…俺は今日まで生きてきた。何があっても生き抜いてきた。その約束だけは果たしたよ…)

 貴志の頬を一筋の滴が伝った。波と風は、あの日の追憶の彼方から押し寄せ吹き抜けていき、その音色を奏でていく。

 気がつけば、瓶には一滴の酒も残ってはいなかった。

 貴志は立ち上がり、カラになったその瓶を海に向かって放り投げた。

 瓶は放物線を描き、やがて波の狭間に落ちて消えていく。

 そして貴志は叫んだ。

 夢の中で己の想いのたけをぶつけように…。

 あの日、大村先生が去った浜辺で叫び続けた、あの日のように…。

 こみ上げてくる熱いものが瞳から溢れでるのもそのままに…。

 昇りゆく太陽は波間を照らし、輝きを増してくる。貴志はその場に膝をつきうつむいた。 流れ出る涙は白砂に滴り落ちる。そしてあの日のようにいつまでも慟哭し続けた。

 日が昇り、海鳥が鳴く頃に貴志は再び立ち上がった。

 (…まだ果たしてない約束がある。それを果たしたい。いや、果たそう)

 貴志は歩き始めた。

 白い砂地に貴志の足跡がつく。それは延々と続く。さざ波と潮風の音、海鳥の鳴き声…。

 波はやがて足跡を消すだろう。潮風は貴志がこの浜辺を去るまで髪と頬をなで続ける。

 そしてその音色と海鳥の鳴き声は、遠いあの日の記憶が残り続ける限り耳元から離れることはけしてないだろう。

 忘却の岬の記憶とともに…。

 そして貴志は決心していた。

 二度と戻るまいと思った故郷の土を再び踏むことを。

 

                                      終

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