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桜嵐

                                                     加藤康弘 

 

 

潮風がバタバタと荷台の覆いを揺らしている。

助手席から見える景色は移りゆくが、紺色の空と灰色の海、そして吹きすさぶ風の音は変わることがなかった。

 風に吹かれてダンボールの切れ端が飛んでくる。やがてそれは街灯に当たり、海に消えてゆく。等間隔に過ぎてゆく街灯のその果ては、灰色の風の彼方に1つの点となって集約されていくようだった。

「武、起きているか?」

養父、一郎の声である。武は身を縮めるように助手席に沈んでいた。そして虚ろな目で車窓を眺めていたが、一郎の声で運転席のほうを振り向く。

武は何も言わない。一郎はただ前を見て運転しているだけだった。

ビュービューと風の音が窓の隙間から聞こえてくる。窓の外の海は、荒れ模様だった。

「嵐が近いな」

一郎はそうつぶやいた。

 ぽつぽつと小雨が降ってきた。小さな雨粒が無数にフロントガラスに張り付くのが見える。一郎はワイパーを動かし、一度だけ雨粒を払った。

 車のラジオから天気予報が流れる。どうやら低気圧が発達しているらしい。台風の季節にはまだ早いのにと一郎はつぶやきながら、今度は時計に目をやる。

「予定までまだ時間あるな。喫茶店でも寄ってくか?」

 対向車が強風をものともしないスピードで駆け抜けていった。もし雨脚が強くなり道路に水たまりができれば、水しぶきが舞い大量の水がフロントガラスにかかっただろう。

 「…いい」

 武はただそうつぶやいた。

「そうか。じゃあ先に卸しを済ませてからにするか」

一郎はそう答え、また無言で運転を続けた。

商品の卸しはいつも武がやっていた。一郎は普段なら工場に籠りっきりである。それが今日はめずらしく「たまには一緒にドライブするか」と声をかけてきた。そして運転も俺がすると言った。

武は黙って一郎の運転する軽トラックの助手席に座るだけだった。

雨脚が徐々に強くなりやがて雨粒は大きくなる。

 一郎がワイパーを忙しく動かすと、それは小川の流れのようにフロントガラスの下に消えてゆく。

 大粒の水滴は助手席の窓ガラスにも張りついていたが、飛沫を飛ばしながら強い風に流されていった。

武は無造作にジャケットのポケットに手を突っ込んだ。

武が取り出したのは、青い小さなボタンである。

「…」

武はボタンを見つめ、顔をあげてフロントガラスから飛び込んでくる道路の景色をぼんやり眺めた。

武が手に握る青いボタン。それが形を変えながら、弧を描き…そして無数にフロントガラスに飛び込んでくるように雨は強くなる。雨粒はやがて…散りゆく桜の花びらに変わった。

無数の桜花の渦が武を包みこんでいく。その渦は果てしなく続くかに見えた。

桜嵐の果てに、黒髪をなびかせる早苗の悲しげな顔が浮かぶ。

 早苗とは去年の秋に知り合った。

養父の一郎の家業を手伝っていた武はある偶然から、女子高生の早苗とつき合うことになる。

しかしそれは残酷な運命の始まりでもあった。

 

一郎と武の家業は、菓子パンの製造だった。

できあがった商品は主に高校や病院、会社の売店に卸していた。ドーナツやカレーパンなど揚げた菓子パンを主に取り扱っているが、とりわけ腹を空かせた高校生には評判のよいパンで、弁当代わりに購入する学生も多かった。

武が市内にある女子高の売店に菓子パンを卸しにきた時のことである。

その女子高は校門をくぐると売店まで桜並木が植えられ、満開の季節になると花びらが吹雪く。武は校内の売店まで軽トラックで乗りつけた。

パンのような食品を卸すには、通常ワゴン車で配達するのが普通だが、一郎の会社は軽トラックで配達する。荷台には覆いを被せ、そこに菓子パンを詰めた籠を幾重にも積むのだ。一郎はもう何十年もこの軽トラックを使っている。一郎によればワゴン車よりこちらのほうが商品の出し入れがしやすいとのことだった。

 放課の時間なのか、女子高生の声が賑やかに聞こえてくる。市内では有名な商業高校だが、ほとんど学生は女子である。軽トラックの荷台から菓子パンの入った籠を下すと、「ごくろうさん」と売店の裏から校務員の中年女性が出てきた。

 武は商品を手渡して、代わりにお金を受けとる。

笑い声がして女子学生の一団が七人、売店の窓口まできた。

「あっ、ちょうどパン屋さんがきた。すいません、クリームドーナツください」

昼にはまだ早いので、おやつを買いに来たのだろう。

七人組は、入荷したばかりのドーナツをわれ先にと手を伸ばす。一人2~3個はとってしまい、あっという間にクリームドーナツは無くなってしまった。クリームドーナツは女子高生には人気ですぐに売り切れてしまう。揚げたパンに生クリームを詰めた簡単な商品だが、養父の一郎が女子学生やОLに気軽に食べてもらえるよう考えた商品である。特にこの学校の女子には人気があった。秘伝の生クリームでその製造に時間と手間を費やすため、一日に作る個数は限られる。

賑やかな一団が校舎に戻っていくのを確認すると、武は軽トラックに乗り込んだ。

次の入荷先が待っている。エンジンをかけて出発しようとしたその時であった。

「あのう…クリームドーナツはありませんか?」

売店に一人の女子高生がきて、売店のおばさんにおずおずと尋ねる。

「ごめんね。今日も売り切れが早かったのよ。入荷した途端にすぐだもんねえ…ったく、あの子たち一人で三つくらい持ってくんだから…。本当にごめん」

売店のおばさんは申し訳なさそうな顔をして女子高生に謝った。

女子高生は気落ちして校舎に戻ろうとする。あまりにがっかりした様子である。気の毒になって武は思わず声をかけた。

「よかったら予備がまだあるよ。ほら」

武はクリームドーナツを彼女に差し出した。「予備」とは言ったが、本当は配達が終わったあと、武がおやつにと取っておいたものだった。

その女子高生は、まるで顔全体が輝くような笑顔を武に向けた。

長い髪を後ろに束ねたその顔は色白だが、笑顔は子供のように無邪気だった。そして嬉しそうに武のもとに駆け寄りドーナツを受けとった。

「お兄さん、ありがとう!」

そして五百円玉を渡す。武が慌てて釣り銭を出そうとすると、女子高生は「いいって、いいって。それは明日の分ね!」とまた無邪気に笑った。

素直な反応の少女に武は思わず笑った。

やがて、放課の終わりを告げるチャイムが鳴った。

少女は慌てて校舎に戻ろうとする。そして校舎に入る前に振り向いた。

「お兄さ~ん、いつもこの時間にくるの?」

武は思わずキョトンとしたが、少し間をおいて自分でも驚く返事を返した。

「ああ!クリームドーナツまたとっておいてやるよ!」

少女はまた無邪気に笑った。

「ありがとう!」

それが早苗との出会いだった。

 

今年一九歳になる武は、中学を出てすぐに養父の一郎の家業を手伝ったので、高校には行っていなかった。

学び舎で楽しそうに過ごす同年代の学生を横目に、うらやましく思うこともあったが、窮屈な学生生活は性には合わないと自分を言い聞かせていた。それでも養父の一郎が「高校くらいは行かせてやってもいいんだぞ」と常々言っているので貯金が貯まったら、定時制の夜間学校くらいは行こうと考えていた。

だから高校生の早苗とつき合うようになってから、その学生生活を彼女から聞くたびに新鮮な感覚を覚えた。

彼女の通う商業高校は進学校ではないので比較的校則は自由らしい。

制服はだらしなく、長いスカート姿で髪を金髪に染めている女子生徒もいる。そういう生徒は遅刻無断欠席は当たり前。時折、地元の暴走族が校庭に入り、大騒ぎになることもあった。暴走族仲間を彼氏にもつ生徒が何人もいるのだ。

そして授業をまともに聞いている生徒はほとんどいない。ほとんどが机の上で腕を枕に寝ている。それでも注意しようとする先生はいないらしい。

「みんなすごいんだから」

早苗は無邪気に同級生のことを話す。

朝から晩まで働き詰めの武には、考えられない自由さである。

時は一九八〇年代。バブル経済がはじける前の時代だった。一九九〇年代、二〇〇〇年代の高校生とはまた一味違う風俗がこの時代にはあった。

それでもまじめな生徒は何人かいる。早苗は、まじめなほうの学生だった。

彼女は家が会社経営をしているので、この学校でしっかり簿記などの事務を勉強し、卒業後は家業を手伝いたいと言った。早苗の家業は、古い家電製品や工場から出る鉄くずや空き缶などを扱う廃品回収業である。おじいさんの代からやっている仕事で戦前から営んでいるとのことだった。

早苗の性格を一言で言い表すなら、「率直で素直」である。

武が早苗と付き合おうと決めたのは、彼女のそういう所が小気味よかったからだった。

早苗に初めてクリームドーナツを渡した翌日、早苗は律儀に正雄が来るのを待っていたのである。

「お兄さん、昨日の約束覚えているよね?」

無邪気な笑顔で出迎えた彼女を見て、武は半ば呆れてしまった。彼女は、素直に武の言葉を信じたのだ。

「あれ、本当は俺のおやつなんだけどな」

武は苦笑いしながら、クリームドーナツを早苗に渡すのだった。

そんな日々が続き、武と早苗が付き合い始めるのはごく自然ななりゆきだった。

武は家業の合間を縫って早苗との時間を作った。

 武は早苗の無邪気な笑顔を見るとこのうえなく幸せな気持ちになる。だから、彼女を喜ばせようと遊園地などできるかぎり楽しい場所に連れていくのが常だった。

やがて早苗も不器用だが素朴で穏やかな武を好きになっていった。

しかし…。

二人はお互いにどうしても他人に話せない秘密をそれぞれ抱えていた。特に武は、そのことを思うとどうしても気持ちが重くなった。武が抱えている秘密、それは早苗が先に自分の秘密を勇気をもって話したことで、彼もまた早苗に打ち明けざるをえなくなるのである。

 

二月の末頃、寒さは少し和らぎ小春日和の穏やかな日だった。

「聞いてほしいことがあるんだけど」

早苗は唐突に切り出した。もっともそれはいつものことなので武は気にしなかった。

「何?」

武は昼ごはんの菓子パンを頬張っていた。昼休みにすべての配達を終えてから、早苗と学校の外の土手で待ち合わせて一緒に昼ごはんを食べるのが日課になっていた。すぐ脇には、例の軽トラックがまるで二人に控えるように駐車している。

「武にはまだ話してないことがあるの…」

早苗はどこか躊躇している節があった。彼女にしては珍しいことである。武はなにも言わず、早苗の言葉を待った。

「わたし…実は韓国人なの」

「えっ?」

武は早苗が何を言ったのかすぐに理解できなかった。

「韓国人?」

「うん…お父さんもお母さんも韓国人。だからわたしは日本人じゃない。育ったのはこの国だけど」

早苗は手製の弁当を食べながら遠い目をした。こんな早苗を見るのは初めてだった。

「在日韓国人?」

「そう。驚いた?」

「別に」

武は関心なさげにパックのコーヒー牛乳にさしたストローに口をつけた。

「なによその態度」

早苗は怒って武の横顔を睨んだ。自分のやっとの想いが踏みにじられたと感じていらだちを隠しきれなかった。

「だって…」

武は早苗が気色ばんだのをみて意外に思いながらも言葉を続けた。

「どこの国の人だろうと…早苗は早苗だから」

「…」

早苗は目に涙を溜めながら武の横顔をみた。

「ありがとう」

武はその時、なぜ早苗が涙を見せたのか?そしてなぜ「ありがとう」と言ったのか理解ができなかった。

「泣いているの?」

「うん、ごめんね」

早苗は無邪気に笑った。

「そういえばお互い、家族のこととかあんまり話したことないね」

「そうだな。でも俺は家族いないから」

早苗は武が養父一郎に育てられ、今は一郎の家業を手伝っていることは知っている。

しかし、なぜ実の家族と離れて暮らしているのか?武はまだ早苗にはその顛末を話したことがなかった。

「武のお父さんやお母さんは…死んじゃったの?」

「母さんは知らない。親父は…死んだようなものだよ」

武は立ち上がった。もう仕事に戻るつもりである。早苗は不服だった。

「わたしは…自分のこと一生懸命話したのに!武は何も話してくれないの?」

早苗の言うことももっともだった。しかし武は顔を曇らせるだけだった。

「時期がきたら、また話すよ」

武は軽トラックに乗り込み、そのまま車を発進させた。

早苗は武の運転する軽トラックをいつまでも見送っていた。

 

武の養母和子は無口な質だった。

朝食が済むと黙々と一郎の仕事を手伝い、時間になると昼夜の御飯のしたくに入るのだが、そのあいだ一言も口をきかない。御飯ができても二人を呼ぶこともない。一郎や武が来なければ一人で黙々と食事をとっている。

その日一郎が午後から所用があると言って出かけ、武と和子だけで仕事を回していた時もそうだった。いつの間にか作業場からいなくなり、武の仕事が一段落して茶の間にくるともうご飯ができていた。

一郎が帰ってきていて二人でコロッケを頬張っていた。

「父さんに会ってきたぞ」

一郎がそう声をかけたが、武は黙って、ちゃぶ台についた。

「お前の顔を見たがっていた。最近、刑務所の飯がまずくなったってぼやいていたな」

一郎は味噌汁を飲み、黙ったままの正雄にお構いなくテレビをつけた。ニュース番組で今日も殺人事件があったことを伝えている。何か皮肉めいた巡りを感じて正雄はさらに沈黙を深めた。

武の実父、洋が逮捕され刑務所に入って十年あまりになる。

十年前、洋はある事件を起こした。たまたま居酒屋で居合わせた他の客と口論になり、洋は手持ちのナイフでその客を刺してしまったのだ。酔いの勢いも手伝いナイフは深々と刺さった。相手はすぐに病院に搬送されたが、集中治療室に担ぎ込まれた頃には冷たくなっていた。

洋はすぐに逮捕された。遺族への賠償は洋の両親や兄弟、すなわち正雄の祖父母や叔父が責任を負い七年がかりで済ませたらしいが、詳しいことはあまり武には知らされてなかった。

武は洋の顔を知らなかった。

武の母良子が武がまだ赤ん坊のとき離婚して別れ、その後音信が途絶えたからである。武と良子が洋についての消息を知るのは彼が事件を起こしてからだった。

武が早苗に実の家族について話すのをためらうのはそういう背景が多分にあった。

そして武の母良子である。

武の母良子は、世間的にずれたところがあった。

酒もたばこもやり、ご飯もろくに作ってもらった記憶もない。休日になればオシャレをして一人でどこかに出かけ、夜遅くになっても帰ってくることはなかった。

彼女は実家にも帰らなかった。だから武は母方の祖父母の顔を知らない。良子は実家の反対を押し切って洋と結婚したため、実家にも帰りづらいのだろうと一郎は言う。

そして…彼女は忽然と武の前から消えた。

武を引き取ったのは、洋や良子の古くからの友人一郎だった。

「武を誰かに引き取ってほしい。できれば親しい人に」

そんな相談を刑務所の洋にしたらしい。洋は一郎と連絡をとって武のことを相談した。一郎には子どもができなかったため、一郎は喜んで引き受けた。こうして武は、洋や良子と懇意にしていた一郎の家に引き取られることになったのである。

それにしても母良子はなぜ、正雄を一郎に託し失踪してしまったのか?

「良子にしろ洋にしろ、昔から世間ずれしていたけど、人一倍臆病で心が弱いところは共通していたからなあ…」

ぽつんと言った一郎の言葉がすべてだと武は思っている。

母良子はすべてから逃げたのだ。実家からも、そして子育てからも…。

洋と良子は若い時から不良で有名だったと一郎は言う。

「とくに洋は無茶ばかりやっていたよ」

一郎は洋の古くからの数少ない友人なので、洋の人物像は彼から聞かされる部分が大半だった。若い時から暴力団とのつながりが深く、組織へ金を上納するために悪いことはなんでもやったらしい。脅喝、サラ金の取り立て、押し売り…その果ての暴力事件を幾度も起こし、留置所を何度も出入りした。

殺人で使ったナイフはその時分から持っていたナイフで主に脅しに使うことが多く、人を刺すという行為はそれまではなかった。

「そんな人様に刃物を突き立てれるような、度胸のあるやつじゃなかったのに…」

一郎は述懐する。

「洋はもともと気の小さいやつだった。あいつが荒れたのは、家の貧しさだ」

俺の家も貧しかったと、一郎は遠くを見るような眼をした。

「同じ境遇だったから妙に気が合ってな。あいつほどじゃないが俺も荒んでた時期があったよ」

今の一郎の様子からにわかには信じられなかった。普段はどちらかといえば寡黙だが、穏やかでやさしい。そんな一郎に育てられた武は、洋のように荒むことはなかった。

「たまたま俺は、ある人に助けられてこうして起業できけど、あいつは俺以上に不器用な奴だったから…。でも人殺しなんてできる大それたことやれる奴じゃなかった」

洋の様子が明らかに変わったと一郎が感じたことがある。

「千島列島は日本の領土だとか…今まで政治の話なんかしたこともないのに、急にそういうことを熱く語りだしたんだよ」

時には「中国人、韓国人など日本から出ていけばいい」と過激なことを言い出すこともあった。

「あいつの話じゃ、犯罪を犯すやつはみんな中国人、韓国人なんだと。自分のこと棚にあげてよく言うよ」

洋はおそらく暴力団とつながりのある右翼団体との接触が多くなったせいで、そういう発言が多くなっていったのだろうと一郎は言った。そんな洋に今日刑務所で会ってきたのだと一郎はいう。

武は洋の話が出たとたんに余計に無口になる。彼にとって父洋の存在は、実母の良子以上に複雑な感情があった。

一郎は「父さんに面会しよう」と何度も武を誘ったが、今日まで一度たりとも洋に会おうとはしなかった。

ニュースが終わると、和子がテレビのチャンネルを変えた。好きなクイズ番組が始まる時間なのだ。和子は茶碗のご飯にかぶりつきながらテレビに見入っている。

「そういえばお前、彼女ができたとか言っていただろ?その話したら洋の奴、喜んでいたなあ」

一郎は一昨日、仕事が一段落した時に、武がボソッとそれを自分に伝えてきたことを思い出した。洋に伝えた時、彼は珍しく顔をほころばせていた。そんな顔を彼は滅多に見せることはない。

「…」

武はなお黙ったままだった。

「父さんに会うのはやっぱりいやか?」

一郎は味噌汁をすすり、武の顔を見ずにいう。

「俺の彼女、韓国人なんだ」

沈黙を破るように武が口を開いた。

「なんだって?」

一郎は思わず武の顔を凝視した。

「刑務所の父さんは韓国人が嫌いなんだろ?でも俺は彼女が好きだから」

それだけ言うと武は箸をおき、自分の部屋に籠ろうとした。

「明日も早いから…」

もう寝るのだという武の意志表示である。

一郎は、何かひっかかるものを感じ思わず武を呼び止めた。

「武、彼女はなんて名前だ?」

「…?」

武は立ち止まり、一郎の顔を思わずみやったが「栗原早苗」とだけ答え、茶の間の襖をぴしゃりと閉めた。

一郎は箸を置いて考えこんだ。

茶の間にはテレビからサクラによる下品な笑い声だけが響くだけだった。

 

3月は卒業式のシーズンで、早苗の高校も例外ではなかった。

桜の木はまだ蕾が出始めたばかりである。その桜並木を卒業生たちが卒業証書を片手に、はしゃぎながら校門に向かい歩いていた。

 朝からよく晴れた日だった。今日は卒業式だけなので午後からは授業はない。それでも早苗は武と昼を共にするために手製の弁当を持ってきていた。彼女は今年3年生になるので、卒業は来年である。

 武の運転する軽トラックがいつもの待ち合わせ場所に来ている。

「武」

早苗は軽トラックに駆け寄り武を呼んだ。

早苗の通う商業高校は、武の配達する得意先の中でも様々な種類のパンを大量に仕入してくれるところで、入荷時間までに商品を届けるには、朝早くから仕込みをしなければならない。他の得意先との兼ね合いもあり、一郎と武の朝は早かった。

 しかし配達が終ってしまえば、時間も空くので早苗との時間は放課後に十分にとることができた。

武は運転席のハンドルにうつ伏せになって寝ていた。早苗の声を聞くと彼女のほうに向きニコッと笑った。武は普段は無表情に近いが、笑うとこのうえなくいい笑顔になる。そしてホッと心が安らぐものがあった。早苗はそんな武の笑顔が好きだった。

 「待った?」

 「どうかな?寝てたからな」

 武はそう言うと、早苗の頭をポンとなでた。

 桜の木はこの土手にも植わっていた。ポカポカと暖かい日差しが桜の木を照らしている。二人はいつものように桜の木の下に腰を下ろす。土手の向こう側は校庭でソフトボール部が午後の練習に備えてグランドを慣らしていた。

 弁当を食べながら他愛のない会話が続く。それはいつもの光景だった。ただ早苗の同級生が二人を冷やかしながら下校していくのが普段と違っていた。

 「早苗、この前はごめんな」

 早苗は武の言葉に、不思議そうな顔を向けてその横顔をみつめた。

「お前、自分が韓国人だって打ち明けてくれただろ?あの時俺、お前の気持ちまったく考えなかったよ」

 「そんなこと…」

 早苗は弁当箱をしまいながら、春風をその顔に受けていた。そしてもうそんなことは、どうでもいいと言わんばかりに武にニコリと笑顔を見せる。

 早苗の弁当箱には海苔巻弁当が敷き詰められていた。武は早苗からひとつ貰ってそれを頬張った。普通の海苔とは違う独特の風味。韓国のりを使ったものだ。

 「キムチもあるから」

 早苗は小さな袋を取り出して武に差し出す。日本製とは比べ物にならないほど辛い。自家製のキムチだと早苗は言う。自分が韓国人だと武に告白して以来、早苗はそういった弁当を持参することも多くなっていた。武が珍しがりおいしそうに食べるのを見て、早苗は嬉しくなるのである。

 やさしい風が早苗の頬をなで続けている。彼女はふと、遠くを見るような眼をしてポツリと言った。

 「武にはわからないかもしれないけど」

 「…」

 武は静かに早苗の言葉を待った。

「わたし、昔から周りの友だちとは…同じ言葉を喋って、同じ景色を見て、同じ風を受け感じているはずなのに…何かが違って、どうしても自分に自信が持てなくて…でも…」

 早苗はため息をついた。

 それは武が彼女と付き合って以来、聴いたことのない深いものだった。ため息というよりも、嘆きにも似た心から湧き上がるもの…そして正雄の胸の内にもそれに共鳴できる何かがあり、それは彼の深いところで共振していた。正雄は思わず胸を押さえてうずくまった…かのような錯覚を覚え、思わず早苗の顔をみつめる。

 早苗はびっくりして正雄の顔を見返したが、すぐに笑顔になった。

「わたしが韓国や朝鮮の楽器や舞踊を習っているのを知っているでしょ?」

「…ああ」

「それからよ。それから。わたしはわたしでいられるようになった…自分のルーツの国の文化だから。ああ、これなんだって…」

早苗は目を閉じた。

「山河に木霊すアリラン、雨と風と雷雲…天の声を聞くチャンゴ…朝鮮の文化、わたしたちの故郷の文化…」

「…」

 「わたしに流れている血は周りのみんなとは違う。武とも違う…」

 さみしい横顔だった。

 武は思わず抱きしめたくなる衝動に駆られたが、近づきがたい何かを彼女に感じて踏みとどまった。それは、異国に生きていかざるを得ない者が放つ“誇り”なのか?日本人である武にとっては得体の知れない大きな“壁”であった。

「武は…武でいられている?」

早苗がポツリと言った言葉に武は、胸を抉られるような感覚をかすかに覚えた。

俺は俺でいられているのか?考えたこともない。ただ、己の胸の奥に早苗が抱えていた“闇“にも似たものが正雄の中にも確かにあった。そして早苗が自分に胸の内に秘めたものを自分にさらけ出した以上…正雄は“それ”を彼女に打ち明けなければならなかった。

春の日差しが早苗の横顔を神々しく照らし、そよ風が彼女の髪を揺らす。

早苗は急に何か思い出したように武に向き合い、いつもの無邪気な笑顔を見せた。

「武もいつか高校に行くんだよね?」

「ああ…貯金が貯まったら。定時制だけど」

 正雄が戸惑いながらそう答えると、早苗は自分のバックから何かを取り出して武に渡した。

「これ、あなたにあげる」

それは青い小さなボタンが四つほど入ったビニールの小さな袋だった。

「いつか学ラン買ってあげる。まずはこれでガマンして」

早苗はボタンをひとつ取り出して武の胸元に寄せた。そしてまたニコリと笑った。

「やっぱり。武って青いボタンが似合うねえ…わたしが学ランを買ってあげるまで、大事にしてね」

そういって早苗は武のポケットにボタンを突っ込んだ。早苗は本気で武の学ランを買うつもりのようだ。

「ああ。でもまだお金が足りないから、当面高校には行かないけど」

武は一郎の世話にならず、自分の力で勉強したいと常々考えていた。実の父、洋のことがどうしても一郎に対する負い目に感じて正雄はどうしても、一郎が「高校にいかせてやる」という言葉に甘えることができないのだ。

そして武は目の前の早苗を見て考えた。

彼女といつまでもこうして一緒にいたい。それなら…。

実の父、洋について彼女に話さなければならない。

「早苗」

武の声は小さく早苗には届かなかった。

「じゃあね、武。わたし今から部活があるから」

そういって手を振り、去ろうとする早苗に武は自分でも思わず大きな声をあげた。

「早苗!俺の本当の親父は刑務所にいるんだ!」

早苗は立ち止まり正雄に振り向いた。

「人を、刺し殺したんだ」

「…」

「俺は人殺しの息子だ」

一瞬、二人の間に空気の流れが止まったかのような錯覚を武は覚えた。

そして「人を刺し殺した」と武が言った時の早苗の表情…。その顔はまるで氷のように硬直していた。

しかしそれもつかの間だった。早苗はすぐに笑顔になる。しかし…それは彼の前で努めて明るくふるまおうと無理しているように見えた。

「ごめん武。また話そう。じゃあ。部活に遅れちゃうから。また連絡するね」

走り去る早苗の後ろ姿を武はただ茫然と見つめるだけだった。

 

武と早苗が住む町は海沿いの風光明媚な場所だった。

「昔は在日朝鮮人がたくさんこの町に住んでいたんだよ」

一郎は昔を懐かしむように遠い目をして言った。

「戦後この辺りはドヤ街でなあ。くず鉄を大量にリアカーに積んで行脚したり、ホルモン焼きの屋台をだしたり…」

彼らは日本人より明らかに貧しい生活をしていたが、強かに生きる活力は戦後、この町の復興を支える原動力になったはずだと一郎は言う。

「そんな彼らを洋は昔からバカにしていたな。でもそれは洋だけにかぎったことじゃない。かつて朝鮮半島が日本の植民地になった時、日本人の誰もが持っていた感情に違いないよ。それも彼らが日本に渡ってくるようになってからは尚のことだろうな」

一郎も例外なく自分の中にそういった感情はあったが、ある朝鮮人に世話になってから差別意識は消えたという。

「そんな日本人に囲まれて生きているから在日の人たちは今でも、この日本で肩身の狭い思いをしている。正雄。お前、彼女とつき合うならそういうことも理解してつき合えよ」

一郎のその言葉で正雄は初めて早苗が自分の出自を話した時、彼女が涙したその意味を理解することができた。だから早苗が通う高校の卒業式の日に、彼女に素直に謝ることができたのだ。

その時、一郎はなおも何か言いたげに口ごもった。しかしそれ以上、一郎は何も話さなかった。武は気にはなったが、彼にとってそれ以上に気がかりな事があり、それはやがて頭から消えた。

昼間の早苗の反応が気になる。

(俺の本当の親父は刑務所にいるんだ!)

(人を、刺し殺したんだ)

そう告白した瞬間の早苗の表情…硬直した顔。そして無理につくったかのような笑顔…。

明らかにいつもの早苗ではなかった。

不安が頭をよぎる。やはり彼女は父のことを受け止めることはできなかったか?

しかし早苗には話さなければならなかった。

武が自分自身を止めているもの…人殺しの父をもつ人間にしかわからないであろう葛藤…自分が自分自身でいることを許されない、そしてそれに向き合えない。正雄にとって、父洋一の存在は、母良子に捨てられたこと以上に大きな影を落としていた。

しかし環境や状況は違えども…武には成しえなかったことを、早苗はとうに乗り越えていたのだ。だから武は、父のことを早苗に打ち明けなければならなかったし、そのことにも後悔はない。しかし…。

その夜、武は早く床についたが寝付くことはできなかった。

 

次の日の昼も二人はいつもの場所で待ち合わせて昼食を共にした。

 しかし、早苗の表情はどこか硬く、無理に笑顔を作っている感がどうしてもぬぐえなかった。昨日の早苗となにも変わらない…そして普段の早苗とは似ても似つかなかった。

 二人はいつものように弁当を食べ、互いにあたり障りのない話をした。その間、早苗は終始うつむき加減だった。武に相槌をうつ時の彼女の様子は、努めて笑顔を装うとしているようだった。

武の胸中に不安が広がる。

 「早苗…」

 武は、思わず彼女の名を呼んだ。早苗はじっと武の顔をみつめる。

 それは武が見たことのない悲しい顔だった。

 「ごめん…武。わたしまだ武に話してないことがあるの…」

 「…」

 早苗は立ち上がった。

 「こんど…こんど必ず話すから…。それまでごめん…」

 早苗は、走り去っていく。その後ろ姿を黙ってみつめる武の顔は昨日よりも悲しい色合いに満ちていた。

 

桜の花がぽつぽつと咲き始めた頃であった。

空き缶や鉄くずが大量に集積された広場にトラックがガラガラと音をたて、さらに鉄くずの山を造っていた。フォークリフトが忙しく動きまわり、重機が音をたてる。そんな騒がしい作業現場の横にその会社のオフィスはあった。入り口には木製の看板が掲げられ「栗原興業」と太く書かれている。

 オフィスには私服姿で事務机に座る早苗の姿がある。春休みなのでアルバイトがてら実家の仕事を手伝っているようである。

 一郎が入ってくると早苗は緊張した面持ちで出迎えた。

 「すいません…忙しいところをお呼び立てして…」

 早苗が頭を下げると、一郎も一礼をする。

奥から心配そうな面持ちで作業着姿の中年の男が出てきた。

その男がそっと名刺を差し出すと正雄は受け取り、代りに自分の名刺を出した。彼が早苗の父親で「栗原興業」の社長のようである。

昨夜、この社長から一郎に「来てほしい」と電話があった。一郎はその理由は聞かなかった。ただ「わかりました」とだけ答え受話器を切った。なぜ栗原興業の社長が自分を呼び出したのか…一郎には十分理解できることだったからである。

互いに無言で立ち尽くしている。

早苗の両眼に光るものが溢れていた。そしてただ「ごめんなさい」とつぶやいた。

早苗の父がそっと早苗の肩に両手を乗せる。

一郎は無言だった。

ただ、その眼はしっかりと早苗を見据えている。やがて早苗がその両手で顔を覆うと、

一郎は口を開いた。

 「まずはお嬢さんから武になにか声をかけてやってください。あとはわたしが正雄に話しますから…」

 

一郎はその日の夜、夕食が終ってから武を自室に呼んだ。

「どうしても話しておきたいことがある…」

そういって切り出したのは、武の実父洋が殺人を犯した顛末だった。

武がそれを聞くのは初めてだった。

「ほんの些細な出来事だったんだよ…」

その日、洋は事件の起きた居酒屋に入る前、つるんでいた仲間とはしご酒をしてかな

酔っていたらしい。カウンター席に座り、例の如く「犯罪者の中国人、韓国人など日本から出ていけ」と大声で叫んでいた。すると隣に座り飲んでいた客が激高した。

 「何を言うか!お前たち日本人こそ侵略者だ!戦争犯罪人だ!」

 そう叫んだあと、理解できない言葉をまくし立てた。

 「その客が叫んだのは、韓国語だったんだ」

 正雄は思わずどきりとした。そしてわけもわからず胸が早なりのように響いた。

 「洋とその客は、掴み合いになった。洋一が殴られ、店の奥に吹き飛ばされた次の瞬間にだった…」

 その唇からは血が滴り洋はそれを手で拭き取った。その時の眼光はまさに獣のようだったという。洋の手からキラリと何かが光った。それは洋が常に持ち歩き、時には仲間に自慢していたナイフだった。

 「まるで…洋の体がその男の胸に吸い込まれたかのようだった。二人はそのまま揉み合うようにして倒れて…」

 洋に刺されたその男は仰向けに倒れ、その鳩尾からは鮮血が止めどもなく流れ出ていた。床一面は真っ赤な池のようだったという。

「救急車が到着したとき、洋は店のカウンター席で血まみれのナイフをじっと見つめていた。虚ろな目で、うす笑いさえ浮かべて…酔いもあったと思うが、とても尋常じゃなかった」

「…」

武は一郎をじっと見つめている。

「義父さん、ひょっとして義父さんは…」

「ああ」

一郎はうなずいた。

「俺はあの時、洋と飲んでいた。事件の一部始終を見ていたんだ…」

あれ以来、酒が飲めなくなったよと一郎はつぶやく。

「もちろん洋を止めようとした。あいつの様子が尋常じゃなかったからすぐにでも止めたかった。しかし…」

 一郎はため息をついた。

「あいつの連れ合いに遮られて、それができなかったんだ」

それはどういうことなのか?武はすぐには、一郎の言葉の意味を測りかねた。

「あの日、俺以外に一郎と飲んだ仲間たちとは初対面だった。後から分かったことだが、みんなあいつの政治的な仲間だったんだ」

一郎は吐き捨てるような思いを込めて言葉を発し、そしてまたため息をついた。

「すまんな。今まで話せなくて…どうしても後ろめたさがあってお前には話せなかったんだ。許してくれ…」

「…」

武は一郎の言葉に深い苦悩の念を感じて何も言えなかった。一郎が武を引き取った

のは、その場にいながら洋を止めることが出来なかった…その悔恨故なのか?

 武はそのことも質したかったが、思いとどまった。

今、一郎が伝えようとしていること…それは何か別の意味を持つものを匂わせていた。だから武は膝の上で拳を握りしめ、一郎の次の言葉を固唾を飲んで待った。

 「武、洋一がその手にかけたのは、在日韓国人の方だ。その方の遺族はこの町に住んでいる…」

 武は自分の胸の鼓動が痛みを伴うものに変わるのを感じた。

「栗原興業…。洋が殺してしまった方は、この町で長年、廃品回収を営んでいる栗原興業で重要な役職についていた。また栗原の一族でもあった…」

「…」

「武、お前が付き合っている栗原早苗の叔父だった人なんだよ」

 一郎の部屋の明かりに闇がさした。同時に武は、一郎の言葉がどこか遠くから聞こえてきたように感じた。

 「栗原の一族は、洋に大変な恨みをもっている。その息子であるお前は…栗原の人間にとっては、当然受け入れることのできない存在なんだ」

沈黙の時が流れる。武の中で確かに灯っていた光が消えた。

 

 早苗の高校の桜が満開になる頃、武と早苗は別れた。

 いつもの時間いつもの場所で二人は待ち合わせた。その日は皮肉なくらいに快晴で土手の桜と吹雪く花弁がその空に美しく映えていた。

 桜が舞い散る中、早苗は静かにうなずく。

「武、ごめんね…」

「どうして謝るの?」

 武は複雑な気持ちになった。

 「こんな悲しいこと、いつまで続くのかな?」

 「…?」

 早苗の言葉に武は一瞬、その胸を貫かれたような気がして思わず彼女を凝視した。

 「きっと私たちだけじゃないよね?」

 唐突な物言いはいつもの早苗だった。しかしその時の武は、彼女が何を言わんとしているのか不思議に理解できた。

早苗は遠くを見つめるような眼差しでどことなく視線を漂わせている。その瞳には光るものが今にも溢れそうだった。早苗の顔を見まいと武はうつむいた。そうしなければ、自分の胸が張り裂けそうになる。

「こんなこと…わたしたちだけで終わりにしたいね」

「…そうだね」

 その年の春の別れ。武は胸が焼けるような痛みを味わった。まるで血がにじみ出てくるかのようだった。ただ武は「わたしたちだけで終わりにしたい」という彼女の言葉に、なぜか…すがりつき、その痛みを和らげようとする自分に気づくのである。

 それが何を意味するかは、その時の武には考えることはできなかったが…。

 「さよなら」

 別れを告げた早苗は、桜嵐の中去っていく。

 三度彼女の後ろ姿を見送った武だったが、その胸中に去来する寂しさを感じながらも何故か心は穏やかだった。

ただ、その瞳から流れ出るものがあるのを自覚したが、それを止めることはどうしても出来なかった。

 

 パンの配達が終る頃、雨は止んだ。

 風はまだ強く、軽トラから降りた武の作業着の襟を揺らしている。

町の桜はこの嵐ですべて散っただろう。配達で立ち寄った早苗が通う高校のあの桜並木も、花弁が風に散り見る影もなかった。

配達が終れば、またパンを作り続けるいつもと変わらぬ日常が再開するだけである。軽トラックから残りの荷をおろした武は、風に狂う工場のトタンが揺れるのを無造作に見上げている。

「屋根に補強がいるかな?」

そう言って工場に入り仕事を続けようとする一郎を武は呼び止めた。

「義父さん!」

 一郎は振り向き、武を無言で見つめる。

 実の両親のこと、この家の養子に引き取られたこと…様々な要因で陰りのある性格に育ってしまった武だった。そして彼が、そのことに向き合うことが出来ないでいることも…一郎はよく承知していた。

その時、彼の表情はいつもと変わらなかった。しかし武から、一郎を呼ぶことは滅多にあることではない。

 「なんだ?」

 武は一郎の顔を正視せず、やや斜めにうつむきながら答えた。

 「父さんに会うよ」

 一郎は憂いを帯びた眼差しで武を見つめる。

 「そうか」

 それだけ言うと工場の中に消えていく。武は一郎の後に続いて工場の中に入った。

 やがて機械の音が、吹きすさぶ風の音に負けないほど大きな音を立て始める。

 工場の前の道路に風に吹かれた空き缶がカランと横切っていった。

 

((終)

 

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