
空気が破裂するような音が響き、バリュートが開いた。
フワッとした感覚と風の音、そしてくるくると回る遥か上空の青雲が、ファングの五感を刺激する。
やがてその回転が落ち着くと、揺りかごの中に抱かれる心地良さが、ファングを包みこんだ。それは彼が着込む、防弾ジャケット越しにも、しっかりと伝わってくる。
首を起こし周囲を見渡せば、バリュートが次々に開いていく。それはまさに、天空に開花した無数の白い花のようであった。
しばらく風の音を聞きながら、浮遊が続く。
やがて、軽い衝撃とバウンドでバリュートから投げ出されそうになったファングだったが、安全ベルトがそれを防いだ。安全ベルトを外し、バリュートを降りたファングは周囲を見渡した。
丈の高い草が、荒涼とした大地にまばらに生えていた。先に降り立った“火星の夜明け”の兵士たちや、その大地に投げ出された無数の白いバリュートが、ファングの周囲を取り囲んでいる。大地のその遥か先には、高いビルがそびえ、いくつもの尖塔やドームが岩山の影から突き出ているのが見えた。そして天高く立ち昇るいくつもの黒煙…。
それがテロ組織“暁の賛歌”によるテロ攻撃だとファングが理解するのに、時間はかからなかった。飛空挺から飛び降りる前、その情報を聞かされていたからである。
上空からは、次々とバリュートが降り立ち、バウンドを繰り返している。その光景をファングは茫然と見つめていた。
「おい!何をぼやっとしている!」
ファングが振り向くとコーネリアだった。
彼女の背後には兵士たちが集結し、隊を整えつつある。
「新兵はわたしについてきな。いいか、手筈通りアルフハイムに近づいて、わたしが合図したら、光学迷彩をオンにするんだ。フードを降ろすのを忘れるんじゃないよ。顔だけ露出しているんじゃ、様にならないからね。まあ、間抜けというより不気味だね。光学迷彩を知らない一般人が見たら、腰を抜かすだろうさ」
ファングは顔をしかめた。
彼女の吐く息にアルコール臭が…そう、こんな時でも彼女は相変わらずなのである。
「ああ、ちょっと目がまわる…うう、気持ち悪い。バリュートに揺られている間は、なかなかオツなもんだったんだがねえ…。バリュートのふんわりとした心地よさ、青空がくるくると回って…ああ、天国だったよ」
額を抑えながらふらつくコーネリアを、ファングは、ただ呆れた面持ちで見つめるだけである。
「おい、しっかりしてくれよ、隊長さん…」
ファングは溜息をついた。
「ああ?新兵が生意気言うんじゃないよ、戦場は地獄だからね。覚悟しときな」
「…天国に行っていた奴に、言われたかねえよ」
地上に降り立った兵士たちは、それぞれに隊がまとまりつつある。これよりアルフハイムへの侵攻は、部隊を分け、街のあらゆる場所から侵入していくことになる。その際に光学迷彩で姿を隠し、“暁の賛歌”によるテロで混乱する街を突き抜け、メディナス大聖堂を一気に目指す。それが大まかな作戦の内容であった。
その時、上空で雷鳴のような音が響いた。見上げれば大きな爆煙が、いくつもの破片を四散させ天空に膨らむのが見えた。その残骸は、一キロ後方の荒野に降り注いでいた。
ファングたちを乗せてきた輸送機が、アルフハイムより飛来した迎撃ミサイルで撃墜されたのである。
しかし、輸送機には誰も乗っていなかった。
乗り組員の全てが、バリュートで降下したため、自動操縦で飛行していたその輸送機は、もぬけの殻だったのである。
「ブレードの作戦は完璧だよ、もっとも帰りの輸送機はないから、帰還には苦労するけどねえ…」
コーネリアは、上空を見上げつぶやいた。
輸送機は自動操縦にして、アルフハイム側に撃墜させ、“火星の夜明け”が全滅したと思わせる…有能な指揮官や鋭敏な軍人なら、その意図を簡単に察知するかもしれない。
しかしその後に“火星の夜明け”がどう動いてくるのか?いくつものパターンを想定することはできても、完全に予測することは不可能なはずである。逆にそれが、アルフハイム側に大きな圧力をかけることになり、その強固な組織を揺さぶるには、非常に有効な戦術になりえる…ブレードはそう考えているのだ。
(問題は市街地に侵入してからだな…)
ファングを始めとする、ヴァルハラのスラム街で吸収した新兵たち…そんな彼らも含め、今回の作戦では、経験の浅い兵士が多く参戦している。慣れない重力、市街戦、互いの姿の見えない光学迷彩…そしてなにより戦闘下での初めての殺人…。
スラム街のギャングたちなら、人間の一人や二人、簡単にその命を奪ってきた経験もあるだろう。しかし、極度の緊張状態が続く戦場での殺傷は、それらとはまるで質が違うのだ。
「…ファング」
コーネリアは神妙な面持ちで、ファングを見つめた。
「お前、人は殺したことあるか?」
「…いや、ねえよ。半殺しにした奴なら星の数ほどいるけど」
コーネリアはやや意外な顔をした。この狂犬を絵に描いたような男が、人殺しの経験がないとは…コーネリアの胸の内に不安が広がった。
「なんだよ、そんな顔するなよ。俺はいつだって人間なんか、簡単に殺せるんだ。わけねえよ。ただ面倒だし、後味悪いから今までやらなかっただけだ」
「…ファング、今のうちに言っておく。戦場は面倒だの、後味悪いだの、そんなこと言ってられないんだ。肝に銘じとけ」
そう言うとコーネリアは、ファングに背を向け「出発だ。隊列を組み直せ」と指示を下した。
「ファング」
ファングに遅れて、無事に降下を終えたアレンが、コーネリアの背中を面白くなさそうに睨んだ。
「あのアマ、ファングがどれだけ凄えか、まるで解ってないんだ。気にするなよ、戦場であの女の鼻を明かしてやろうぜ」
ファングはしかし、アレンの言葉が耳には入らなかった。
(戦場は面倒だの、後味悪いだの、そんなこと言ってられないんだ…)
コーネリアの言葉が、頭の中をリフレインする。
同時に得も知れぬ不安が、ファングの胸の内に去来した。
そして何故か、ユウキの顔が脳裏に浮かぶ。哀しみに満ちた彼のその瞳…それはファングの胸をえぐるかのようであった。
(…?なんであいつが…?あいつの顔が…?)
ファングは慌てて、その想念を振り払った。
目の前には、不気味な黒煙を上げ続ける聖都アルフハイム。そこは今まさに、獄炎に焼かれ、血の海に赤く染め上げられようとしていた。
黒煙と炎、無数の瓦礫。そしてその間からのぞく鮮血にまみれた人間の手足…。
ヱインの青い瞳に映るのは、まさにこの世の地獄だった。
メディナス大聖堂より遠く北西、爆発のあった場所に、ヱインは駆けつけていた。
その爆心地は、キリスト教の教会があった場所で、施設そのものは瓦礫の山になり、跡形もない。しかし、本当に被害がひどいのは、周辺の居住区だった。
宗教者たちが寝食を共にし、集団生活を営む居住移設。そこでは家族ぐるみで生活している者たちもおり、中には幼い子どももいた。
被災地にうめき声が充満する中、子どものすすり泣く声も聞こえる。
そんな被害状況でありながら、医療チームはおろか、消化部隊もレスキュー隊も未だに到着してはいなかった。
(なんて有様だ!)
ヱインは憤りを禁じえなかった。
(だから!消防や救助隊を充実させておけって言ったんだ!少ない予算で軍備ばかり増強しやがって!)
ヱインがこの場所に駆けつける前、カイルと激しい口論になった。その時に彼が見せた仏頂面を思い浮かべ、よけい腹立たしい気持ちになる。
「カイル!すぐに消化部隊、レスキュー隊を展開しろ!」
「もうやっている!」
カイルは人工頭脳の中に搭載された通信機能を駆使して、消防、救助、医療、防衛など、各部機関に指示を与えていた。各国家機関には、当然、組織のトップ…長官はいるのだが、緊急時には、カイルが直接指揮をとる不文律があった。
非常時に対応できる人材が不足しているわけではないのだが、的確かつ合理的な対処にその能力を特化しているカイルの判断力は、全ての国家機関の上層部の判断を凌駕していた。必然的にあらゆる情報が彼の元に集中し、その判断をカイルに仰ぐことが多くなる。だからカイルが、国防に関する全てを、一手に引き受けていると言っても過言ではなかった。
「だが、これだけ広範囲だと、すべてに一度は無理だ。当面は中心地の、特にメディナス大聖堂付近、ターミナルセンター付近に消化救援活動を集中させる。おそらく、これ以上の爆破はありえない…」
その時、ヱインが詰め寄った。
「無理だと?てめえ、いい加減にしろ!俺が氷室で眠りに付く前、あれほど言ったじゃねえか!消化部隊、レスキュー部隊が少なすぎる、これでは、いざ大規模なテロが起きたとき対応できねえって!あれからてめえは、何をやっていたんだ!」
ヱインの剣幕に、カイルは押し黙ったままだった。
その時、カイルの瞳孔がやや開いた。焦点の定まらない様子がしばらく続き、やがて本来の黒と灰色がかった瞳に戻る。
「今、国防部から、戦績不明の飛行艇がアルフハイムに接近しているという情報が入った。状況から推察して“火星の夜明け”の輸送機だと判断した俺は、評議会の承認を待たず、ミサイルで撃墜するよう指示した。撃墜は成功し、件の飛行艇は、空中で四散したようだ」
カイルはぐっとヱインを睨み返した。
「確かに貴様は、軍事費を削り、人命救助の関係予算を増やせといつも主張していたな。貴様にしては、真っ当で尤もな意見だ。だが、軍事費をしっかり確保していたからこそ、このように敵の脅威を駆逐し、さらなる戦災を防ぐことができたともいえる」
ヱインはその青い瞳を細めた。
「“火星の夜明け”が…ましてやあのブレードが…これしきのことで、くたばるわけねえだろ!」
カイルは鼻を鳴らした。
「そんなことは承知している。奴らのことだ、飛行艇はもぬけの殻、テロリストどもは撃墜される前に、降下作戦を終え、今ごろは部隊を整えてアルフハイムに迫っているというのが関の山だろう。しかし、そうだとしても!もし仮に飛行艇が、大量の化学薬品を詰め込み、この街に特攻するようプログラミングされていたとしたらどうする!そういったことも含めて、対応できるのは軍事のみだ。人命救助だけで、アルフハイムの市民を守ることなどできはしない!」
「…」
「貴様は甘いのだ、ヱイン。ミサイル一機分の予算で、何人の消防隊員、レスキュー隊員を増やせるなどと貴様は言うが、そんな議論は不毛だ。強力な軍備を備えることがすなわち、アルフハイム市民の安全を保証することになる。それがなぜ、わからんのだ?」
ヱインはカイルの胸ぐらを掴み、怒りを露わにした。
「わかってねえのは、てめえだ!市民の安全保証をいうのなら、今ここで起こっている現実はなんだ!あの黒い煙の下でうめく市民の命が、てめえの言う軍備で救うことができるのか!?できてねえだろうが!」
ヱインは、カイルを突き飛ばすようにその胸ぐらを離した。
「確かにこんな議論は不毛だぜ、てめえみてえな石頭につき合っている暇はねえ」
そう言い捨て立ち去ろうとするヱインの肩を、カイルはその手でガッチリと掴んだ。
「どこへ行く気だ?貴様の任務は、ユウキと“ユミルの鍵”を守ることだろうが!」
ヱインはその手を払いのけ、カイルを睨んだ。
「救助に決まってるだろ!どこかの間抜けなガーディアンのおかげで機能しなくなっちまったもんのツケを、同じガーディアンの俺が、払おうってことだよ、悪いか!」
「勝手なことを言うな!本来の任務はどうする気だ!」
ヱインの青い瞳と、カイルの黒い瞳が視線を走らせ、火花を散らす。その間にも爆煙は上昇を続け、その勢いが止むことはなかった。
「ライアがいるだろ!あいつならテロリストどもを、ユウキやナターシャに、一歩だって近づけさせやしない」
「そのライアは、今どこにいる!あの女、帰還してから、一向に姿が見えんではないか!」
カイルは、その苛立ちを爆発させるように怒鳴った。データ化された人間の頃の人格がそのまま喜怒哀楽として現れているのだが、不自然なぎこちなさはなく、むしろ偽りのない怒りに満ちていた。
「…奴なら、例の所に籠もっているんだろ?一応、クリスチャンだからな」
ヱインは、メディナス大聖堂を見上げた。そしてその場所にいるであろうライアに、思いを馳せる。
「ライアなら、心配ない。それはお前も分かっているだろ?」
カイルはまた鼻を鳴らした。
「承知しているとも。もし我らガーディアンの体が生身なら、俺も貴様も、そしてあのブレードでさえ…百回戦えば、百回殺されるあの女の恐ろしさをな。それでも貴様が、メディナスを離れていい道理はない!」
カイルは燃えるような視線でエインを睨んだ。
「貴様はいつも勝手だ。貴様が氷室で眠こけている間、俺がどれほど苦労したと思っている!消化部隊、レスキュー隊が少ない?あれから何をやっていただと?冗談じゃない!貴様ではわかるまい!貴様がいない間、動きの鈍い評議会を無理にも動かし、国防、警察、救援を一手に担い、まかりなりにも、この街を守ってきたのは誰だ!貴様が氷室で安眠する間、五体満足でいられたのは誰のおかげだ!」
「…」
「貴様の言葉が通るとしたら、貴様が、俺やライアのようにハイドロイドになった時だ。人間を捨てたくないと貴様は言うが、人を捨てずして、ナターシャ様やアルフハイムを守れるものか!」
カイルはヱインの顔に指を突きつけた。
「貴様は卑怯だ!そして貴様は…人間を捨てはしなかったが…。代わりに俺やライア、そしてナターシャ様を捨てた…」
そう言い捨てるとカイルは踵を返し、メディナス大聖堂に歩を進めた。
「もう勝手にするがいい。今までのようにな」
それがここに来る前の、一部始終だった。
(あの野郎…いちいち頭にくるぜ)
そして器機が詰まっているはずの胸の内が、なぜかチクチクと痛んだ。
(ちっ、あいつらじゃ、この痛みはわからねえだろうがな…)
エインは、瓦礫をひとつひとつ、持ち上げては後方に放った。並の人間なら数人がかりでようやく持ち上げることのできる石塊でも、エインにかかれば造作もない。
しかし…その下から出てくるのは、血と肉塊だけの遺体。そして手足を失い、臓腑が飛び出しのたうちまわる…むしろこの場で射殺して、楽に死なせてやりたくなる重傷者ばかりであった。
エインはカイルとの通信機能を開いた。
「カイル!医療チームを編成してよこせ!その人手も足りないとは言わせんぞ!」
しかしカイルからの返信はなかった。
エインが再び怒鳴ろうとした時、無数の足音が響いて速やかに動く気配を覚えた。ホバー式の救急車両が、何台もエインの側を横切る。
付近の宗教施設や病院から、救援に駆け付けた医療グループだった。あちこちで輸血や縫合、生命維持装置を慌ただしく施している。各行政区の自警組織も駆け付け、瓦礫の撤去や消火活動も準備され始めていた。
エインはほっと胸をなでおろした。
「呼んだか?」
カイルの通信だった。
「いや、もういい」
エインは、瓦礫の撤去を再開した。
「ふん。お前が考えているほど、アルフハイムの災害対策に抜かりはないわ」
カイルの声にどこか勝ち誇った響きを感じてエインは、無性に腹が立ち、瓦礫を放る作業にも力が込もる。もし目の前に、あの仏頂面が現れでもしたら、そのまま投げつけてやりたい気持ちであった。
「それより気をつけろ…というより、その場にいる医療隊や自警団を、お前の力でなんとしても守れ」
「ああ?」
カイルの意外な言葉に、エインは通信機能の感度を忙しく調整した。
「光学迷彩を装備した“火星の夜明け”とおぼしき集団が、各地で自衛軍と交戦を始めた。この混乱に乗じてメディナスに進軍してくるだろうが、爆破地域の混乱も狙っているのか、消化救援部隊を狙った攻撃も相次いでいる。お前がいる場所は、メディナスから遠い地域だが、奴らの動きを掴み切れていない以上、奴らの攻撃にさらされないという保障はない。むしろ我々の戦力を分散させるため、陽動の意味で、ある一定の部隊をそちらに送り込み、戦闘をしかけてくる可能性もある…」
「“火星の夜明け”が…来たか!」
エインの青い瞳が、爛々と輝きを増した。
「もうお前はメディナスに戻ってくる必要はない。メディナスは俺とライアが死守する。そこを守れるのはお前だけだ、エイン。頼んだぞ」
カイルの通信が切れた。
「…」
アルフハイムを炎上させている煙は、今は勢いを弱めつつある。しかしその下では、新たな脅威にさらされている地域もあるのだ。
「…ブレード」
エインは呪いを込めて、その名をつぶやいた。
そしてはるか南東にそびえるメディナス大聖堂を見据える。
(ユウキ、ナターシャ…)
二人のいるあの聖域に、あの男…ブレードが今、迫りつつあるのか?
エインは拳を握りしめた。
カイルが国防にかかりきりである以上、頼りになるのは、一人しかいなかった。
(ライア…お前しかいねえ。二人を頼んだぞ!)
そこはメディナス大聖堂の中でも、異質な空間の一つだった。
ただ、市街地に出れば、その施設はいくつもあった。
中央に立て掛けられた巨大な十字架。黒を基調とした柱や壁には、装飾と呼べるものは一切確認できない。ただ陽光の射しこむ細く高く伸びる窓はそれらを照らし、簡素な造りの室内を荘厳な空気に包んでいた。
煌びやかな中央ドームとは真逆なこの施設は、プロテスタント色の強い、キリスト教の教会である。メディナスにはおおよそ、あらゆる宗教の礼拝堂があり、ここはその一つでもあった。
そこでライアは今、十字架の下で両膝をついている。そして両手を組み合わせたまま、微動だにしなかった。
かつて人類が地球を主な生存圏としていた西暦の時代、バチカン法王庁を中心に隆盛を極めたローマ・カトリックに対する批判と聖書への回帰を標榜としたプロテスタントは、カトリックに比して必ずしも多数派ではなかった。しかし、バチカン法王庁の衰退、人類社会の変遷と宇宙移民時代を経て、ローマ・カトリックは極めて少数派となり、プロテスタントがキリスト教の主流となった。
プロテスタントと一口に言っても、多くの宗派があったが、彼らは正当なキリスト教復興という大きな目標と旗印のもと、団結して巨大な連合体を形成した。正教会派の流れもあったが、ギリシャ、ロシアなど各宗派がまとまる運動は起きなかったため、必然的にプロテスタントが、キリスト教最大勢力となったのである。
ただ、衰退したローマ・カトリックに、とって代わる勢力がないわけではなかった。
それがメディナス大聖堂を中心とした勢力である。
「各宗教宗派間の調整者」を標榜し、ナターシャの言を絶対とする勢力…。
それは、ナターシャが永い眠りについてから、急激に台頭してきた感があった。
カイルがその中心人物であるとする者もいる。
しかし実際は、各宗教宗派の思惑、ヴァルハラの大企業を中心とする財界の利益、などなどが複雑に絡み合い、それほど単純なものではなかった。カイル自身は「ナターシャを守るためにもその状況は利用すべき」と考え、放置しているきらいがある。
ただ敬虔な宗教者にとっては苦々しくもあった。特にプロテスタントであり、ナターシャのガーディアンでもあったライアにとっては、許すべかざる状況には違いなかった。
ライアもかつては、ナターシャを利用しようとする勢力を憎み、そしてカイルへの不信感があった。
が、それも今のライアには過去の感情でしかない。
純粋な生命体を捨て、ハイドロイドと化した以後のライアには、その当時の記憶はあっても想いは失われ、傍観者として、その状況を観察しているだけであった。
エインに言わせれば、ハイドロイド化した人間の中で、最もその人間性や情緒が「欠落」したのは彼女であった。いまだ激しくエインと“記億としての”感情をぶつけあうカイルとは、まさに対照的で、人間に似せて造られ高性能だが、感情のないアンドロイドとなんら変わることはなかった。
ただ、そんな彼女が“記憶としての”情念を吐露する場所はあった。
それがプロテスタントの教会である。中でも、ここメディナス大聖堂内にあるこの教会は、彼女にとって特別な場所であった。
彼女が固く握る両手には、鎖の長いロザリオが握りしめられていた。
それは窓から差し込む陽光を反射し、銀色の光を放っている。
「…主よ」
ライアはつぶやいた。
「これまで重ねた罪、そしてこれからも重ねるであろう罪…どうかお許しを。たとえわが身が地獄の業火に焼かれようとも…」
そしてライアは立ち上がった。
握りしめたロザリオを首にかけ、近くの机に置かれた二丁のハンドガン、そして薬莢をコートの深い外側ポケットにしまいこむ。
「神に祝福を…聖地を汚すものに血の制裁を…」
ライアの白眼が燃えたぎり、異様な光を放つ。
炎上するアルフハイムの市街地を、姿を隠し疾駆する仇敵の足音…ライアの高性能なセンサーが、それをわずかに感知していた。
やがてライアは、ロザリオと黒いコートの裾をなびかせ、ツカツカと出入り口のドアに向かう。その姿がドアの向こうに消えた時、十字架を照らす陽光が、やや陰りを帯びて見えた。
黒煙を上げ続けるアルフハイムの街並みは、あちこちで散発する銃声や爆音、そして逃げ惑う市民の悲鳴や怒号に満ちていた。
“火星の夜明け”がアルフハイム市内に突入してから小一時間、最初に爆発があった時刻から、約二時間が経過していた。
石畳の道路は、鮮血にまみれ倒れた死人や負傷者が転がり、煙が視界を遮っている。
光学迷彩を解いたブレードは、その血塗られた道を、無人の野を行くが如く闊歩する。その見据える先には、メディナス大聖堂の威容があり、その周囲を、黒煙がとり巻くように渦を巻いていた。
と、空気が揺れ、その地獄絵図のような光景が歪む。
「…」
ブレードの目の前には、白亜の大理石がどこまでも敷き詰められた空間が広がっていた。
上空は雲ひとつない、果てしなく広がる蒼天である。
その遥か彼方から、こちらに降りてくる人影を確認して、ブレードは思わず片膝をついた。そして彼女…ナターシャが降り立つと、ブレードは頭を垂れる。
「久方ぶりです、ナターシャ様。これはなんのマネですかな?」
ナターシャは、ブレードを威圧するように近づき、うやうやしく畏まる彼を見下ろした。
「そんなマネはやめなさい、ブレード。あなたには、微塵も誠意を感じませんよ」
ブレードは不敵な笑みを浮かべて、ナターシャを見上げた。が、その笑みがすっと消えるのに時間はかからなかった。
ナターシャの様子は尋常ではなかった。その長い栗色の髪は逆立ち、瞳は炎のように燃え上がっていたのである。
「ブレード!これ以上の狼藉はやめなさい!お前の身に災厄が降りかかる前に!」
( つづく)