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 暗闇と静寂、そして冷気がその空間を支配していた。

 ナターシャの精神世界の中でユウキは、アローラとの間に横たわる寂寥とした闇と、埋めようのない溝、そして分厚い障壁に、絶望に近い思いに捉われていた。

 アローラの閉じた瞳から、流れ出るそれは、風のないはずのこの空間に、たなびくようにこぼれていた。

 「ユウキ、わたしはあなたがこれ以上、危険に晒され、傷つくのは耐えられないの。そう、今のわたしでは、耐えられない。かつてのわたしには、こんな感情はなかった。人を超えた存在であるはずの“オージン”が、人が傷つくことや、そのの生死に心がざわめくなんて、本来ありえないはずなのに…。わたしは、この世に生を受けてより幾星霜、様々な人々と出会い、別れ、何度もその生死を目の当たりにしてきた。そしていつの間にか、人に近しい感情が芽生えた。悲しみや寂しさが胸に去来するたび、わたしの内にある深淵の彼方に、それを押しやり、処理してきた…つもりだった。でも、あなたに出会ってから、すべてが一変したわ。今まで機能していたことが、もう機能しなくなっている。ユウキ、ナターシャは、あなたがわたしと出会うことによって、傷つくこと、命の危険を冒すことに抵抗を無くすほど激変したと言っていた。でも、わたしたちが出会って変わったのは、あなただけじゃない。わたしも変わってしまったの。もう、オージンとは呼べないほどに…」

 アローラの心情を示すように、彼女の黒髪は激しく揺れていた。

 そして寂寥とした感情の赴くままに、こぼれる涙とともにたなびいた。

「だからわたしは、あなたとの別れを決めたの。そして、あなたを傷つけないために、ナターシャの力であなたの記憶から、わたしを消すことも」

 「アローラ…」

 ユウキは思わず、両膝をつき、愕然とした表情でアローラを見やった。

 が、それもつかの間だった。

 ユウキは立ち上がると、背後の氷柱に背をもたれた。

 「アローラ、泣かないで。君に涙なんて似合わない。君に似合うのは、歌と音楽と、あのギターだけだよ」

 ユウキの声は静かだった。そして寂しげな笑みを浮かべた。

 「アローラ、君は本当に俺と別れることを決めたの?決めたのならなぜ、それをわざわざ、俺に伝えるんだ?」

 ユウキの言葉に、アローラの揺れる髪が一瞬、その流れを止めた。

 「君は、卑怯だよ。自分で決めたと言いながら、その選択は俺に委ねている。俺を試している。違う?」

 アローラは無言だった。

 「それにアローラ、俺と君がさよならするなんて、ありえないよ。だって、俺たちは、今もあのギターで繋がっているんだから」

 ユウキの言葉に、アローラは目を見開いた。

 「アローラ、俺にはわかるんだ。あのギターは、今は俺の手元にないけど、あれを通して君の息吹や温もりが、俺の元に届いてくる…それを今も感じているんだ。ナターシャは、“鍵”のマスターをソフィアに変えたとか言っていたけど、それは多分、嘘だよ」

 アローラの琥珀の瞳が、ほのかに輝いた。

 「ユウキ…知っていたのね」

 アローラの黒髪が、また風になびくように揺れた。

 「ユウキ、あなたの言う通りよ。そう、“鍵”のマスターは、未だにあなたなの。“ユミルの鍵”のマスターになるのには、資格が必要。それは“鍵”が放つ特殊なエネルギーの周波数が、マスターとなる者の持つ生体エネルギーと、波長が合わなければならない。“鍵”のエネルギーと波長を合わられる生体エネルギーは、元々、ナターシャからわたしが譲り受けたもの。でもそれは必ずしも、他の生命体と共有できないというものでもない。でも、ソフィアでは、共有できないし、共有もしていない。それを共有しているのは、わたしとユウキ、あなただけ…」

 ユウキは、不思議な面持ちでアローラを見つめている。

 「ナターシャは、“鍵”とあなたを一時的に切り離して、あなたと“鍵”を守ろうとした。“鍵”のマスターが、ユウキからソフィアに変わったことを、ヴァストに情報として伝え、その既成事実も造ってね。あのエリスを騙し通せるとは思えないけど、賢いナターシャのこと、きっと他にも算段があるんだわ。ナターシャが何を考えているのか?オージンとしての力が弱まったわたしでは、その真意を読み解くことはできないけれど、でも…」

 アローラの瞳は、まさに鏡のように、ユウキの姿を映しだしていた。

 「あなたが、未だに“鍵”のマスターである事実は変わりない。そしてその資格となるエネルギーを、わたしと共有していることも…」

 ユウキは氷柱から背を離し、アローラを見つめた。

 「アローラ、教えて。どうして君と俺は、その特殊なエネルギーを、共有することが出来ているの?」

 アローラは無言で、ユウキを見つめている。

 「アローラ。君は…俺に、何をしたの?」

 アローラは瞳を閉じた。

 「ユウキ。それは…言えない」

 静寂が訪れた。

 「アローラ。賭けをしよう。君が俺にしたことを、俺が当てられなかったら、君の言うとおり、俺たちはお別れだ。でも、もし、俺が当てることができたら…」

 アローラは、再び、目を見開いた。

 「もう、別れるなんて…俺の記憶から消えるだなんて…言わないでくれ。それにもう、泣かないでくれ」

 ユウキは微笑んだ。

 「アローラ、俺は君と別れたくない。俺は…」

 アローラは、再び瞳を開いた。

 「君が好きだ」

 ユウキの言葉は、暗闇の中、静かに響いた。

 「アローラ。ちょっとだけでいい、君のそばに行きたい。君が俺にしたことを、君に教えるから」

 ユウキは、アローラを真っ直ぐに見据えて、歩を進めた。

 アローラは、ユウキを見つめたまま、彼を待った。

 やがてアローラの目の前で歩を止めたユウキは、再び微笑んだ。

 「目を閉じて」

 アローラは言われるがままに、瞳を閉じた。

 ユウキは、アローラの顔を覆うように、顔を近づけ…そして…。

静寂が空間を包み、“時”が再び、止まった。

 やがて、唇を離した2人は、互いに微笑み、そして見つめ合った。

 「ユウキ…当たりよ」

 ユウキは、アローラを抱き寄せた。

 「じゃあ、約束だ」

 アローラは、ユウキの胸に顔を埋めた。

 「約束なんて、していないわ。でも、もう泣かない、絶対に…。あなたの前では、微笑んでいたい」

 「じゃあ、また会えるね」

 ユウキは、アローラを強く抱きしめた。

 冷気に満たされた空間に、ほのかな温もりが灯のように点った。

 

 “氷床”と呼ばれるこの空間の周囲には、色彩豊かな無数の光ファイバーが、円を巡るように回っている。

 それは林立する青い柱の間から、垣間見え、凍結した冬の森の彼方に走る流星のようにも見えた。

 やがてアローラは、ユウキに頬を寄せた。

 「ユウキ。わたしにも約束させて。わたしは、必ず、エリスの元から、あの赤い大地に戻る。そして必ず、あなたに会うわ。だから、それまで待っていて。けして、このダイモスまで来てはだめ。もう、別れるなんて言わない。あなたの記憶から消えるなんて言わない。だから…それだけは、約束して」

 「アローラ…」

 ユウキは、アローラの黒髪に頬を寄せた。

 「俺は、いつか本物の君をこうして抱きしめたい。ここは、ナターシャの仮想空間だから。でもいつかきっと…」

 「ユウキ…」

 その時、アローラの琥珀の瞳が不安に揺れた。

 ユウキの胸の内に、確固たる何かを感じとった為である。

 「あなた…まだ…」

 アローラは、ユウキから離れ、彼を懇願するように見つめた。

 「ユウキ、お願い、約束して。わたしは、あなたが…」

 「アローラ。心配はいらない。約束は守るから。君を信じて待つ。でも、これだけは、どうしても、やらなければいけないことがあるんだ」

 ユウキは、アローラの両肩を掴んで言った。

 「ヱインだよ。彼は今、アスガルドの捕虜になっている。総統のストロハイムは、“鍵”のマスターである俺の身柄と引き替えなら、彼を解放すると言っているんだ」

 アローラは首を振った。

 「だめ!ストロハイムは、狡猾よ。あなたでは太刀打ちできないわ。ヱインは心配いらない。彼は、優秀な戦士だから、必ず、脱出して戻ってくるわ。だから、無茶しないで」

 「アローラ、大丈夫だよ。無茶はしない。ただ、ヱインは、星船の部品を調達するためにアスガルドに赴いたんだ。例え、脱出できたとしても、目的を達成しない限り、彼が戻ってくることなんてありえない。ヱインはきっと、命懸けでアスガルドと戦っている。いくら彼が優秀な戦士だからって、巨大な軍事国家が相手だ。無事では済まない。星船でダイモスに上がるかどうか以前に、彼をアスガルドから脱出させなければならない。破壊され荒らされたアルフハイムの復興も含めて、俺には、尻拭いをしなければならないことが、たくさんある。もうこれは、俺たちだけの問題では、無くなっているんだ」

 アローラは、ユウキを突き放すように離れ、そして「バカ!」と怒鳴った。

 「ユウキ、あなたは解っていない。あなたは、やらなくてもいいことを、いろいろ理由付けして、無理してでもやろうとしている。エインはあなたに頼まれて、アスガルドに赴いたかもしれないけど、彼はけして勝算のないことには手を出さないし、無理もしないわ。優秀なソルジャーである彼に、あなたが力を貸さなければならないことなんて何もない。むしろ足を引っ張るだけね。変なことを考えないで、アルフハイムでおとなしく待っていなさい!」

 アローラの剣幕に、ユウキは唖然とした。

 「それに、アルフハイムの復興ね。それこそ、あなたが気に病むなんて本末転倒だわ。アルフハイムが戦火に焼かれたのは、あなたをメディナスに匿った、ナターシャの判断が間違っていたからよ。あなたには何も責任はない。むしろ、あなたを苦しめる原因を作ったナターシャこそ、罪だわ」

 アローラの黒髪は、怒りで揺れていた。

 「ユウキ。ナターシャをここに呼んで。いや、わたしが呼ぶわ。ナターシャ!」

 アローラの声が、“氷床”に響いた。

 すると、林立する青い柱の向こうに、一筋の光がボウッと現れ、近づいてきた。

 ナターシャである。

 「アローラ、随分、ご機嫌斜めね。ユウキに嫌われたの?」

 ナターシャの火に油を注ぐような言葉に、ユウキは思わず、頭を抱えた。

 「ナターシャ、ふざけないで。わたしをからかうなんて、あなたらしくもない。あなた、わたしたちの会話も聞いていたわよね。本当は、あなたには見せたくなかったことも、あなたは見ていたのでしょ?そういう白々しい真似は、やめてちょうだい」

 アローラの剣幕に、ナターシャは苦笑いを浮かべた。

 「アローラ、勘違いしないで。わたしは、あなたたちの会話がなんて聞いていない。あなたが、わたしに心を閉ざしている間は、いくらわたしの精神世界の中でも、あなたの領域に立ち入ることなんてできないわ。だから、あなたたちがどういう会話をして、なにをしていたかなんて、窺い知ることもできない。あなたの言う、わたしに見せたくなかったことも、わたしは見ていないから、安心しなさい」

 アローラはなお、きつい眼差しをナターシャに向けて言った。

 「ナターシャ、それが嘘なら承知しないから。もういいわ。ナターシャ、わたしは決めたの。わたしは必ず、ここを脱して、ユウキの元に戻る。今までわたしは、“オージン”として、かつての力を失い、エリスやブレードに抗する術がないことを変に受け入れ、諦観していた。ヴァルハラのスラム街は、ユウキと出会うことのできた街、そしてわたしにとって、過去の大事な約束の地。ブレードとエリスは、それを知り、戦火に焼き、盾とすることで、わたしの身柄を手にした。そして力を奪う、“グレイプニール”をはめられてしまった。だから、それに抗する術はもうないと諦めていたわ」

 「過去の?大事な…約束の地?」

 ユウキは、不思議な面持ちでアローラを見つめた。

 「ユウキ、あなたには、まだ話していなかったことよ。ここを脱出して、あなたと再会したら、いずれ話すわ」

 ナターシャは、やや悲しげな瞳で、アローラを見やった。しかし、すぐに真顔に戻って、アローラの言葉を待った。

 「それまでは、ナターシャ、ユウキが変なことをしないように、メディナスに閉じ込めて!この人を絶対に、外に出してはだめ!」

 ユウキは仰天した。

 「アローラ、そんな…」

 これでは、今までと何も変わらないではないか?

 「ユウキ、わたしが信じられないの?わたしはオージンの端くれよ。こんな氷の壁だって、“グレイプニール”だって、ものの数じゃないわ。必ず、抜け出して見せる。そして必ず、あなたの元にいくから。それまでは、いい子にして待っていなさい」

 ナターシャは呆れた面持ちで、アローラを見つめた。

 「アローラ、あなたって忙しい人ね。ユウキに会うまでは、元気もなかったし、泣いてばかりいたのに…。でも、はっきり言うわ。あなたの力では、ここから脱出するのは無理よ。さらに言うなら、エリスは、この“氷床”の出入り口を永久に閉ざしてしまった。それこそ、分厚い岩盤…というより岩山で塞ぐ形でね」

 ユウキは、唖然とした。

 「岩山って?そんな…」

 「ただ1つ、この“氷床”に入る道はあるわ。それは、この上に眠る、宇宙船ユミルから、ここへ入る通路があるの。ただし、そこに至るには“ユミルの鍵”を起動させることが必須条件になる。なぜなら、宇宙船ユミルの船内に入るためには、“ユミルの鍵”が必要だから」

 「あっ!」

 ユウキは驚いて、ナターシャを見つめた。

 「そうよ、ユウキ。アローラを、ここから救出するためには…」

 ナターシャは、愕然とした様子のアローラを見つめながら、宣告した。

 「“ユミルの鍵”のマスターである、ユウキの力が必要なの」

 

                                        (つづく)

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