
「バベルの墓所」に整然と並んだ墓石の向こうに、破壊されたビルの残骸が不規則に林立している。さらにその向こうには、巨大なビル群とその中心に異様な巨大さを示すターミナルタワーがそびえたっていた。
墓所の一角には、火星の赤い地面を剥き出しもそのままに、大きな広場があった。そこにはスラム街のあちこちから人々が集まってきていた。大人から子どもまで様々な年齢の男女。その多くは低賃金の労働者、職のない浮浪者であった。中には頭が異常にふくれ上がった者、手足が異常に大きい者、目や口や耳が肥大した者…いわゆるミュータントと蔑視される異形の人の姿もあった。
都市国家という広大な磁場のコロニーが、人類を守るのに充分な機能を果たしているわけではないことを、それは示していた。スラム街には、こういった身体に異常をきたし、生身のままコロニーの外に生きる人々と変わらぬ生活を余儀なくされている人々も、大勢生活しているのである。
その広場の中心には円形の巨大な鉄の残骸がある。かつて旧ターミナルタワーを支えていた柱の一つだと言われているが、定かではない。
ただそこは今、この広場のステージの役割を担っていた。そしてそのステージの縁に一人の少女が腰掛けている。このヴァルハラでは珍しい弦楽器…ギターを抱え、その弦の調整を丹念に行っていた。この広場に集まった聴衆は、彼女の演奏が始まるのを静かに待ちわびている。
(間に合ったか)
トラックを墓地の脇に止めたユウキは、今度は失敗しないようにと携帯金庫と電磁鞭をナップサックに詰めて、ステージの方へ走った。
「ごめんよ、ごめんよ」
人混みを掻き分けながらユウキは、少しでも彼女の前に出ようとした。
その強引さがたたったか…。
「おまえ邪魔だ!」という怒鳴り声とともにひじ鉄を食らわされ、さらに蹴りを入れられる。うなり声をあげたユウキは、その勢いで前に押し出されてしまった。
「なにするんだ!」
蹴られた背中をさすりながらユウキは、後ろの人混みに向かって怒鳴る。
そして前を向いた時…。
「あっ…」
目の前には、彼女がいた。
キョトンとした表情でユウキを見ている。こんなに間近で彼女を見るのは、決して初めてではないが、今までにない近さだった。
ユウキは思わず彼女に見入った。
その少女…アローラは、ちょうど弦の調整を終えたところだった。いつものように緑色の帽子を被り、紺色の外套を羽織っている。それは旅装といっても差し支えなかった。
彼女の抱えているギターは、このヴァルハラでは、ほとんどみかけない楽器だった。
人類が火星に移住して以来、その文化のほとんどが失われ、音楽を奏でる者はごく少数であった。弾き語りが、このヴァルハラのスラム街に現れること自体、珍しいことなのだ。
彼女はどこから来て、どこに住んでいるのだろう?こんな薄汚いスラム街でなぜ弾き語りをやるのか?スラム街の人々は疑問を感じていたが、その奏でる音色に聴き入るたび、そんなことを忘れさせた。
「みなさん、今日もこんなに集まってくれてありがとう。初めての方、わたしはアローラといいます。よろしく」
アローラは澄み切った声でいつものように挨拶すると、しばらくの間ののち、静かな音律で弦を奏で始めた。
そして彼女は歌う。
星が銀河を駆け抜け この胸を永遠に宿る
生まれては消えていく 幾億の光
生きることはやさしさと 心がささやいて
夜空に凍える子どもたち 暖めてあげたい
いつの日か きっと
命開く海 輝く地平線
この空で この大地で
悲しくて 寄り添うことも出来ないから
誰かが泣いている その痛み癒したい
いつの日か きっと
連なるあの灯は 故郷の明かり
街の人たちがくれた その温もり
出会った人たちが残した その熱い心
隣にいる君と手をつなぎ 灯を守りたい
いつの日か きっと
その歌は彼女のなじみの曲だった。
聴衆から拍手が起こり、ユウキもそれにつられて手を叩いた。
「ありがとう。次は新曲です。聴いてください」
彼女の言葉は常に短い。自分の歌や曲をとにかく聴いてほしい…そういう彼女の強い意志が、その言葉からうかがえた。
そしてその弦が震えると、まるで嵐のような旋律が広場を包み込む。
一定のリズムを刻むのだが、時に小さく大きく…儚げで哀しくて、そして時に激しく心が揺さぶられるようでもあった。
彼女は歌わなかった。ただ、その旋律を聴衆の胸に刻むだけだった。
その演奏が始まり、しばらくのことである。
(…?)
脳裏にあるビジョンが、次々と飛び込んでくるのにユウキは気づいた。
最初は夢を見ているのかとも思った。彼女の演奏を聴いているうちに、眠くなってしまったか?しかしそうではなかった。
ユウキの意識はしっかりしている。その両足はしっかり赤い大地を踏みしめている。
ならこれはなんなのか?
それはアローラの演奏に合わせて、映像がフィルムのように送られてくる。
巨大な小惑星が青い星に迫るビジョン、巨大な炎に焼きつくされるビジョン。白、黒、黄色、様々な人種の人々が集まってくる。そして巨大な船を建造して、その変わり果てた星を旅立つビジョンが飛びこんでくる…青と赤と緑に彩られた星にその船は降りた。
高々と拳を天に突き出し、気勢を上げる人々…。その広大な赤い大地には街ができ、田畑が耕され、工業プラントの建造物がいくつも造られていく。街には天をつくような高層ビルがいくつも伸びていった…。
しかし人々はやがて奇形化し、その体を人工物に変えていく…。
武装した何艘もの飛行艇が現れ、街を攻撃し、やがては火の海に包まれ…。炎の底から湧き上がるような阿鼻叫喚のうめき声…そして子どもの名を呼ぶ母の叫び、母を呼ぶ子どもの叫び…。高層ビルが爆音と共に崩れ落ち、銃声の音が鳴り響き、サイボーグやアンドロイドの兵士が殺到する。悲鳴や鳴き声がこだまし、その視界が赤く鮮血に染まった…。
「ウワアー!!」
ユウキは叫び、頭を抱えながらその場所にうずくまった。
…どれほど時間が経過しただろう?
目を開けると赤い地面が見えた。頭がまだクラクラとして、立ち上げることができない。
「大丈夫?」
聞きなれた澄んだ声がユウキの耳をつく。顔を上げるとアローラが心配げな表情でユウキの顔をのぞきこんでいた。
「…」
ユウキはその場所にへたりこんだ。息が荒く、まだ落ち着いていない。額には汗が滲んでいる。
アローラはひざまずくと、ハンカチを取り出して、そっとユウキの額をぬぐおうとした。
ユウキは思わずその手を払いのけたが、すぐに後悔の念にとらわれた。
「ごめんなさい」
先に謝ったのはアローラだった。
「わたしが悪いの。あれは特殊な曲だから。でもここに集まってくれた人たちにはどうしても聞かせたくて…」
アローラはなおもハンカチを差し出している。ユウキはしばらくそれを見つめていたが、やがてそっとそのハンカチを受け取った。
「キミは…一体?」
その少女は琥珀色の目をしていた。じっとその瞳を見つめていると、吸い込まれそうになる。ユウキは思わずうつむいた。
「君は…普通の人間じゃないね。でもたぶん…サイボーグでもアンドロイドでもない…」
「…わたしが何者でも構わないわ」
アローラは立ち上がった。その声音には、ユウキの疑問に答える意志はないという確固たる気持ちが伝わってくる。
「立てる?」
「ああ」
ユウキも立ち上り、そしてハンカチを彼女に返した。
アローラは傍目からみれば、ユウキより少し年上に見える。しかし彼女は自分よりもっと年上ではるかな寿命を生きているのではないか?そんな神秘性をユウキは感じ取っていた。
いつの間にか、広場に集まっていた聴衆の姿はまばらになっていた。
どれくらいしゃがみこんでいたのだろう?時間の感覚さえない。ただ、聴衆が去った後も彼女は自分のそばにいてくれたようだ。
アローラはじっとその琥珀色の瞳でユウキの顔を見ていた。そしてポツリと言った。
「あなた、とてもつらいことがあったのね?」
「…」
ユウキは何も答えなかった。
彼女が何者かはわからない。しかし彼女は、まるで自分の心の内を見透かしているような気がする。だからあまりいい気持ちにはなれなかった。
「あなた、いつもわたしの歌を聴きにきてくれる子だね。もうあの曲はやめる。だからこれからも聴きにきて。もっといい曲を歌うから」
そう言うとアローラはギターを肩にかけ、ユウキに握手を求めた。ユウキはそれには応じず、じっとギターをみつめる。
「その楽器…ギターというのかな?とても普通の楽器じゃないね。ぼくは色々なものが視えた。それはキミが弾いたから?それとも、その楽器が特殊だから?」
アローラは目を伏せた。
「その両方よ。わたしは失われと文化と歴史を受け継ぐ者。人が火星に住む以前、地球で暮らしていた人々には、音楽や演劇や映画、武道やスポーツなど様々な文化が、今とは比べ物にならないくらいに花開いていた。わたしは音楽しかできないから、こうしてギターの弾き語りをして、失われた音楽を取り戻す活動をしているの」
「でも“あれ”は何?あれを見せることも君の活動なの?」
その疑問に答えるようにアローラは、琥珀色の瞳をまっすぐユウキに向けた。
「あれは人類の失われた歴史を伝えるものなの。でも人によって視え方がまったく違う。聴く人がどういう生き方をしてきたか…どういう感性を持っているかで、視えるものが全く違ってくる。このギターからは特殊な周波が出るの。それが脳に影響を及ぼしてあるビジョンを映し出すのだけど、全てが同じビジョンとは限らない。わたしが本当に伝えたいものが、その人に届くかどうかはその人次第。でも伝えなければならない…」
アローラは広場を見渡して溜息をついた。
「でも全ての人にビジョンが届くわけじゃない。あなたみたいに感性が豊かな人は火星には少なくなった。ほとんどの人があの曲を聴いても、ただ気持ち悪くなっただけだと思う。もうわたしがギターを弾いても誰も来ないわ」
アローラは寂しげに笑い、ユウキに別れを告げた。
「じゃあね。今日はこれでさようなら」
彼女はしばらく歩き、ふと立ち止まって、ユウキに振り返った。
「あなた、名前は?」
「ユウキ。先祖は日本人という民族らしい。君は不思議だけど、曲と歌声はすばらしいよ」
「本当?」
アローラはまるで人が変わったように、無邪気な笑顔になった。
普段はクールで無表情な彼女でもこんな顔ができるのか?そしてユウキが呆気にとられるのも構わず、引き返してその手を両手で握りしめた。
「また歌うから、いい曲を弾くから。また、ここに来てくれる?」
「ああ…もちろん」
ユウキはやや気圧されて苦笑いで答えた。ただ悪い気はしなかった。
彼女の歌や曲は好きだから、いつものように聴きにくるのはやぶさかではない。
「僕は君の音楽は大好きだから!必ず来るよ」
よほど嬉しかったのか、彼女の笑顔は輝きを増した。
「ありがとう!じゃあね、明日も待ってるから」
アローラは手を振りながら広場を去っていく。
ユウキは不思議な面持ちでアローラの後ろ姿を見送る。そしてなぜか彼女に対して、微笑ましい気持ちが芽生える自分に戸惑うのだった。
窓枠のないビルの廃墟に、穏やかな風が吹き込んでくる。
血の通った人間なら、それを心地よく感じることだろう。しかし、この廃墟をしばしのアジトとしている二人に、その感覚は無かった。
その廃墟からは、街の残骸が墓場のような不気味さで林立しているのが見える。その景色がよく見える窓の縁に男は、片膝を立てて腰掛けていた。
男がくわえている葉巻から煙が立ち昇っている。それは風によくなびいていた。
男の目はまるでアクアマリンのように青い。見つめる先は、巨大で鋭利な刃物だった。男の青い瞳を映し出すほどに磨き抜かれている。
「タバコの味なんて、今のあなたには、わからないでしょう?」
女の声がした。
黒ずくめのその女は、腕を組みながら廃墟の壁にもたれかかっていた。
青い目の男は、じっとその女を見やる。葉巻の煙だけが静かに風に溶けこんでいった。
「気分だよ。こうしているだけで、まともな体を持っていた頃の気分を味わえる…人間を捨てちまったお前は、それを忘れているのさ」
そう言うと男は、その刃物を腕に“格納”した。何事も無かったかのように右手の指は動き、握ったり開いたりを繰り返す。男は葉巻の煙を燻らせるもそのままに、じっとそれを見つめる。まるで自分の意志とは別個に動く生物を眺めているようでもあった。
「エイン…」
女はその男の名を呼んだ。
「ブレードは、もう動いている」
女の言葉は短い。
「わかっているさ」
エインはくわえていたその葉巻を握り潰し、鋭い眼で廃墟の外を睨んだ。
「ああ!わかっているさ、俺は!“火星の夜明け”の首領が迫っているっていうのに、あの気まぐれでわがままな“マスター”ときたら、俺たちの保護をまともに受けようともしないことをな!」
エインは苛立つように握りしめた葉巻を外に投げ捨てた。
「彼女は“バベルの墓所”によく現れるらしいわ」
「ああ!こっちの気も知らず、ご本人は呑気にライブで浮かれてやがる…たく、二十年ぶりに目覚めてみれば、相変わらずこれだ!」
エインは全て「投げ出したい」と言わんばかりに両腕を頭の後ろに組み、窓の縁にもたれかかる。緩やかな風が皮肉にエインの頬を伝った。
その時である。
外のスラム街を眺めていたエインは、急にその青い眼を細め、女をみやった。
「…約十人。わたしのセンサーにも引っかかったわ。おそらく光学迷彩をしていて姿はみえない…」
女は腕組みを解き、コートの両ポケットに手を突っ込む。その内側にある“トリガー”に指を引っかけ、部屋の壁際にあるドアを睨む。
「ライア、奴らの所属を識別できるか?」
エインは女の名を呼び、自らは床にしゃがんで臨戦態勢をとった。
ライアの脳内に内蔵されたセンサーが解析を急ぐ。
「携帯している武器でわかるわ。ヴァルハラ警察特殊部隊、VSAT(ヴァスト)よ」
ライアはエインより前に出て構える。そして両ポケットから、ハンドガンを出してドアに向けた。
「まともに相手にすることはないわ。わたしが引きつけるから、先に逃げて」
「…相変わらず、お前のセンサーは優秀だな」
エインはにやりと笑い後ずさる。格納したばかりの“刃”は、今は使うまでもないようだ。
そしてドアが勢いよく開け放たれた。同時にライアの2つのハンドガンが火を吹く。空気を引き裂く異様な炸裂音と共に閃光が走った。同時にエインは窓から外に飛び込む。
そこは三階だった。エインは体を丸め、そのまま受け身を取って、地面に叩きつけられる衝撃を和らげた。そしてそのまま走り去る。
ライアも後に続き、そこから飛び降りた。無数の銃弾がライアの消えた窓を空しく走った。
「窓から逃げた!追え!」
怒声が響き、階段を慌ただしく下りる音が響く。
しばらく静寂が続いた。
と、空気が揺らぎ虹色の蜃気楼が現れた。蜃気楼はやがて三人の人の姿になった。光学迷彩が解かれたのである。
三人のうち一人は女だった。その金色に輝くブロンドの髪を掻き分け、皮肉な笑みを口元に浮かべる。
「ふん…相変わらず、逃げ上手なこと」
女は、傍らの男を見やった。
「報告は?」
「…ターゲットは確認できず…追跡は失敗した模様です」
男は事務的な声で女に報告した。追跡隊から電脳通信が入ったのである。
「そうか…あの二人を捕らえるのは容易ではないな。だが、彼らのマスターがこのスラム街に出没している。どのみち、あの二人はマスターに接触をはかるだろう。そこを押さえればいい」
「ジェシカ隊長、“火星の夜明け”も動いているようです。彼らの動向も気になります」
「…放っておけばいい。わたしたちの任務は、あの二人を捕らえるか破壊するか…それ以外のことは考えるな」
女…ジェシカは冷然と言い放ち、エインとライアの消えた、その窓の先をじっと見つめていた。