
「エイン、もういいでしょう?先を急がないと」
エインとユウキのやりとりを、黙って見つめていたライアが口を開いた。
「その子に構っている暇はないわ。あなたの言う通り、この子はもう大丈夫よ。あなたも気が済んだでしょ?」
ライアはそう言うとくるりと背を向け、廃墟の出口に向かって歩き出した。
「待てよ、ライア」
エインはまだ葉巻をくわえている。そして窓の外を鷹のような眼で睨んだ。
「慌てるな」
ライアは立ち止まり、肩越しにエインをみやる。
「夜が明けてから、街の空気が変わった」
エインは葉巻を口から放し、窓からさらに首をのばした。そしてセンサー…にも似た彼の独特の感覚を働かせて“何か”を探っていた。
「あなたのセンサーは、時としてわたしのものより優秀な性能を発揮する」
ライアは無機質な口調でつぶやいた。
「ぬかせ」
エインは葉巻をにぎりつぶした。
「…テロリストどもが撤退した形跡はない。まだこの街に踏みとどまっているな。おそらく奴らとヴァルハラ政府の間で、停戦合意が行われるはずだ。その折に何か…なんらかの取引があるはず…いや必ずある。だから戦火が止んだんだ。ブレードの交渉相手はヴァルハラ政府じゃない、あいつが交渉に唯一応じる相手…」
ライアの表情がわずかに動いた。
「アローラ様が…」
「アローラ?」
アローラの名を聞いたとたん、ユウキは跳ね起きた。
そして「いたた」と傷口を押さえる。
「アローラ?ぼくの友人にアローラという名前の女の子がいます。最近、知り合ったばかりの子だけど…」
エインとライアの視線が、ほぼ同時にユウキの顔に注がれた。
「…おい、お前の知っているその女の子は、ギターを弾くか?」
「ええ。弾き語りをやっていて、スラム街では人気者なんです」
エインは思わず頭を抱えて天井を仰いだ。
「やれやれだぜ。噂は耳にしていたが…あの女(あま)は相変わらずってことだな」
「彼女の曲と歌は…すばらしいよ」
ユウキがそうつぶやくと、エインはやれやれと言わんばかりに肩を落とした。
「しかもよ、こいつアロ―ラのファンだぜ。まったくとんだアイドルを気取ってやがる。俺たちの気も知らねえでよう」
「彼女らしいわね」
ライアはまるで他人事のようにつぶやいた。
「あなたがたは…?アローラとはどういう?」
ユウキは二人の顔を見比べながら尋ねた。
「お前に話してわかる間柄じゃねえ」
エインはつっぱねるようにソッポを向いた。
「もうお前はなにも考えるな。そこで寝ていろ。俺たちは火星のあらゆる戦場を駆け抜けてきた。だから戦場で受けた傷も的確な処置ができる。おめえは腕一本持っていかれた重病患者だが、これだけ処置を施せばもう命に別状はねえ。だが安静にしてないと傷口が開くかもしれないし、高熱がでるかもしれねえ。とりあえず、もう少し体力が回復してから家に帰りな」
そしてヱインは急くようにライアを促した。
「いくぞライア。まず“火星の夜明け”の宿営地を目指すんだ。そこにアローラがいるかも知れない」
「彼女がそこにいるのならブレードもいるわ。しかも“火星の夜明け”の手練れも揃っている。それに…」
ライアはめずらしく言葉を切った。
「彼女はおそらくそこにはいない」
ヱインは睨むような視線をライアに向けている。
「…エリス」
しばらくしてヱインの口をついて出た言葉はそれだった。
その時である。
「あっ…ああ!」
ユウキの脳内に電流のようなものが走り、強烈なビジョンが流入する。
ヱインとライアはユウキの異変に気付き、思わず彼の顔を凝視した。
ユウキのそれは焦点のまるで定まらない、虚空を見つめているような瞳だった。
「アローラ…」
ユウキの脳裏に浮かんだのは、暗い闇の底に引きずり込まれていくアローラの姿だった。
そこは明るくアンティークな部屋だった。
壁には小さな枠組みの絵画がいくつかかけられ、机の花瓶には、ドライフラワーが飾りつけられている。ティーカップなどの類は、棚に整然と並べられ、奥のベッドのシーツや布団の類は、いつでも床につけるよう準備もされている。ベッドの横の蛍光ランプの傘は淡い縞模様のカジュアルなものだった。
床は板敷だが、よく磨かれ、壁際からは人口の光が洩れでていた。普通の女の子なら部屋に入った途端、大喜びでベッドに飛び込むだろう。
ブレードに拘束された彼女は、ターミナルタワーの地下深くにあるこの部屋に幽閉された。しかし、アローラにとって、この部屋は暗い牢獄のように感じられた。
人類が火星に移住するようになり、およそ五百年。アローラは超常の力をもつ人類の開放と文化芸術を担うリーダーとして創り出された。混乱期にあった人類がこの星で未来社会を展望して創造されたオージン…。
人は神というが、確かにそれに近い力はある。知覚の彼方にあらゆるものを“視る”能力と人心を操り掌握する能力、さらに失われた古代の歴史を見通せる能力まで備わっていた。そして空間さえ自由に行ききができた。
彼女の足首には、鈍いオレンジ色の光を発するリング状の物が巻かれている。ブレードはこれを“グレイプニール”と呼び、アローラの足首にはめさせた。
このリングには、彼女の超常的な力の発揮を妨げる、特殊な力が働いている。
“何もできない”
それが彼女の正直なところであった。
(エリス…こんなものを造るなんて…)
オージンの力を奪えるのは、オージンのみ。彼女はけして、万能ではなかった。
(…)
絶望という感覚は彼女にはない。しかし、一抹の寂しさが、深い胸の内に去来するのはなぜだろう?
アローラはギターを抱え、弦を奏でた。
その脳裏にはユウキの姿が浮かんでいた。
(あの子は…何かを失ってしまった。無事だろうか?今、わたしからは、あなたが見えないけれど、あなたには、わたしが在ることを知ってほしい。でも…助けに来てはだめ…あなたは無事では済まないから…)
その音色は、遙かスラム街に届いたか?
アローラの寂寥とした想いは、ユウキにも異変となって現れ始めていた。
「そんな子どもを連れてターミナルタワーにいくというの?しかもその子は怪我人よ」
ライアは呆れた声をあげた。
「仕方ないだろ。こいつはアローラの居所がわかると言っているんだ。今は、そいつに賭けるしかない」
アローラが危ない…ユウキはそう感じていた。
そして彼女がターミナルタワーにいる確信もある。それは、リアルなビジョンとしてユウキの脳裏に浮かんでくるのだ。
「…彼女はギターを弾いている」
ユウキはつぶやいた。
「それはいつものことだ」
ライアは冷然とした視線をユウキに向けた。
「それしか、彼女が助けを求める術がないんだ。彼女があのタワーにいることは間違いない。アローラの奏でる音、声はあそこから…そう伝わってくるんだ。早くしないと彼女が…」
ユウキはまるで夢遊病者のようにフラフラと立ち上がり、ターミナルタワーを見つめながら一歩二歩…と歩いたが、やがて「つっ!」と傷口を押さえて屈みこんだ。
「おい無茶するな」
エインは思わず、ユウキの背中に手を置いた。
「…エリスの玉座」
ライアはつぶやいた。
「確かに彼女がそこにいる可能性はある。ブレードはなんらかの理由でアローラと取引をした。その背後にエリスが絡んでいるのは、ほぼ間違いない。ならそこを目指すのは、最善の選択よ」
「…」
「だからと言って、怪我人を連れていく道理はない」
エインは立ち上がり、腕を組みながらライアをにらんだ。
「お前も知っているだろ。二十年前、思い知ったはずだ。ターミナルの地下深くにあるエリスの玉座に辿り着くまで、俺たちが、どれほど疲弊したか?あの時は結局、彼女を捉まえることはできなかったが…あの広大な地下迷宮でアローラの居場所を突き止めるのに、こいつを…ユウキを利用しない手はない。どのみち機械(ガルム)犬や機械(スペクター)鬼どもが、うようよいる中を彷徨う羽目になるんだ。少しでも楽ができるならそのほうが得策だろ」
「足手まといだ!」
ライアはぴしゃりと言い放った。
「あのギターが、“失われたテクノロジー”で作られているのは確かよ。あれで特殊な音波を発し、遠方の知人の脳波とシンクロさせ、情況を知らせることもできるのだろう。しかし…」
言葉を切るライアの表情には変化はない。しかしエインはじっと、彼女を見つめて彼女の言葉を待った。
「なぜその子なの?いくら友人とはいえ、助けを求めるなら、まずガーディアンであるわたしたちのはず…」
「…」
「理解できない。説明がつかない」
エインは笑った。
「こいつは驚いた。人造人間が、一丁前に嫉妬か?」
「そんな感情、今のわたしにはない。わたしの理解が及ばないと言っているだけ」
エインは溜息をついた。
「まったく、おまえという奴は…普段は高度な情報解析で、状況の把握が瞬時にできるというのに…こういう人の心の機微というのはからっきしだもんな。考えてもみろ、何百年も俺たちから、逃げ回っているあいつが、いまさら俺たちに助けを求めるかよ。彼女は俺たちとこのガキ…ユウキが接触しているのは、もう把握済みなんだよ。それでユウキを通し、間接的に俺たちを動かそうとしているのさ。あの女、一見かわいい顔をしているが、案外、女狐のようにずる賢いからな」
エインのアローラ評は辛辣だった。
「とにかく不確定要素が多すぎる。タワーを目指すのはともかく、その子を連れていくのはだめだ」
エインとライアのやり取りに苛立ったか?ユウキは立ち上がった。
「いいよ、お前たちは関係ない。俺は一人でいくから」
ユウキは居ても立ってもいられなかった。底知れない闇にとらわれ、引きずり込まれていくアローラ…そのビジョンが脳裏に焼き付いて離れない。
彼女はけして、自分に助けを求めたわけではないだろう。ただ自分に何かを伝えたくて、ギターを奏でているのだ。
ユウキは、一歩足を踏みしめるたびに走る、激痛もそのままに歩き始めた。
「まてよ」
エインが無造作にユウキの横に並んだ。
「…あっ」
ユウキは抵抗する間もなく、エインに抱えられてしまった。
「離せ!」
「そうはいかねえ」
エインはニヤリと笑う。
「アローラの場所に辿り着いたら解放してやる。それまでお前は、俺たちの捕虜だ」
「エイン」
窘めるライアを、エイン睨んだ。
「ライア。こいつが逃げようとしたら、その銃を遠慮なくぶっぱなせ」
「…」
ライアの瞳に、やや戸惑いの色が浮かんだ。
「命令だ」
「…わかったわ」
エインの二言を許さない言葉に、ライアは黙って従った。
「さあいくぞ」
エインはユウキを抱えたまま部屋の出口に向かった。ライアも後に続く。
「離せよ!逃げないから、俺は一人で歩く!」
足をばたつかせるユウキを、エインは何も言わず、そっと下ろした。
「…無理はするな。傷口が開くぞ。お前に死なれたら元も子もないからな」
「…」
ユウキは思わずエインを見上げた。
「きつくなったら、俺がおぶってやる」
エインはそう言い捨てて、また歩き出す。
そんなエインの背中を、ユウキは黙って見つめた。
建物の屋上から目にしたそれは、荒涼とした廃墟群と、その向こうに巨大にそびえるターミナルタワー、そしてそれを取り巻く高層ビル群だった。
エインたちは、スラム街の建物伝いにヴァルハラ中心街に入ることを決めた。ヴァストに捕縛されるのを防ぐためである。
「やつら、まだスラム街にいると思うか?」
エインは屋上に無造作に置かれた手摺りの残骸を、隣の建物の屋上に架けていた。通常の人間では持ち上げられない代物である。しかし、人体が人工物でできているエインには、造作もないことだった。
「わからない。あの程度の爆風、わたしたちには、どうということはないが、彼らはどうかしら?」
ライアは新しい弾丸を銃に装填している。拳銃にしては砲身が長く銃口も大きい。こんな巨大なハンドガンを普通の女性が、しかも左右片手で二丁も操ることは不可能である。
ユウキは、この二人に出会った時から、その体が人工機器でできていることを見抜いていた。商売で様々な人々と接してきた彼だからこそ判ることである。そしてそれは今、確信に変わりつつあった。
「君たちは何者?アローラとはどういう関係?」
ユウキは思い切って尋ねてみた。
手摺を架け終えたエインは、例のごとく葉巻を口にくわえ火をつけた。
「俺たちは普通の人間じゃねえ。早い話が、俺はサイボーグだ。だから葉巻をいくら吸ってもニコチンには酔わないのさ。この女は人間でもサイボーグでもない。人間を捨てて、脳を含めた全身を、人工物に変えた奇特な奴だ。いわゆる最初から機械で造られたアンドロイドとはわけが違う。ハイドロイドだ」
「ハイドロイド?そんなの聞いたことがない」
ユウキはその場に座り込んでいる。ターミナルタワーに辿り着くまで、少しでも体力を温存しておかなければ、この体ではもたない。
「当然だ。俺たちの存在なんざ、ほとんどの人間が知らない。もう300年も前の話になるが、永遠の寿命を持つオージンを守るために選ばれた戦士だけが、ハイドロイドになった。オージンの守護者、ガーディアンというやつだ。オージンとその取り巻き連中の争いで、ハイドロイドは、ほとんどいなくなっちまった。俺たちはその生き残りさ。ちなみに俺は、ハイドロイドにされかけたが逃げた」
エインは煙を吐き、気だるげにセントラルタワーの方角をみやった。
「脳だけは生身なんだ。他はほとんど人工物だがな。しかしそれでは、すぐに脳細胞が死滅して寿命が尽きてしまう。だからある一定期間が過ぎたら、俺はある場所で眠るんだ。そうやって脳細胞の死滅を遅らせて、オージンやハイドロイドと同じ刻を生きてきた。俺みたいな奴を、コールドスリーパーと呼ぶ輩もいるがな」
「エイン、喋りすぎだ」
ライアが窘めた。
しかしエインは「別に構やしない」とどこ吹く風である。
「オージン…アローラのことだね」
ユウキの問いにエインは「ああ」と気のない返事をして、葉巻の煙を燻らせた。
「よく知ってるな。彼女自身がお前に打ち明けたのか?アローラは、自分の出自について話すのを嫌う。お前よほど彼女に気に入られたんだな。だが、あいつや俺たちに関わるのは、もう今回限りにしたほうがいい。さもなくば、その残った片腕を失うだけでは、済まなくなるぞ」
エインはまた煙を吐き、手摺の架かった隣のビルの方を見やった。
「じゃあ君たちは、アローラの?」
「ああ」
エインは葉巻を捨てた。
「とどのつまり俺とライアは、あのガキのお守りというわけだ。さあ、おしゃべりは終わりだ。先を急ぐぞ」
スラム街の廃墟群は、様々な顔を持つビルの集合体である。
かつては巨大だったビルの面影を残しながら、しかし、そのほとんどが、上部構造を失っている。だから建物の屋上といっても、かつては幾重にも重なる階層の一つにすぎないものもある。そして屋上から屋上の落差も激しく、その上を伝って移動していくのは、渓谷を踏破するのにも等しい労力を要した。そして建物の老朽化の激しい場所では、常に落下や落盤の危険もあり、山のように積み上げられた瓦礫が道を塞いだ。
スラム街の裏道を知り尽くしているユウキでも、さすがに今の体では激しく体力を消耗せざるをえなかった。
そしてついに、急激な目眩と吐き気に襲われ、その場に両膝を落とした。
吐瀉物が床にぶちまけられ、なおも嘔吐が続く。
「エイン、もうこの子は限界だ。輸血も必要かもしれない」
ユウキの後ろにいたライアは、先をゆくエインを呼び止めた。
「ねえよ、そんなもん。栄養ドリンクならある。今はこれで我慢しろ」
振り返ったエインは、担いだ荷物から小さなビンを取り出しユウキに手渡す。
意識が朦朧としている。
ビンを受けとったはいいが、すぐに口に運ぶことができない。なにより今、嘔吐したばかりである。とても何かを口に入れる気にはなれなかった。
そこは建物の四階だった。窓際が大きく崩れ、外の景色がよく見える場所でもあった。
「…」
街の通りから大きな声が聞こえる。それも聴きなれた声…。
ふと外を見たユウキが目にしたのは、往来に集まる若者たち…ユウキと歳も近い少年たちが、声を張り上げる一人の少年を取り巻く光景であった。
「あ…」
その中心にいたのは、ファングだった。