
父も母も警察官だった。
共に忙しく、彼らが家に居ることは稀だった。
物心ついた時から、両親というものは家を空けて仕事に打ち込み、子どもは留守を守る…そういうものだと考えていた。だから学校から自宅に帰ると、誰もいない家に一人なのは違和感を覚えなかった。両親が用意したインスタント食品を、一人で食するのは当たり前のことで、特に寂しさを感じたことはない。兄がいたが、ジェシカが幼い頃に原因不明の病に冒され他界した。自分たちと同じ道を兄にも歩んでほしい、できれば高級官僚となって…そんな両親の兄にかけた期待を感じていたジェシカは、その時の両親の悲しみと落胆が忘れられない。その時はひどく辛かった。
だからジェシカは、警察官になった。
両親が兄にかけた期待を、自ら背負うために。
全ては警察官一家に生まれた者の宿命…その使命を果たすために。
やがて彼女は、ヴァストに入隊するため、いくつもの厳しい試験をくぐり抜け、激しい戦闘や任務に耐えきれるよう、己の肉体さえ捨てた。ヴァストは両親が入隊を望み、ついに果たすことができなかった関門であった。だからヴァストの登用試験に合格した時、ジェシカは初めて感じることができた。
自分の居場所を得たと…。
もう両親のために留守番をする必要もなく、両親の悲しむ顔も見ることもないのだ。
そして尊敬する上司や同僚など得がたい仲間にも恵まれ、どんな過酷な任務の中でも彼女は充足感を感じることができた。両親から受け継いだ勝気な性格は、時に暴走ともとれる行動を生んだが、そのほとんどを上司や仲間のフォローで事なきを得た。そんな彼女に反感を覚える同瞭もいたが、むしろ正義感に溢れた彼女に好感をもつ仲間のほうが多く、ジェシカは、伸び伸びと任務に従事することができたのだ。
何もかもが順調だった。
そう…あいつらに出会う前までは…。
ジェシカは瞳を病室の天井に向け、その苦痛に身を委ねていた。
神経がえぐられるような違和感と頭痛、めまいや吐き気…。
ベッドに横たわるジェシカを常に襲うそれらは、彼女が初めて身体の一部を、人工物に変えた時以来であった。子どもを人質に取られながらも仇敵を追い詰め、あと一歩というところで突然の爆音と高熱を帯びた突風…ミサイルが近くに着弾したと認識したのは、擬態再生センターに運び込まれてしばらく後のことであった。
どうやら部下たちも、ここに運び込まれているらしい。死者は一人もいないようだが、彼女自身でさえ、あの爆風で右足と右腕を失ったのである。おそらく五体無事な者は、一人もいないだろう。
新しい擬態の足と腕の修繕手術は、問題なく成功したが、その副作用の苦しみは筆舌に尽くしがたい。新しい機械の肢体は、首から上と臓器が生身のジェシカの体には、まだなじんでいなかった。完全に復調するには、まだしばらく時間が必要だった。
「お加減はいかがですか?」
病室のドアが開いた。姿を見せたのはマルコだった。
「この施設にくるたびに妙な気持ちになりますよ。本来、この火星の風土に抗するために、特権階級の人々は、体を人工物と化した。それが今は、軍事目的で己の肉体を人工物に変える者が増えましたからね。あなたのようにね」
「…わたしを監視するためにきたのか?」
ジェシカは毒づいた。
「滅葬もない。何を根拠に仰っているのです?」
マルコは帽子を脱ぎ、笑みを浮かべた。相変わらず慇懃だが、どこか人を食ったような態度である。
「ヴァストの上層部は、今回のわたしの行動を認めてはいないだろう。しかし、わたしの性分を、すでに彼らは把握している。わたしが治療を終えれば、また次にどういう行動を起こすのか?シミュレートしているに違いないさ。だが直接、組織の者が監視にくることも考えにくい。明確な規律違反ではないからな。そうなると…」
「あなたを助けたわたしを使えば、面倒なことにならない。そうお考えですね。やれやれ、頭の切れるお方だ。あなたは脳が生身だとおっしゃるが、本当は高度な電脳でできているんじゃないかと思う時がありますよ。でも残念ですが、それは考えすぎです。わたしは純粋に、あなたを心配して見舞いに来ているのですよ。せっかく助けても、お亡くなりになられては元も子もないですから」
マルコは慇懃な態度を崩さない。しかしその瞳には、こちらを観察しているような色合いが見てとれる。つきあいは長いのだが、どこか気を許せない空気が、この男にはあった。
「ふん」
ジェシカは鼻をならす。
「ヴァストは今、あなた一人に関わってはいられない状況です。今回の戦火がきっかけで暴徒が騒ぎ、ヴァルハラのあちこちで略奪などの犯罪が横行しています。その対応でてんてこ舞いですよ。わたしたち警備隊も同じです。現にわたしの管轄地域でも不穏な動きがありますしね」
「ではなおさら、こんな所に来ている場合じゃないな」
ジェシカはピシャリと言い放った。
「相変わらず手厳しいですな。どうやらあなたには、これ以上のごまかしは効きませんね。真実を言えば、ヴァストから、あなたの様子見を依頼されたのは事実です。ですが、あなたの拘束を頼まれたわけじゃありません。今後、あなたがどう行動しようがあなたの自由です。監視もいたしません。ただ事後報告は任務ですので、報告できる内容だけはいただきたいのです」
鉄面皮とはこの男を指して言うのだろう。まるで人を食ったような返事であった。
「内容?そんなもの適当に話を作って報告しておけ。お前なら、得意だろうが?」
「ご冗談を。わたしは任務に忠実な人間ですよ」
マルコは開いた両手を胸の前に掲げた。罪のない態度をアピールするが、どこか道化めいていて、とても可愛げのあるものではなかった。
「わたしについてくるなら好きにしろ。どうなっても後悔するな」
ジェシカは起きあがった。しかし目眩が彼女を襲い、眼の前が黒く霞むのを覚えて、思わず額に手をやった。
「もう行くのですか?その体で?彼らの追跡を続行するのですか?」
「部下たちに強要はしない。だがあいつらを野放しにするつもりもない」
強がりである。
とても任務を遂行できる体調にないことは、彼女自身が一番よく理解していた。
実のところジェシカは、眼の前にいるこの男を「捲きたい」というのが本音であった。
何も療養がここでしか出来ないというはない。自宅でもヴァストの詰め所でも、彼女の体を休める場所はいくらでもある。しかし、この「蛇」のようなしつこい男に、四六時中張り付かれては、治るものも治らない。
「随分、ご執心ですね。なぜそれほど?」
ジェシカの本音を知ってか知らずか?マルコは素朴な疑問を口にした。
「…あいつらだ。二十年前の戦争も、今回の事件も…。必ずやつらの影がある。やつらを破壊しない限り、ヴァルハラの平和と安定はありえない」
そう言うとジェシカは、マルコを押しのけ治療室を出ようとした。
「アスガルドとの戦端が開くきっかけになった、スレイプニル号事件ですね。彼らの関与は疑いようもないと聞きますが…」
マルコは帽子をかぶり直し、ジェシカを怪訝な表情で見つめている。
「そんなに急ぐ必要はありませんよ」
マルコの言葉に、ジェシカは思わず振り向いた。
「わたしの部下が、やつらを追跡しています。あなたの部下が報告してくれたことですが、どうやら子どもを人質にとっているようなのでねえ。まあ人質もとられていますし、あなたがたを、いとも容易く葬る化物たちですから、こちらは下手に手出しできませんがね。ヴァスト上層部もじきに動くでしょう。別動隊が行くか、もしくはあなたの回復を待って指令が下りるとか…」
「…」
「どのみちヴァルハラ警察は、彼らを放っておくことはしませんよ。だから今、あなたの任務は体調を整えることです。それが最優先事項ということです」
ジェシカはベッドに腰を下ろしつぶやいた。
「人質?そうか、あの子か。失念していた」
ジェシカの脳裏に、黒ずくめの女…ライアに銃口を頭に突きつけられた、少年の姿が浮かぶ。彼らと何があったのか?青い眼の男、エインに馬乗りになり拳を振り上げていたのが不思議でもある。あの歴戦の怪物を少年はねじ伏せた?とでもいうのか?
(ありえないな。しかしあの少年は一体?)
「視野が狭くなっているようですね。あなたの悪い癖だ。あなたはよくても、周囲の人間にとってはたまったものではない…」
もの思いに耽るジェシカに、マルコの言葉は辛辣だった。
「ふん」
ジェシカは鼻をならした。
「肝に銘じておくさ。なら、なおさら大人しくしておれんな。子どもの命がかかっているなら、それこそヴァストは、最優先にその子の救出に全力を上げるべきだ」
ジェシカの言葉にマルコは顔を曇らせた。普段の彼からは想像もつかない珍しい表情である。
「このヴァルハラで…たかが子ども一人の命が最優先されるなんて。あるわけがない」
マルコは声を落とした。
そんな彼の顔をジェシカは思わず凝視する。
「伝えるべきことは伝えましたよ、隊長さん。とにかくあなたは治療に専念してください。そのほうが合理的ですよ。今は間違っても、彼らの追跡はしないことです」
そう言うとマルコは再び帽子を被り直し、ジェシカに背を向けた。そしてその足どりで治療室を後にする。
治療室に残ったジェシカは、怪訝な表情で、彼の後ろ姿を見送るだけだった。
アローラとブレードを乗せたエレベーターは、ターミナルタワーの地下深くに降下している。そこには火星最大の軍事企業フェンリルの中枢施設があり、同企業最高の地位にあるエリスが鎮座する場所でもあった。
室内を照らすライトはオレンジ色だが、黒々とした壁際とコントラストをなし、不気味に光っていた。まさに鋼鉄の巨獣の腑にいるような錯覚さえ覚える。その体内深くに飲み込まれるように、エレベーターはなおも降下を続けていた。
やがてエレベーターは止まり、扉が静かに開いた。アローラの目に飛び込んできたのは、光ファイバーが無数に走り、演算機器やコンソールが幾何学的に配置された空間だった。その奥には、巨大なディスプレイが、壁際の上部に三面をなし、黒々とした画面にいくすじもの文字が、左から右へと流れているのが見える。そしてその下には白く巨大な御座…セラミックらしき白い材質の背後に、無数の導線が繋がる巨大な椅子があった。そこには一人の少女が座っている。
そこはアローラの位置からは、一段上にあった。その少女の顔は、薄暗い室内の闇に遮られ、窺い知ることはできない。
「久し振りね、姉さん。以前お会いしたのは百年も昔のことかしら?」
少女は口を開いた。その口調には嘲りの色がみえる。
「エリス」
アローラはその少女の名を呼んだ。
「…相変わらず、ここに引き籠っているのね。たまには、わたしのように外の世界の空気を存分に吸ったらいいのに」
アローラは、皮肉めいた言葉をエリスに返した。
「ご心配なく。先の戦争で、以前の場所から引っ越しをしているの。その時に充分、火星の空気を味わったわ。でもおかしいわね、アローラ。外だろうと内だろうとわたしたちオージンには関係ないことでしょ?火星の風を受け、あらゆる場所を旅するオージン…やはりあなたは特殊な存在だわ」
薄暗く不気味な光が明滅するこの部屋には、「ブーン…」というファンが回るような低い音が鳴っている。それはこの部屋にある様々な器機が、休むことなく動いていることを示していた。
「用件は?」
アローラの声は極めて静かだった。
エリスは「フフ」と笑った。
と、エリスの目の前に立体式のコンソールが、オレンジ色の光を帯びて現れた。指を少し動かしてキーに触れると、頭上のディスプレイが起動する。
そこに映し出されたものを見て、アローラは思わず目を見開いた。
それは朱色に彩られた、巨大な構造物の二次元画像だった。無数のバーニアが側面に並び、その後部には一際巨大なものが二基。その造りは、現在の火星の技術体系には見られないものであった。
「やはり知っているのね。そう顔に書いてあるわよ、姉さん。あなた本当にオージンかしら?こんな時、少なくともわたしやナターシャ姉さんなら、表情を変えることはないのに」
アローラとエリスの間に赤い光が点滅し、やがてディスプレイに映し出された「それ」が立体画像となって現れた。
それはその場に居合わせた三人に、構造物の細部まで見せるようゆっくりと回転する。まるでアローラに当てつけるかのような、エリスの仕打ちであった。
「わたしは突き止めたのよ、アローラ。アーカイブを探ってね。われわれオージンを創造した旧世界の人間どもは、この巨大宇宙船ユミルを封印する鍵を作った。わたしはそれをずっと探し求めていた…でもまさか、あなたが鍵だったなんて…盲点だったわ」
アローラは無言である。
「図星ね。心を閉ざしても無駄よ。わたしには、あなたの胸の内は解ったから。あなたが鍵をよこさなければ、また戦火を広げるだけ。大事な友だちがいるのでしょ?」
エリスは、勝ち誇ったように高笑した。
「あなたという人は!」
アローラの瞳に、激情の炎が揺らいだ。
「怒りを覚えたとは。オージンに感情があるなんて傑作だわ。長い年月を人間と接してきた結果かしら。姉さん、わたしたちは同じじゃない。それぞれに役割が違う。その違いが数百年に及ぶ闘いとそして戦乱を呼んだ。皮肉なことね」
エリスはなおもアローラを嘲った。
「わたしの役割は、この星の経済を発展させること。資源の少ないこの星では、いずれその発展が行き詰まるのは目に見えている。それは避けて通れないわ。だから木星の資源がどうしても必要なの。新たな火星の夜明けを迎えるために協力してちょうだい」
皮肉を込めアローラを嘲うエリスの瞳が、妖しく光った。
そんな彼女を睨むアローラを尻目に、そばに控えていたブレードがエリスの前に進み出た。
「エリス様、ダイモスへ向かう星船の準備には、まだ時間がかかります」
「そうか。では二時間待とう。ダイモスには木星に行けるユミルの他に、地球へ航行できる星船もある。お前には、姉さんを地球に連れていってもらわなければならない」
アローラは、射抜くような視線で今度はブレードをにらんだ。
「あなたの部下たちが、この光景を見たらどう思うのかしら?ヴァルハラの支配者とそれに敵対しているはずのテロ組織の首領。この火星でもまだほんの一部の人しか、あなた方の蜜密な関係を知らない。わたしは、それを今まで散々暴き立ててきた。なのに…まだわたしの力が足りないということなのね…」
アローラは無念そうに、視線を落とした。
「所詮、あなたには、その粗末なギターを弾くことしか能力が与えられてないのよ。それ以上は高望みというものだわ」
エリスはまた高笑した。
そしてブレードが手を伸ばし、アローラの腕を掴んだ。
「さあ参りましょう。木星と地球、二つの星に行ける宇宙(そら)のターミナルへ」
夜のヴァルハラ中心街は、昼とはまるで違う顔を見せていた。
モノレールが円を描くように高層ビル街の様々な階層を行き来し、浮遊する飛行艇が黒々とした巨体で空間を行き交う。弓なりに周囲を遮断する防音壁の内側は、車両が高速で走る都市高速道である。それは空気を切り裂く無数の音と、光の河川のような光跡に満ちていた。見上げれば、ターミナルタワーが夜の闇に無数の点滅する光を放ち、黒々とそびえ立っている。
エインたちの乗る車両は、ひたすらターミナルタワーを目指し、高速道を走っていた。磁力で浮上し、ユウキのホバートラックとは比べモノにならない速さで走るそれは、盗難したものであった。
うしろの座席では、ユウキが寝息を立てて眠っている。
今ごろは、この車両の持ち主が盗難届を出しているころだが、ヱインがいとも容易く認証ナンバーを変えたので、少なくとも盗難で追われることはない。ただこの間の戦火で犯罪が急増したため、検問は到る所で実施しされている。車両は問題ないとしても、風体はどうか?ヴァストに追われる彼らとしては、自らのデータを書き換えることはもちろん、その風体もある程度変える必要があった。
エインとライアは、顔の皮膚の弾力、髪の色素を変えることが可能だった。その見た目はまさに別人である。
運転席でハンドルを握るライアの顔には、無数の痘痕が浮かんでいた。その輪郭もふっくらとしていて、髪の色も金色に変わっていた。
助手席のエインの顔は、げっそりと頬がこけ髪の毛は銀髪だった。見た目は初老の男と言っても差し支えない。この二人が指名手配犯だとは誰も気づかないだろう。
ただその姿形を変化させ継続していくには、膨大なエネルギーを消費するため、長い時間このままというわけにはいかない。せめて検問を突破しターミナルタワーに入るまでは、この風体を持続させていく必要があった。
彼らが変化させることを可能にするものはそれだけではない。例えば飛行艇などに搭乗する際に認証される個人データなどである。
エインとライアは、様々な顔とデータを変えながら幾多の戦場を生き抜き、ヴァストなどの特殊警察の追跡を逃れてきたのである。
しかしそんな彼らにも、どうしても変えることが不可能なものがあった。
“製造ナンバー”である。
「この腕も足も…“製造ナンバー”は本当にやっかいだ。分子レベルでデータ化されているから、俺たちの力ではどうしようもない。検問で製造ナンバーの認証をやっていなければいいがな」
「ヴァストがどこまでわたしたちの追跡に、時間と労力を費やしているかによるわね」
顔は変わってもライアの分析は冷静である。
「おまけにこいつだ。親はいねえらしいが、誘拐している事実には変わりがねえ。ヴァストの連中は、俺たちが一緒の場所を目撃しているから、間違いなく誘拐人質事件として捉えるだろう」
「エイン。だから言った。この子は放っておけと」
ライアの言葉にエインは投げやりな態度で頭の後ろに手を組み、シートにもたれかかった。
「いまさら…ここまで来たら、アローラに会わせてもらうまで、人質にでも何にでもなってもらうさ。逆にこいつがいれば、奴らもヘタに俺たちには、手出しができないだろうしな」
「…どうかしら」
その時である!
ライアのセンサーが危険を察知して、強制的に彼女の手を動かした。ハンドルを忙しく動かし車両を横にすべらせる。爆音がひびき、道路上に破片と煙が舞いあがった。
「ライア!銃を貸せ!」
そう叫ぶが早いか、エインはライアのポケットから素早く銃を取り出し、躊躇なく後方に向けて撃つ。一代の車両が制御を失い、防音壁に激突して燃え上がった。その後方には、同型の車両が5台ほど、距離を保ちながら追跡してくるのが見える。
その車両のフロントには、狼のような獣のデザインが描かれていた。それを目にしてエインは叫んだ。
「スぺクターだ!」
追跡部隊は、次々と砲弾を撃ち放ってくる。そのたびにライアは、ハンドルを右へ左へと回す。弾丸が空を切り、セラミック製の道路が破片をまき散らす。ターミナルタワーまではまだ遠い。しかしこのままターミナルに駆け込んでも、そこは敵地のど真ん中でもある。今の状況では包囲されるのは目に見えていた。
「くそ!なぜこんな所にスぺクターが!」
エインは悪態をついた。
「…エリス」
ライアの言葉は短かった。
「彼女には、わたしたちの動向など筒抜けよ。それだけの力が彼女にはある。御座に近づく前に手を打ってきた」
スぺクターはヴァルハラ最大の軍事企業フェンリルの直属であり、アンドロイドで構成された特殊部隊である。本来は警備部隊として地下にあるフェンリルの施設を、警護する役割をもつ。地獄の幽鬼の名を冠する彼らは、エリス自ら設計開発したとも言われ、軍需産業が初めて量産化に成功したアンドロイドであった。また彼らの運用には、データ収集を兼ねる目的もあり、その戦闘データは、対テロ特殊部隊ワルキューレに転用されているとも言われている。
軍事産業フェンリルは、ヴァルハラの女神エリスを頂点とする巨大な組織でもある。その尖兵たるスぺクターは、彼女の命令を遂行する実践部隊と言っても差し支えない。今、エインらを追い込んでいる彼らが、エリスの意向で攻撃をしかけているのは、火を見るより明らかだった。
「ちっ!エリスめ。だがこれではっきりしたな!アローラは間違いなくあそこにいる」
エインは銃を撃ちながら、背後にそびえたつターミナルタワーを、その脳裏に浮かべた。
スぺクターたちは、攻撃の手を休めななかった。ロケット弾がエインのすぐ横をかすめ、前方で着弾した。ライアは忙しくハンドルを切り、粉塵や爆風をかわす。エインは「うわっ」と叫び、座席にドサッと腰を落とした。
「あぶねえだろ!」
「やつらに言え!」
その時、車両の後部をロケット弾がかすめ、機体を揺らした。
「くっ!」
ライアはハンドルをさばききれない。その衝撃でユウキは目を覚ました。次の瞬間、車両は防音壁に激突し、その衝撃と同時にスピンを始める。
「うわああ!」
叫ぶユウキをエインはかばい、車両の回転が収まるのを待った。やがて車両が動きを止めると、スぺクターたちがその前方を塞いだ。銃を構えたアンドロイドたちが、次々と車両を降りて姿を現す。その黒々とした機体は、まさに地獄からの使者である。そんな禍々しい彼らに、エインたちは完全に包囲されてしまった。
エインは油断なく外の様子に眼を光らせ、ライアは弾丸を装填して銃を構えた。
そんな二人の緊張感をよそに、ユウキは驚いた顔で目を見開いている。
「…あんたたち?だれだ?」
ユウキが驚くのも無理はなかった。しかしエインは、それどころではないと言わんばかりに邪険な言葉を返した。
「ああ?面倒くせえことを聞くな。人間、顔が変わったって中身が同じなら、どうでもいいんだよ」
声はエインのままである。ユウキはやや安堵した。
「…そうか。でも…ブサイクだ」
「うるせえな。じゃあ元に戻すぞ」
エインの顔が、液体のように形状を変える。
ユウキは驚く様子もない。
もうこの二人が、普通ではないことを充分に思い知らされている。いまさら追求するのも面倒なことであった。
「そちらのほうがいい。見慣れているから」
ユウキはエインの顔を見つめ、ただそうつぶやくだけだった。
「気の利かねえガキだ。嘘でもこっちのほうが色男だとか言えよ!」
「エイン」
ライアが窘めた。彼女もいつの間にか顔をもとに戻している。
「車両を降りろ」
外では、スぺクターの人口的で無機質な声が響く。
エインは、青い目を爛々と輝かせながら、防音壁を覆う透明の上部分を見据えている。
そしてそこを指さしてライアにささやいた。
「ライアあそこだ」
それは、戦時にライフラインの寸断を防ぐため、防弾ガラスに匹敵する強度をもっている。しかし、ライアの特殊な銃なら、貫けないことはない。しかし円状に反ったセラミック製の防音壁を、弾丸を撃ちながら登るのは容易なことではなかった。
「一か八か…ガラス部分に銃を撃ち込みながら突っ込むぞ。そこを破壊して外に逃れる。俺たちならやれるさ」
「…!何を…やるって!?」
ユウキは思わず目を白黒させた。
「お前は何も心配せず、俺の背中にくっついていろ」
そう言ってユウキを背負うエインに、ライアの白く鋭い視線が刺さった。
「エイン。この期に及んでまだその子どもを連れていく気か?」
「ここまできたら、最後までつき合ってもらうさ」
そう言ってエインはユウキを担ぎ上げた。まるで子ども扱いをするエインにユウキはやや反感を覚え、足をばたつかせた。
「離せよ!別につき合う気はない。俺はアローラを助けにいくだけだ」
「そういうことだ。行くぞライア!」
エインの行動は早い。
車両のドアを蹴った彼は、そのまま防音壁に向かい走り出した。
ライアも後に続く。疾風のように駆けるエインとライアに、アンドロイドの反応がやや遅れた。エインは腕を剣に変化させると、スぺクターを一人二人と斬り伏せる。潤滑油が鮮血のように飛び散り、その胴体が真っ二つに切り裂かれる。エインは反り返った防音壁に向かい、ただひたすら駆けた。
後ろでは轟音が響き、防音壁の上部ガラスにひびが入った。それはライアが銃を放った音であった。しかしまだ穴を開けるにはいたらない。休む間もなくライアは撃ち続ける。
「間に合え!」
エインの叫びが通じたか?
そのガラスはガシャーン!と音を立て破片を飛び散らせた。スぺクターたちの銃撃も手伝ってか、二人の通れる穴がきれいにできた。エインとライアは素早くそこに足をかける。
そしてそのまま夜の闇に飛んだ。下はネオン輝くヴァルハラの中心街であった。
「うわあ!」
ユウキの叫び声が響きわたる。そして三人の影は、そのまま光の海に消えていった。