
火星の冷えた夜空には星々が瞬き、遙かに望む地平線の果てには、黒々とした山脈が連なる。大地は闇に包まれ、森も海も農地も区別がつかない。VTOL機から望むその夜の景色は、火星が赤い大地であった頃と変わらないのであろう。
振り返れば、ヴァルハラの夜景がターミナルタワーを中心に、色とりどりの色彩を放ち、煌々と輝いている。ブレードやスペクターなど、エリスの配下からの追跡を逃れるために、一旦はヴァルハラを離れたのだ。
操縦席には、一台のロボットが端末のついたアームを伸ばし、機器に差し込んで機体を動かしていた。胴長で銀色のボディがまぶしく、頭と首元の区別はつかない。やや型落ちはするが、エインの信頼には充分に応えることのできる操縦用のロボットだった。
エインの携帯用通信機一つで遠隔からの操作が可能である。ヴァルハラに入る前、VTOL機とともに、都市から数十キロ離れた山岳地帯に、事前に待機させていた。
家庭用のロボットとは違い、喋ることはできないが、近々そういった機能も改造して付与しようかとエインは考えていた。
(ゴクロウサマデス)
と、少しでもよかった。気の利いた言葉の一つでも発してくれれば、潤いもあるというものである。
「エイン、これからどうするの?」
ライアは座席の後ろに佇んでいた。
操縦席の隣にはエインの座る補助席があり、その後ろにも席はあるのだが、そこは瀕死のユウキが横たわっていた。必然的にライアは座席の後部に立つことになったのである。
「こいつがもう限界だ。どこでもいい、病院に担ぎ込まなきゃな」
「ヴァルハラには戻れない。ヴァストもわたしたちを血眼で捜しているわ」
ライアの声は機械的だった。
「お前って奴は、女言葉使っても、ちっとも女らしく見えねえな」
エインはぼやいた。
「むしろ都合がいいんじゃねえか?そいつらに会ったら、このガキ押しつけて、おさらばできるってもんだ。お前の望み通りにもなるし、お荷物も減る。一石二鳥だろうが」
そういうとエインは例の如く、葉巻を取り出し、火をつけた。狭い運転席が煙で満たされても迷惑する人間は一人もいない。
「それはできない」
ライアの意外な言葉にエインは思わず、葉巻を落とした。
「あ?どういうことだ?」
ライアは腕を組み、エインを見据えた。
「この子は“鍵”のマスターに選ばれたのよ」
エインは言葉を失った。
「アローラ様のギターをこの子が受け取った時、ナターシャ様の信号がこれに届いた」
ユウキの傍らには、アローラのギターが横倒しに置かれている。エインは注意深くそれを見つめ、エネルギー反応を確かめるべく瞳孔を開いた。
エインの瞳が青い光を放ち、眼球の中に内蔵された解析機が忙しく動く。
「アローラの生体エネルギー…だと?」
エインはつぶやいた。
「ユウキと互換しているな。信号パターンも変わっていやがる。ユウキに合わせたのか…うん?」
エインはユウキの変化に気づいた。先ほどまで蒼白だった顔が、心なしか血の気が戻ってきているように感じたのである。
「“鍵”はアローラ様の膨大な生体エネルギーを蓄えている。マスターとなったこの子に合わせ、信号パターンを変えたと同時にエネルギーの互換も生じた。今、この子には“鍵”の生体エネルギーが流入している…」
ライアの的確な状況分析に、エインが異論を唱える余地はなかった。
「こいつ、助かるな…」
エインはユウキの顔をみつめたままだった。
「だが…どういうことなんだ?」
「…わからない」
ライアは組んだ腕をほどいた。
「ナターシャ様の意志としか言いようがないわ。“鍵”のマスターを変える力は彼女しか持っていない。この子をマスターにした理由は直接、彼女に尋ねるしかない」
エインはギターの柄の方を持ち上げ、しげしげとそれをみやった。
「こいつとセットというのなら、ユウキの身柄は、ヘタなやつらに渡せないということか…」
エインは前に向き直り、前方に広がる黒々とした空を睨んだ。
「行先は決まりだな、ライア。アルフハイムに戻るぞ」
VTOL機は金属音を響かせ、火星の夜空をひたすら駆け抜けていった。
“火星の夜明け”を率いるようになってから、二十年以上は経過していた。
“火星の夜明け”はイスラム原理主義という旧世界の宗教的思想を掲げていた。しかし
その実態はイスラム教の教義とは無縁である。ブレード本人もイスラムの教えは表面的なことしか知識になかった。貧困に苦しむ者を取り込み、勢力を拡大してきた“火星の夜明け”は今、火星最大の勢力を誇るテロ組織として成長した。各都市国家でテロを繰り返し各国の敵対者を装っているが、その実、軍産複合体とは蜜々の関係であった。軍産複合体を束ねるのは、ヴァルハラの女神と呼ばれるエリスである。“火星の夜明け”は彼女の仕掛ける都市国家間戦争をコントロールするための実行部隊でもあった。
そのことは、“火星の夜明け”に参加する多くの若者は知らない。
戦闘で勇敢に戦って死ねば「アラーの思し召しで楽園に行ける」と若者たちを教育して
きた。彼らは「アッラーフアクバル」もしくは「アッラーは偉大なり」と叫び、特攻し
て殉教していく。
「アラーの名のもとに殉教すれば“喜びの野”に行ける。“喜びの野”では、よりどりみど
りの乙女を抱くができ、溢れるほどの美酒が飲める」そう教え込んできた。
だから死を恐れない兵士がほとんどだった。
そして“火星の夜明け”は軍産と密接につながっているため、政府軍にも劣らない兵器
を保持している。その資金源も軍産や資源産業から流れていた。
すべては火星経済を司る“ヴァルハラの女神”エリスのため…。
火星経済を戦争景気で潤し、この星の経済活動を未来永劫持続させるため…。
時には、名を変え組織を変え…そして宗教さえ変えた。
“火星の夜明け”結成以前には“ソード”と名乗り“火星十字軍”なるテロ組織を率いていた。“火星の夜明け”がイスラム過激派系であるのに対して“火星十字軍”は急進的キリスト教徒で組織されたものであった。
しかし“火星十字軍”の活動はあまりに過激だった。
火星全域に勢力を拡大し、時には1つの都市国家でさえその勢力下に置いた。そして制圧した地域の住民に過酷な支配体制を敷き、逆らう者は女や子どもの区別なく虐殺した。
時には公開処刑さえ行い、恐怖で人々を治めた。
特に理由があったわけではない。ただ、戦乱を起こすことさえできれば、手段を選ばなかっただけである。またエリスの意向も強く働いた。
(恐怖が火星を覆う…その時、姉さんたちがどう動くのか、見物だわ…)
そう言って彼女は不気味に笑った。
しかし“火星十字軍”の過剰なまでの戦線拡大は、バラバラだった都市国家を結束させた。ミッドガルド、アスガルドを中心に都市国家が連合軍を結成した。連合軍の攻撃は熾烈を極め、各地の拠点は次々に空爆にさらされた。
しかし“火星十字軍”の戦士は勇敢に、そして不屈に戦った。
(これは聖戦である!)
ブレードは、火星各地から集めた若者たちをそのように教育し…いや洗脳したことにより、次々とその若い命が散っていった。しかし、組織が壊滅することはなかった。
火星全土に巧妙に敷かれた貧困と格差を生む体制は、怨嗟に満ちた若者たちを次々に戦士へと変える。だから兵の補給に困ることなどなかったのである。
そう、司令塔である己が健在である限り…その憎しみを生み続け、途絶えることのない戦乱の連鎖。このスパイラルを止めるものなど何もなかった。何者も止めることなど、できるはずがなかった。
奴らが立ちはだかるまでは…。
その人工知能の裏側にビジョンとして浮かぶ、彼らとの戦い…。それがフラッシュバックされるたび、忌々しくも止めようもない増悪に支配される。それは人工生命体であるはずのブレードが内に持つ、仮りそめの感情からわき起こるものであった。
奴らは滅ぼさなければならない!
そして二度と地獄の底から蘇らぬよう、完膚なきまでに殲滅せねばならない!
ブレードの妖しく光る緋色の瞳が、前方に立ち塞がるターミナルタワーの警備兵たちを見据える。
そこはターミナルタワー最上部のすぐ真下、炎と冷気が混在する貨物室。数分前、ブレードが憎き仇敵と刃を交えた空間であった。そこに異変に気づき駆けつけた、ターミナルタワーの警備兵が殺到してきているのである。
「止まれ!手を挙げるんだ!」
無数に向けられる銃口が、無機質な敵意とともにブレードを捉える。
ブレードはそこが無人の野でもあるかのように、ただ一歩二歩…と前進する。そして無数の銃口が火を吹いても、彼は止まらなかった。
そしてニヤリと不気味な笑みが浮かんだ瞬間!
その場は吹き上がる鮮血にまみれ、赤色に染まる地獄と化した。無数の首が飛び、臓腑が生き物のように跳ねる。
どす黒い液体を被り、禍々しさを増したその顔は、不気味に輝く赤い光とともに、はるか上空に消えた仇敵どもへの憎悪に満ちていた。
(ヱイン…そしてライア。待っていろ、いずれ貴様らにふさわしい地獄をみせてやる!)
「この子に間違いないないな」
眼の前のディスプレイに映し出された少年の顔を見て、ジェシカは大きくうなずいた。
「はい、間違いありません」
少年の顔の横には、文字がズラリと並んでいる。
「ユウキ・スドウ。日系。年齢十三歳。マンチェスター通りに在住。父はコウジ。母はユリ。共に日系。野菜の卸売りを営んでいた父コウジの家業を引き継ぐ。市民税の滞納六ヶ月…うん?セントラルパーク銃乱射事件の生き残りか。父コウジと母ユリをその時に亡くしている…以後、イスラム教系の施設に引き取られ11歳で独立。現在はヨツンへイム近郊の農場主との取引で、生計を営んでいる…」
淡々とディスプレイ上の文字を読み上げるリーの傍らで、ジェシカの眉がピクリと動いた。
「セントラルパークの?あの時、わたしは現場に駆けつけていました。テロの実行犯は同僚たちがみな射殺しましたが…」
ジェシカの脳裏にその時の光景がまざまざと蘇る。累々と横たわる死体。血だまりと血の川が流れ赤く染まった公園の小道…その地獄絵図の中で屍を揺さぶり、小さい少年は泣いていた。
「事件の生存者に幼い少年が一人いたな。そうか、この子が…」
リーは眼鏡の奥に両眼を鋭く細めながらディスプレイを睨んでいる。
「あの時、その少年を保護したのはわたしです」
感情を表に出さなかったが、それでもジェシカの胸を締め付るような痛みが走った。人工の身体になっても、人としての感情が失われていないことに胸をなで下ろす一方で、不思議な気持ちにもなる。そして「人であることを捨てたはずなのに」と恨めしくも思った。
「ほう」
リーはジェシカの顔をみやった。
「縁があるものだな」
リーはコンソールを動かし、データをジェシカの携帯端末に転送させた。
「片側の眼球をカメラにしたことが役だったな。そのデータをこうして照合することもできるし、非常に便利な代物だ。局長の職務としてヴァストのメンバーに奨励はしても、己の身体を失う選択をすることになる。だから強制はできなかったが、お前は選んだ。善し悪しは別にして、その判断がこうして結実したわけだ」
「もとより身体を擬体化して強化し、テロに対処することを旨とした組織の人間です。手足を機械にしているのに、いまさら眼球の一つや二つ…」
ジェシカは携帯端末を首の後ろの位置に戻した。これで少年のデータは、ジェシカが意識して呼び出せば、自然と脳裏に展開するのだ。ジェシカの左の眼球に仕込まれた映像データもこの端末に蓄えられている。ヱインとライアに遭遇した二日前、人質となったと思われる少年を見たままの映像が、情報システム管理センターで再現された。そしてその顔の特徴から、ヴァルハラ市民のデータと照合され、その特定に至ったのだ。
ジェシカとヴァスト局長リー・ウェイが、ディスプレイやコンソールと睨みあっているのは、ヴァスト管理下にある情報システム管理センターの資料室だった。
しかしそこで出た結果は、因果というものを感じずにはいられないものであった。
「彼らは、確実にこの少年を人質にとっています。彼がヴァルハラ市民というのなら、なおのこと、その救出はわれらヴァストの任務です。聞くところによると、昨夜、都市高速で不審な車両とそれを追うワルキューレ部隊の戦闘があったとか。子どもの姿も目撃されているようです」
ジェシカは直立不動した。
「局長の指示を仰ぎます」
リーは腕を組み、ジェシカをみやった。
「彼らを追ったのはワルキューレではない。フェンリルの飼い犬スペクターだ」
「…?」
「その件に関しては情報操作がされているのだよ。本来は軍産の警備組織であるはずのアンドロイド部隊が、専守防衛ではなく先制攻撃に近い行動をとった。それを隠匿するためにだ。スぺクターの改造種は、様々な企業で警備兵として採用されているからな。その雛形たる同機種が暴走したと解釈されれば、フェンリルの利益にも関わってくる。そしてヴァルハラの象徴たる女神の威光にも影がさす…」
「局長!」
ジェシカは思わず声を上げた。
「滅多なことは…」
「構わんさ」
リーはそう言い捨てると、ジェシカから視線をはずした。
「わたしの指示を仰ぐと君は言ったが…君はどうしたいのかね?」
リーの意図する所を掴みかね、ジェシカは訝しげにリーの顔を見返した。
リーはジェシカと視線を合わそうとはしなかった。
「昨夜、ターミナルタワー最上階付近で、戦闘があったそうだ」
リーの唐突な言葉に、ジェシカは思わず眉を動かした。
「ターミナルタワーの警備兵が軒並み無惨に殺された。経緯は不明だが、おそらくは“火星の夜明け”が関係していることは間違いない。そして君が追い続ける彼らも…。政府は非公式にしているが、時を前後してターミナルタワーから星船が発射されている。星船を動かすことができるのは、このヴァルハラでただ一人…」
「…」
沈黙が流れた。
「局長。今、このヴァルハラで何が起きているというのですか?」
リーは、ややうつむきになり眼をふせた。そして溜息をつきつぶやいた。
「始まったのだ。また神々の戦争が…」
そしてまたコンソールを動かし、一枚の画像をディスプレイに展開した。
そこに映っていたのは、一機のオートジャイロだった。
「これは?」
「昨夜の事件の折、ターミナルタワーから飛び立ったものだ」
機種、速度、エネルギー反応、進路等、様々なデータが画面に現れる。ジェシカはそれを食い入るように見つめた。
「機体内部から微量だが、特異なエネルギー反応が検出されている。この機体を動かす電動周波とは別種のものだ。各都市国家の磁場を生成するユグ、そこから発するエネルギーの特徴にも似ている。すなわち“失われたテクノロジー”によるもの…」
ジェシカは思わず眼を見開き、リーの顔をみやった。
「君が執着する件の連中かもしれない。例の少年もまた、これに乗っている可能性も高い…」
ディスプレイの画面が切り替わり、今度はオートジャイロの進路シミュレーションが映しだされた。
「この航空機に彼らが乗っているとすれば、彼らが向かう先は、アルフハイムである可能性は極めて高い。この都市国家は間違いなく彼らに縁がある。君は、二十年前のスレイプニル号事件を皮切りにアルフハイムに何度も足を運んでいるな。その調査権に関しては、いまだに有効だ。今回もヴァルハラが焦土と化した原因のひとつに、彼らが絡んでいる可能性をつきつければ、アルフハイム側もこちらの調査を受け入れざるを得まい」
ジェシカは、胸の内に沸き上がる高揚感を自覚した。
「局長、その任をぜひ、わたしにお命じください」
「無論だ、アルフハイムの事情に精通する君をおいて他に適任者などいない。しかし条件がある」
リーの言葉にジェシカは首をかしげた。
「条件?」
「君は無茶をしすぎる嫌いがある。ここ数年、君が調査に赴く度に、アルフハイムから苦情が出るからな」
リーは、ややきつい眼差しでジェシカを睨んだ。
「だから今回はお目付け役を同行してもらう。君が問題を起こさぬよう、また問題を起こした時、すぐに連絡を入れてくれる者をな」
ジェシカはやや恥じ入り、目を閉じてうつむいた。
「それに異論があるなら、別の者にやってもらう」
「いえ、異論はありません」
ジェシカは承諾する以外になかった。
「よろしい。ジェシカ・ロンド。明日よりアルフハイム調査の任につけ。目標はあくまでユウキ・スドウの身柄の確保だ。彼らの捕縛、もしくは射殺など二の次だ。アルフハイムには、政府高官を通して今日中に通知しておく。くれぐれも他国での任務であることを忘れるな」
「了解!」
ジェシカは直立不動で敬礼し、その任を受けた。
彼女の瞳に灯のようなものが、確かな輝きとなって宿る。
「今度こそ奴らは逃しません。早速、準備を整えます。では失礼」
「…ジェシカ」
踵を返したジェシカを、リーが呼び止めた。
「何か?」
ジェシカは怪訝な表情で振り向いた。
リーは嘆息した。
「彼らとの闘いで実に多くの仲間を失った。君は生き残った数少ない者の一人だ。同時に散った仲間への想いも深いだろう。特に君を育てた彼に対しては…」
「局長?」
リーが言わんとしていることを察してジェシカは言った。
「局長。わたしは任務を終え、必ずヴァルハラに戻ってきます。それだけはお約束します。必ず…」
そう言い残しジェシカは、資料室を後にした。