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 ユウキの目の前には、暗黒が広がっている。

 しかしその遥か先には、無数の煌めきが闇に散りばめられ、その空間がとてつもなく広大であることが確認できた。

 前後左右そして上下…その感覚がない。ふわりと浮いているようで火星の低重力地帯(ほとんどの地表がそうだが)とは比べものにならない。そしてどこを向いても小さく無数の火の玉が闇に浮かんでいる。地面らしきものはどこにもなかった。

 ユウキはそこが、星空の彼方、宇宙空間であることを認識した。

 無数の火の玉の煌めきは星々である。それが大河となって暗黒空間を滔々と流れており、目の前の無数の煌めきなど、その一部に過ぎない。それを理解するのには、しばしの時間を要した。

 やがてユウキの目の前には、巨大な岩石…衛星が迫るのが見えた。

 ユウキは衛星の上空を滑空し、いくつもの岩山、眼下に広がる大小様々なクレーター、無数の岩が転がる荒涼とした大地を通り過ぎていった。

 そして、禍々しい鉄塔の立ち並ぶ巨大な施設を目の前にした時…ユウキはそこに巨大なエネルギーの塊が二つ、その最も高く巨大な鉄塔の中にあるのを認識した。そしてその内の一つはユウキが大事にしたいと思う人…両親を亡くして以来、今、一番逢いたいと願うその人に違いなかった。

 「アローラ!」

 ユウキはその名を呼んだ。

 しかし…!

 そこにもう一つのエネルギー体が、ユウキの進路を遮った。

 やがてそれが人の形に姿を変えた。

 その者は…その姿型は紛れもなくアローラであった。

 しかしユウキは、それがアローラとはまるで異質の、性格が異なる者であることを認識した。

 その者は不気味な笑みを浮かべている。それはユウキにとって、彼女がスラム街に歌姫として現れて以来、見たことのない異様な顔だった。

あのアローラがこんな顔をするのか?

ユウキはその者が、アローラとは似ても似つかぬ別の存在であることが解ってはいても、信じられない心境になった。

 あの憂いを帯び寂しげな横顔…しかしそれがぱっと、部屋の明かりが点いたように笑顔になることもある。ユウキの知るアローラの顔とは、そういうものだった。

 しかし、目の前の彼女は違った。

 ユウキは思わず叫んだ。

 「君は?誰だ!」

 その者は哄笑した。

 それは、遙かに広がる宇宙空間にどこまでも響きわたるかに思えた。

 その瞬間!

ユウキの体は衝撃とともに重くなり、その場から落下した。

無数の鉄骨と配線、色鮮やかな電光…などが、ユウキの目の前をかすめていく。

やがて落下が止まった。

ユウキが目にしたのは、巨大な…クレーターとも異なる巨大な竪穴だった。

そしてそこには、不気味な赤い蛍光色に覆われた巨大な何かがあった。

ユウキはそれが、星の海を越え、途方もない長い時を経て航行できる星舟…巨大な星舟だと解った。なぜそれがそうだと認識できたのか?それはユウキにも解らなかった。

その時それは“起動”した。

赤い機体は、耳を覆うようなエンジン音とともに紅色の光を増していく。

やがてまばゆい輝きと、空間に響き渡るエンジン音が頂点に達した時、ユウキは堪らず絶叫した!

そしてユウキは目覚めた。

 

日の光りがユウキの頬を照らしていた。

目覚める直前、瞼の裏が白色に満たされ、心地よい暖かみを宿す。

フカフカとしたベッドだった。寝がえりをうとうとして違和感を覚え、やや痛みが走った。ユウキは自分の右腕を失っていることを思い出し、再び暗澹とした気持になった。

目を開けると、そこは高い天井にいくつもの絵画が描かれた広い部屋だった。

ベッドの脇にはアーチ状の広い窓がある。薄い生地のカーテンが垂れ下がっているが、外の日の光を通すには、充分な透過性があった。

部屋を見渡すと、簡素だが汚れや染み一つない絨毯が敷かれ、その中央にはアンティークな椅子や机があり、色鮮やかな花を生けた花瓶が机の上に置かれている。

壁際には絵画が大小様々な額縁に収められ、いくつか立て掛けてあった。

その壁や絨毯の彩りを一言で表すなら「明るい白」だった。言いかえれば光に満たされた部屋とも呼ぶことができた。

ユウキは、ここが明らかに宗教施設の一室であることがわかった。

宗派こそ違うようだが、イスラム教の施設で育ったが故に、けして馴染みのない空間ではなかった。

ベッドのちょうど左側には、両開きのドアがある。木製で暖かみのある色合いだった。その向こう側から「コツコツ」とノックをする音がした。

ユウキがしばらく凝視していると、ドアが静かに開いた。

「あっ」と驚く声がしてドアがすぐに閉じた。

「ごめんなさい、もうお目覚めだったのですね」

女の子の声である。

「お加減はいかがですか?」

ドア越しに聞こえるが、その声の主はなかなか顔を出さない。ユウキはもどかしくなった。

「入っておいでよ。別に裸になっているわけじゃないんだから」

しかし、その少女は頑なに入ってくるのを拒んだ。

「そうじゃないんです。わたしの姿を見たら、きっと驚くしイヤになると思うから…」

「?」

ユウキはしばし考えた。

そしてある結論に辿り着いた。

ユウキは優しい声で少女を促した。

「大丈夫だよ。きっと僕は驚かない。君を傷つけることもしない」

やがておずおずと入ってきたその子の顔を見て、ユウキはあらためて合点した。

小さな目。そして異様にふくれあがった頭。茶色い髪の毛も薄い。声こそ普通の女の子だが、明らかに発達障害の少女だった。

少女は恥入るように下を向いた。

「ごめんなさい…あなたが寝ている間にお水を届けておこうと思って…ごめんなさい」

水差しとコップを乗せたお盆を持ったまま、少女は何度も頭を下げてあやまった。

「なんでそんなに謝るの?」

 そう言ってからユウキは微笑み、「まずはそれを机の上に置きなよ」と促した。

「大丈夫だよ、ぼくは平気だから。気にしなくていいよ」

(商売は心と心。相手が信頼できるかどうかは、外見で判断しちゃいけない…)

 亡き父の言葉が、今さらのようにユウキの脳裏によみがえる。

家業を継いでからユウキは、ヴァルハラのスラム街やヨツンヘイムなど、様々な場所で様々な人種と商売をしてきた。だから今、ユウキの目の前にいる少女のような外見…いわゆる発達障害の人々とも多くの取引をしてきているのである。

「わたしの外見は気にならないですか?」

少女はおずおずと尋ねた。

「こう見えても商売人だよ。いちいち外見に捉われていたら、商売にならないだろ」

火星の低重力下でまともに生活していれば、人間や生物の身体に様々な異変が生じる。

火星に移住した人間の大半が、体を人工化して変異に対応できるよう、肉体を改造したりするのもそのためだが、金銭的な問題や、肉体を改造することに対する抵抗を示す人々も大勢いる。重力を“ユグ”の力で、地球のものに一定に保つ都市圏に住めば、その問題とは無縁になるが、ただその見返りとして重い税が課せられる。

また、企業労働者ならある一定に与えられる特権…医療費の免除、年金制度などは、同じ市民でもユウキのような商売人には無縁のものだった。だから、都市に住む権利が与えられても、そこで生きていくのも並大抵ではなかった。ユウキもご多分に漏れず、市民税の支払いや、今日明日の食いぶちに悩む一市民である。

発達障害の人々は、身体の改造、都市に住む権利…など、その諸条件からはじかれた人々であった。いわゆる火星における人類社会の最下層と言ってもよかった。だからその外見と相まって差別の対象ともなっていたのだ。

そんな彼らは、ヨツンヘイムの巨人たちのように、都市部とは離れた場所やスラム街に独自のコミューンを作り、人目を忍んで生活しているのだが、まれに都市部で生まれてくる者もいる。隔世遺伝によるものなのか、その原因は解ってはいないが、そのような人々は、大変悲惨な迫害を受ける。そこから逃れるために、発達障害者のコミューンに入っていく者もいるのだが、閉鎖的なコミューンに入っていくのも人一倍の苦労をともなった。だから迫害を耐え忍び、都市部で生きていく選択をする者のほうが多かった。

ユウキはここがどこかは解らなかったが、少なくともヴァルハラの街中にある寺院の一つなのだろうと考えていた。目の前の少女は、そこで保護されている子なのだろう。できる限り人目を忍んで生きているに違いない。

「ここはどこ?」

ユウキは当面の疑問を口にした。

「ここはメディナスです。ナターシャ様が鎮座する大聖堂です」

「メディナス?」

ユウキは首をかしげた。

「そんな聖堂がこのヴァルハラにあるなんて聞いたことないな?」

「いえ、ここはヴァルハラではありません」

その言葉にユウキは我が耳を疑った。

「ここはアルフハイムです。ヱイン様とライア様があなたをここにお連れしました」

ユウキは言葉を失った。

「それから、申し遅れました。わたしはソフィアといいます。ナターシャ様の側近、カイル様の元で仕えております」

その時、またノックをする音がした。

返事をする間もなく入ってきたのは、ヱインだった。

「よう。声がしたもんで勝手に入らせてもらったわ」

「ヱイン!」

ユウキは気色ばんだが、腕に激痛が走り、思わずうめいた。

「無理するな。ソフィア、もういい。下がってな」

ソフィアは、しばらく不安げな表情でユウキとヱインの顔を見比べていたが、やがて「承知しました」と言って部屋を出た。

「ヱイン…」

ユウキはヱインの顔を見上げた。

「とりあえず、俺をここに運んで治療してくれたことは感謝するよ。でもアルフハイムだって?ヴァルハラから随分遠い所じゃないか。俺は、ヴァルハラが生活の基盤なんだ。あそこで商売もしているし、お得意先もいる。ノルンの点検も放ってはおけないし。わがまま言って申し訳ないけど、ヴァルハラに返してくれよ。俺はもう大丈夫だから」

「そうはいかねえ」

ヱインはピシャリと答えた。

「お前はヴァルハラには返せない。返せない理由があるんだ」

ユウキは険しい顔でヱインを睨んだ。

「どういうこと?」

ヱインは腕を組み、表情の消えた顔でユウキを見下ろした。

「それをこれから説明する。ユウキ、もう大丈夫というなら、今から俺についてこい。ナターシャに会うんだ。彼女と話せば、お前が置かれている状況がわかる」

「ナターシャ?」

ユウキはソフィアの言葉を思い出した。ここはナターシャが鎮座する大聖堂だと…。

「その…ナターシャというのは?」

ヱインは笑った。

「ナターシャはな…お前のアイドル、アローラの姉貴だよ」

 

メディナスは巨大な宗教施設だった。

いや、宗教施設と呼ぶべきなのか?少なくともイスラム教、キリスト教、仏教など、旧世界より受け継がれる諸宗教の施設とは、まるで異質なものだった。

天井の高いアーチ状の回廊は、白亜の柱が等間隔に立ち並び、そこを行き交う聖職者の足下は大理石が敷き詰められている。そして白地に紺色の文様をあしらった絨毯が敷かれていた。回廊の南側は、ガラス張りで外の景色が広がり、どこからでも眺めることができた。そこから見える街並みは、石造りの素朴な住宅街が広がり、はるか遠くに鉄塔の建ち並ぶ区域が望めた。

すれ違う聖職者はみな一様に、白と紺色に彩られた法衣を着ていたが、様々な人種がいた。肌の色もまちまちで、その半数はソフィアのような発達障害者だった。

ユウキの前を歩くヱインに皆一様に会釈をしていく。その様子をユウキは不思議な面持ちで見つめた。そしてユウキは考えた。

ヱインとは何者なのか?

アローラの味方には違いない。彼女を守るために己の肉体を人工物に変えた戦士であることも間違いはないだろう。しかしそんな彼が、この厳粛な巨大宗教施設と密接な関係にあるのには違和感を覚えた。この回廊の先には、アローラの姉がいるということだが、その姉妹とヱイン、そしてライアとはどういう関係のか?

アローラの言葉が脳裏によぎる。

(わたしは火星の人類社会に必要とされ使命を帯びた存在。でもいつも一人ぼっち。わたしたちを守る存在はいても、あなたのような友だちはしばらくできなかった…)

そう言う彼女は寂しげだった。

しかし次の瞬間には笑顔を見せた。それは部屋に日の光が射すように明るかった。

(ユウキ、また会える?)

その時ユウキは力強くうなずき、約束をしたのである。

だからもう一度、彼女に会わなければならない。何があっても。

同時にアローラが口にした“わたしたちを守る存在”と言う言葉も気になる。

“守る存在”とはヱインやライアに違いないが“わたしたち”とは?

「ヱイン」

ユウキは声をかけた。

「アローラのお姉さんも…オージンなんだろ?」

ヱインは何も言わない。

「ナターシャと言ったね。でも、オージンはもう一人いる。アローラを宇宙に連れ去ったのが、そのもう一人だ…」

ユウキの言葉が正鵠を射たのか?ヱインは立ち止まった。

「賢いな、お前。アローラにどこまで吹き込まれているのか知らねえが…全部ご明察だよ。もっとも、こっちも隠す気はなかったがな」

そして向き直り、腕を組みながらユウキを見据えた。

「ややこしいことは全部、ナターシャに洗いざらい話してもらおうと思ってよ、口下手な俺が話すと誤解も招くしな。だがそこまで覚ったというのなら話は早い。ユウキ、お前がアローラを助けたいなら、ナターシャの言うことをよく聞いてほしい。俺たちは、あいつがどう思おうと彼女の味方だ。お前もそうだと信じている…」

そしてまた前に向き直り、歩を進め始めた。

「力を貸してくれ、ユウキ。ナターシャもそうお前に頼むはずだ」

やがて二人は回廊の先、鉄製の大きな扉の前にきた。両開きで自動開閉式のようである。ヱインが前に立つと、それは音もなくスッと開いた。

そして中の光景を見た時、ユウキは思わず息を飲んだ。それはイスラム様式の寺院を見慣れたユウキでさえ圧倒される荘厳なものだった。

正面には様々な色合いのライトで彩られた巨大な祭壇があり、そこへ通じる通路の両脇には、高い鉄格子に隔てられ、無数のベンチが整然と並んでいる。上を見上げれば、巨大なドーム状の天井が広がり、大小様々な形をした窓から陽の光が差し込み、施設内を照らしている。壁際に無数に上に伸びる柱には、様々なレリーフが施され、その荘厳さを増していた。

「メディナスの中央ドームだ。この先にメディナス大聖堂の中枢部がある」

祭壇の前には、一人の男が佇んでいる。伸びた髭と知性を感じさせる瞳。彼もまた法衣をまとっているが、その胸元からは鈍い色合いの装甲が垣間見えた。

「よう、カイル」

ヱインはその男に陽気に声をかけた。その人を食ったような態度に、カイルと呼ばれた男の顔が険しくなる。やがて彼は「ふん」と鼻をならした。

「任務をしくじったのは仕方がない。しかしそれにふさわしい態度というものがあるだろう。所詮、貴様はガーディアンのなりそこないだな。その不遜な顔をナターシャ様にお見せせねばならんことが、じつに忌々しい」

カイルは、あからさまに不機嫌だった。しかしユウキはどこか違和感を覚えた。

このカイルという男、確かに不機嫌なのだが、どこか生身の感情が伝わってこない。

その雰囲気はライアのそれに近い。どうやら彼も、サイボーグやアンドロイドの類のようだ。

「まあいい。ナターシャ様がお待ちだ。中に入れ」

祭壇のその奥に、また鉄製の扉があった。

カイルが前に立つと、音もなくスッと上に上がる。

その中は、また一つの空間であった。

いくつもの電子機器が壁一面に配置され、大小様々な管が無数に交錯しながら走る。そしてその奥に、ガラスに覆われた棺のようなものが斜めに立て掛けられ、安置されているのが見えた。

その棺にも無数の配管が組み込まれ、接続部分には光が規則的な点滅を繰り返している。

ユウキはそのガラスの棺の中に何かが入っていることを認識した。そしてそれが人だ

とわかり、さらに目を懲らしたとき、ユウキは「あっ」と叫んだ。

「アローラ!」

そこに眠っていたのは、間違いなくアローラの姿そのものであった。

 

 祭壇内部は、巨大な生命維持装置…そのことをユウキが理解したのは、棺に入っている少女がアローラとは別人であり、また液体に満たされた棺の中まで、痛々しいほど身体に管が通されていることを見てとった時だった。

 「彼女は生きているの?」

 しばし唖然としていたユウキだったが、やがて静かな声で、傍に佇むエインの顔を見上げた。

 「そうだ。ナターシャ様は生きている」

 答えたのはカイルだった。

 「本来、オージンであるナターシャ様の肉体は、不滅の細胞を持ち、マグマやプラズマ

など、超高温のエネルギー体に身をさらさない限り滅ぶことはない。しかし、生命体とし

て“眠り”についている以上、細胞は徐々に失われていく。お身体を維持していくために

は、この“ゆりかご”に入っていただくより他にないのだ」

 「不滅の細胞?」

 ユウキは茫然とナターシャの体を見つめた。

 「この子がナターシャ?アローラと瓜二つじゃないか?」

 ナターシャ…もう一人のアローラ。彼女の眼は閉じられたままだった。アローラのよう

な、あの琥珀色の瞳をこの子も持っているのだろうか?

「…そうか。アローラとは双子なんだね?」

 「正確には三つ子だ」

 エインの言葉に、ユウキは驚いた。

 「三つ子?」

 「解るだろ。三人目はエリスだ。ヴァルハラに玉座を置く、産業の女神。アローラをダ

イモスまでさらった張本人だ」

 エインもユウキの隣でナターシャを見ていた。そして葉巻を取り出し、火を点けようと

している。それを見て、カイルの顔が鬼のように険しくなった。

 「貴様!」

 「おう、うっかりしていた。悪りぃ悪りぃ…」

 エインはバツの悪い表情で、慌てて葉巻を握り潰した。

 「産業の女神…エリス。ヴァルハラの女王…」

 ユウキは、亡き父コウジの言葉を思い起こした。

(ターミナルタワーの地下深くには、えらい女王さまがいらっしゃるんだ。ヴァルハラだけではなく、火星全土の産業を統括してくださっている。でもとても怖い方で、滅多なことでは、彼女の話はしないほうがいい…)

 そして、ヨツンへイムのシェーン…。

(…この星の三人のオージンのうち一人は彼女、もう一人はアルフハイム…最後の一人は、君の住むヴァルハラ、そこを永く支配している者なんだよ…)

(…その者はヴァルハラの…いや、火星すべての経済を動かしていると言っていい…)

 アローラの救出の時は、無我夢中だった。

何者がアローラをさらい、火星の衛星ダイモスに連れ去ったのか?最も肝心なことのはずだが、まるで失念していた。あの時は、ただアローラを助けたい一心だったのだ。

 冷静になってみれば、ヴァルハラで最も恐れられている女神の玉座に迫ろうとしていた自分に、やや慄然としたものを覚える。アローラに出会う前の自分なら、考えられないことであった。

 「覚えておけ。普段、この祭壇の中に人を入れることは滅多にはない。しかしナターシャ様がお前に伝えたい旨があるとのこと、今回だけは特別だ。本来ならナターシャ様のお身体など、貴様のような少年が拝めることなどないのだからな」

 カイルは不機嫌そうに鼻をならした。

 黙っていれば、それなりの偉丈夫で美男子なのだが、とにかく無愛想で感じの悪いことこのうえなかった。そんなカイルに対して、エインはまるで無頓着でへっちゃらのようだ。

 「そんなたいしたもんでもねえだろ、聖堂とか祭壇とか、大層な御託並べちゃいるが、要するにここは、ナターシャの病室じゃねえか」

 カイルは鋭い視線でエインを睨んだ。

 「貴様は口を開くな」

 エインは両手を頭の後ろに組み、「へいへい」と言いながら背を向けた。

 カイルはナターシャの棺のそばに立て掛けてあったものを、ユウキの目の前に差し出した。それは、アローラがユウキに託したギターだった。

 「ユウキといったな。申し遅れた、わたしはナターシャ様の側に仕え、ガーディアンを務めるカイルという者だ。ユウキ、このギターに見覚えはあるな?」

 ユウキはうなずいた。

「ヴァルハラのターミナルタワーで星舟が飛び立つ際、アローラに頼まれた。それをナターシャに届けてほしいって」

「だが、これをナターシャ様が受け取ることはできない。なぜならこのギターのマスターはお前だからだ」

「…?」

ユウキは首をかしげた。

 「早い話がお前のものということだよ。お前が望もうと望むまいとな」

 エインが口を挟んだ。

「このギターが?俺のもの?」

 ユウキは戸惑いの表情を浮かべている。

「詳しい話は、ナターシャ様に伺うといい。このことはナターシャ様の、ご判断で決められたことだからな」

カイルがコンソールを動かし始めた。すると天井からソファーのようなものが降りてくる。ユウキの目の前に着地したそれは、リクライニング式のもので頭部に半球状の機器のついた異様な形状のものだった。

「ユウキ、そこに座れ。その丸い機器を頭につければ“ゆりかご”で眠るナターシャ様の

意志と交感できる。わたしもエインもそのようにして、ナターシャ様と意志の疎通をしてきた。側仕えのわたしの場合は、ナターシャ様からある合図が送られてくるので、それをキャッチしてから、この機械でしっかりとこの方の意向を確認するのが常になっているがな。まあ、おそらく普通の人間である貴様が、ナターシャ様の意志と交感するなど、滅多に経験できることではないから、ありがたくお声を聞くがいい」

 なぜこの男は一言も二言も余計なのだろう?ユウキは呆れてエインと顔を見合わせた。

 エインは両手を広げ、肩をすくめている。

 ユウキは棺のナターシャとソファーとを見比べた。

 「カイル、ひとつ聞いていい?」

 「…?なんだ?」

 カイルは怪訝な顔をしてユウキの顔を覗き込んだ。

 「ナターシャが僕に何を話すのかわからないけど、もし仮にナターシャが僕に何か取引や要求をしたとする。でも僕がそれに応えなかったとしたら?彼女は僕をどうするの?君はそんな僕を許すの?」

 カイルの表情がわずかに強張った。

 エインはというと、面白そうな顔をしてニヤニヤと笑っている。

 「そんなこと、貴様とナターシャ様との間のことだ。私には関係ない」

 カイルはソッポを向いた。

 するとエインが笑った。

 「カイル、ユウキをあまり舐めないほうがいいぜ。ユウキ、心配するな。同じ姉妹でもエリスと違い、ナターシャはアローラの味方だ。きっとお前のためにアローラを救う方策も示してくれる。そもそもそのギターのマスターをお前にしたことも、お前とアローラを救うためだ。あのままではお前も確実に死んでいたし、アローラがマスターのままだったら…おっと、これ以上のことは直接ナターシャに聞いてくれ。大丈夫、ナターシャを信じろ。彼女はお前に、変な取引や要求などしない」

 ユウキはなお、棺の中のナターシャを見つめている。

 「エイン、君はここがナターシャの病室だと言ったけど、彼女はどういう病気なの?なぜ彼女は、眠ったままなんだい?」

 エインの表情が曇った。

「さあな、よく解らん。ナターシャもな、かつてはアローラやエリスのように、火星の赤い大地をその足で駆けるほど、元気な時があったんだよ。しかし所詮、オージンは人工生命体、原因不明の病気にかかり、いつ動けなくなってもおかしくはない。どんな超常的な力を持っていたとしても、けして完璧な生命体じゃねえんだよ。ましてや神様など聞いてあきれるぜ」

 エインの青い瞳に寂しげな光が灯った。

「しかし、ナターシャ様は生きている。この星で最も強大なその力が、失われたわけではない。そして今も、我々を導いてくださっているのだ」

 エインの言葉にカイルは反駁した。

「わかったよ」

ユウキは静かにつぶやいた。

「ナターシャの話を聞くよ。そこに座ればいいんだろ。カイル、頼むよ」

 

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