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 ジェシカは、不機嫌なしかめ面で窓の外を眺めていた。

 飛行艇から見える空は青く、まばらに緩やかに流れる雲は、その下の大地に大きな影をいくつも落としていた。大昔、火星が荒れ果てた赤い大地であった頃、空の色は鈍く、まれに薄い雲が観測されるだけだったという。

 遥かな太古に火星に存在したとされる海が復活し、緑が豊かに生えるようになった時代に、人類は火星への移住を開始した。人類が初めて目にした火星の空は、地球と変わらないものだった。だから火星の過去を生きた人々が見上げた空は、ジェシカが目にしているもの、そのものなのである。

 彼女を隊長とするヴァルハラ警察特殊部隊、通称ヴァストの特殊任務班が乗るのは、アルフハイム行きの大型飛行艇である。その特別席が設けられた客室に彼らはいた。ただ純然たるヴァストのメンバーばかりではなかった。隊長のジェシカが機嫌を損ねているのはまさにその“外様”の存在に起因するものだった。

 「何をお考えで?」

 後部座席のその声を聞いて、ジェシカは遠慮のない溜息をついた。

 「よりによって…」

 ジェシカの低い声音は、小さな怒りとうんざりとした気持ちの入り混じったものに聞こえた。事実、ジェシカの心境はまさにその通りだった。

 「なぜ、お前なんだ」

 苛立ちが募り、外の景色さえ、ジェシカの心を静めるには不十分であった。

 「そんなこと言わないで仲良くやりましょう。わたしだって任務ですから。何も好きこのんであなたについてきたわけじゃありませんよ」

 ジェシカにとっては聞き慣れた声である。しかし後ろを振り向く気にはなれなかった。ただ、聞こえよがしに溜息をつくばかりである。

 「そんなに溜息ばかりついて。幸せが逃げるというじゃありませんか。もうおよしになったらいかがです?」

 「ああまったくだ!」

 ジェシカは忌々しげに声を荒げた。

 「幸せならもうとっくに逃げて、あの地平の彼方だ。もとより体を人工物に変えてから人並みの幸せなど望んではいない。まあ、それでも穏やかなひとときくらいは、ほしいものだよ。この飛行艇でアルフハイムに着くまでは、それも保障されるだろうと思っていたさ。お前の顔を見るまではな!」

 アルフハイムで無茶をしないよう、監視役をつける。それに同意できなければ、任務を任せることはできない…仕方なく同意したジェシカだったが、その監視役がまさか…。

 「マルコ、スラム街の管轄はどうした?代わりのものがいるのか?むしろ、お前がいないほうが治安もよくなりそうだな」

 ジェシカの皮肉にも、彼女の監視役…マルコはまるで堪えた様子もなく、平気な顔をしている。

 「いえいえ、もうあそこは戦火に焼かれてから、治安は悪化の一途ですよ。誰が管轄しようが収まりそうもありません。あの辺には、イワノフっていうスラブ系のマフィアのボスがいたんですが、こいつがなかなか使える奴でしてねえ、まあ、あの辺り一帯を仕切っていてくれたもんですから、警備隊も楽をさせてもらえたんですよ。ところが、あの戦火でイワノフの野郎、おっ死んじまったらしい。だから悪党どもの秩序はめちゃくちゃですよ。ただ…」

 急にマルコは沈黙した。そして何かを思索するように、その眼は細められている。

 「やんちゃな、若いギャングどもが急に少なくなりましてねえ。どうやら“火星の夜明け”がかなりの人数を吸収していったらしい。わたしも手のつけられないガキを何人か知っていますが、そいつらが軒並みいなくなっています。だから治安が悪いといっても、今は必ずしも最悪というわけじゃありません」

 ジェシカは感心なさげに「ほう」とつぶやいただけだった。

 「わたしはもともと、性悪のガキどもが得意分野でねえ、上もそれがわかっているものですから、特に少年ギャングの多いあの地域を任されていた、そういうのもあるんです。ところが、あの戦火を機に、手のかかるガキどもが消えた。そうなると、不良警察のわたしなんてお払い箱、あとは知古である隊長さんのお目付役くらいしか、仕事が回ってこない…と、まあそういうことですよ」

 「逆を言えば、その不良警察の面倒を、わたしは押しつけられたわけだ。まったく、損な役回りだよ。“あいつら”を相手にするだけでも、命がけで骨が折れるというのに。これ以上、余計なことを背負わされるのはゴメンだ」

 ジェシカはそう吐き捨てると、窓際に頬杖をつき、また溜息をついた。

 「隊長さん、わたしはなにも、隊長さんの足を引っ張るつもりは毛頭ありませんよ。任務さえまともにこなしていただければ、それでいいのですから。要はアルフハイムで建物等、一切壊さない、住民を巻き添えにしない、余計なものごとに首を突っ込まない、以上のことを守っていただければ、それでいいんですから。それさえまともに出来れば本来、わたしなんて不用じゃありませんか?まったく、隊長さんだけですよ、わたしのようなお荷物が、おまけに付いてくるのは」

 「ふん」

 ジェシカは鼻を鳴らした。

 「安心したよ、自分がお荷物だと自覚しているだけ、貴様がまともだったことに。これで多少は、任務に専念できるというものだよ。言っておくが、自分の命は自己責任だ。貴様に構っていられるほどの余裕はないからな。相手がけして甘い相手ではないことを、今から肝に銘じておくといい」

 マルコは笑った。

 「ご心配には及びませんよ。こう見えてわたしは、逃げ隠れは得意ですからね。まあ少しは、猪突猛進の隊長さんの爪のアカでも煎じて飲まなければ…と常日頃考えているところです。もっとも、それによる被害で、そのつけを払うのは、ご免被りますがね」

 相変わらず口の減らない男である。ジェシカは相手にするだけ馬鹿馬鹿しくなり、口をつぐんだ。

 「隊長さん、一つお聞きしたいのですが…」

 そんなジェシカにマルコはまるでお構いなしである。

 「いえ、わたしも任務上、あなたがたが追う彼らについて調べたんですよ。旧世界の遺物…と以前、あなたはおっしゃいましたね。古いデータによれば、その存在の確認は二百年前にも遡る…」

 先ほどとはうって変わり、神妙なマルコの口調に、ジェシカの眉がわずかに動いた。

 「ヴァルハラの女神や、これから向かうアルフハイムの守護者、そして赤い大地をさすらう弾き語り…。かつて秩序の崩れた人類社会を立て直すため、“失われたテクノロジー”を継承する科学者たちが、その粋鋳を結集して創り上げた人工生命体…人によっては神とも呼ぶ彼女らを警護するため、ガーディアンと呼ばれる、戦闘集団が組織された。彼らもまた“失われたテクノロジー”で開発され、その戦闘能力は、一人の力が一個師団にも匹敵するほど規格外であったという。やがて三人の女神と、その取り巻き連中は利権を争い、“十年紛争”と呼ばれる血で血を洗う抗争を始めた。その主力となったガーディアンは、互いに殺し合い、一時期は五百人を数えたといわれるその数は一気に激減、やがて“十年紛争”が終結しヴァルハラの女神…エリス様が勝利を収めた頃には、その人数は二ケタにも満たないものなったという。そしてエリス様の粛正で…」

 「マルコ!」

 ジェシカが鋭い声で、マルコを制した。

 「おっと、口が過ぎましたね。くわばらくわばら…」

 マルコは目の前で十字を切り、手を合わせた。

 「気をつけろ。それで貴様、何が言いたい?」

 「ああそれですよ、とどのつまり…」

 マルコは両手を膝の上に組み、座席にその身を深く沈めた。

 「なんのメリットがあって彼らは、アスガルドとの戦端を開くきっかけとなったスレイプニル号う事件を起こしたのか?アスガルド船籍の飛行艇をハイジャックし、それをヴァルハラに撃ち落とさせてアスガルドをけしかける。そしてアスガルドにヴァルハラを攻撃させ、かつての仇敵に打撃を与える…上層部は、それが目的ゆえのテロと結論づけていますがね、わたしにはそれが、どうにも釈然としないんですよ。だってその事件のあと、彼らはヴァルハラに現れてヴァストとドンパチもやっていますからね。明らかに不自然じゃないですか?」

 ジェシカは黙したままだった。それは自分との会話が億劫になり、口を閉ざしたわけではなく、何かを思索しているが故の沈黙であることをマルコは鋭敏に感じ取っていた。だから、彼はジェシカが口を開くのを辛抱強く待った。

 「…彼らは男女のペアで、常に行動を共にしている。男の名はヱイン。女はライアという。データによれば、二人は“10年紛争”の末期に現れ、アルフハイム側につき、ヴァルハラと常に敵対してきた。出自は不明だが、そもそもガーディアンというのは、人間から人口生命体となったハイ・アンドロイド…通称ハイドロイドで結成された特殊集団だ。“彼ら”もおそらくアルフハイムの雇兵の中から選ばれ、もしくは志願してハイドロイドとなり、ガーディアンの一員になったと思われる。“彼ら”は古くから、アルフハイムと密接な繋がりを持ってきた。だから少なくとも、彼らがスレイプニル号事件を起こそうが起こそうまいが、ヴァルハラと敵対してきた連中には変わりない。彼らの搭乗記録が、撃墜されたスレイプニル号の残骸から見つかったのは事実で、それがヴァストが彼らを追い、捕縛もしくは破壊をする任務の理由となっている。だがそんなものはあいつらを駆逐する口実に過ぎない。それに非公式だがヴァルハラ政府は、女神と敵対行動をとりかねないガーディアンの生き残りを殲滅する方針もとっている。お前は知らなかっただろうが…」

 「女神の意向が、ヴァルハラ政府に強く働いていると…」

 マルコは声をひそめた。

「しかし、フェンリルのセキュリティ部隊であるスぺクターはともかく、ヴァストは女神さまの私物じゃありません」

ジェシカは不機嫌で厳しい顔つきを崩さないままだった。ただ、思うところもあるのかやや視線を落とし、足元を見つめている。

「マルコ、ヴァストは彼らとの因縁でこれまで多くの犠牲を出してきた。我々にもメンツがあるし、なにより“彼ら”との決着をつけない限り、死んだものたちも浮かばれない…」

ジェシカの脳裏に、かつてのかけがえのない仲間たちの顔が浮かんだ。そして自分を厳しくもここまで育ててくれた敬愛する“彼”の顔も…。

「それに彼らが“火星の夜明け”とも、なんらかの因果関係を持っているのは間違いない。彼らが動くたびに…正確にいえば、彼らのマスターたるあの女神が動けば、“火星の夜明け”が動きを活性化させるのは事実だからな。だから彼らを抑えることは、間違いなくヴァルハラの安全保障にも通じる。これは軍隊でも警備隊でもない、特殊部隊のヴァストしかできない仕事なのだ」

「隊長さん」

マルコの瞳に、やや鋭さを帯びた光が宿った。う

 「…これから我々は、彼らの捕縛もしくは破壊、そして少年の救出を目的とした任務に従事するわけですが…その…彼らがおそらく、マスターとして従っているのであろうもう一人の女神…」

 その言葉にジェシカは、思わず顔をあげた。

 「彼女の足どりが、スラム街の紛争以来、掴めません。彼女も今、アルフハイムにいるのでしょうか?」

 「それは…」

 ジェシカは思案した。

 「それはわからない。彼らがアルフハイムに戻ったことがそれを意味しているのかもしれないが…ただ、そうなると…」

 「…」

 「“火星の夜明け”も間違いなく動くな…」

 二人は沈黙した。

 いつの間にか窓の外は、白色の雲がその眼下に広がり、下界を遮っていた。小一時間もすれば、アルフハイムに到着する予定ではあるが、この天候ではその街並みを望むことは適わないことのように思えた。

 ただ飛行艇は、高度も速度も一定を保ち、ひたすらその雲上を駆け抜けていくばかりであった。

 

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