
その男は、禁止薬物であるヴァンハイム産の大麻を、常に常用していた。
マルコが、スラム化した南部地域の管轄に入る前の話である。
火星歴が始まるより以前、この星では、大麻などの薬物が大量に出回り、それらを禁止する法律すらなかった。まがりなりにも、国家が形成され始めた時期になってようやく、大麻の製造や販売を規制する都市が出てきたのである。もっとも古い歴史のあるヴァルハラでは、その成立とほぼ同時期に、禁止薬物に関する法律が整備された。しかしスラム街を始めとした地域では、マフィアが蔓延り、法の目をかいくぐりながら、流通しているのが現状であった。
だから、その男が特別というわけではなかった。大麻の常習犯の1人に、過ぎなかったのだ。
ただ禁止薬物に関する法律の歴史が古いヴァルハラでさえ、罪人の刑罰や、常習犯に対するケアは、いい加減なものだった。
禁固にして半年から2年、刑務所に入ればそれで済むのである。だから出所すれば、大概の常習犯は、また薬物に手を出した。
その男も決して例外ではなかった。
逮捕しては、出所後も大麻を常用する、そしてまた逮捕…イタチごっこである。
マルコは何度、その男の住むアパートに足を運んだか分らなかった。
その男には、幼い息子が1人いた。
その男の家を訪ねるたびに、生傷を増やし飢えに苦しむその子のために、マルコは傷の手当をして、食事も与えた。
実の息子を、幼い時に病気で亡くしていたマルコにとって、彼は息子のように思えてならなかった。
やがて彼の父親は薬物使用の果てに、殺人事件を犯した。
残されたその子を、マルコはイスラム系の児童施設に入れた。
それから数年後、彼が自分の意志で施設を出たと知ったマルコは、彼の消息を調べたが、任務の忙しさにかまけ、なかなか掴むことはできなかった。
そしてマルコがスラム街に転属した時、彼はようやく、少年ギャングとなった彼…ファングと再会したのである。
マーキュリーが彼の本名だった。しかし、再びマルコの目の前に現れたマーキュリーは、マーキュリーではなかった。スラブ系ギャングのイワノフ、その男の手足のような少年ギャングとなり果て、ファングと名乗っていたのである。
ゆすりやたかり、傷害、時には大麻の売買など、様々な犯罪に手を染めていたファングを、マルコは何度も留置所に放り込み、補導した。しかし、彼がまっとうな道に戻ることはなかった。
マルコは地域の治安のため、イワノフと金銭的な関係を築いていた。そのことを知るファングが、マルコを軽蔑することこそあれ、言うことを聞く道理もなかった。
ファングはやがて、スラム街の少年ギャングたちのボスとなっていた。
子分を何人も引き連れ、手足のように使い、犯罪に犯罪を重ねる…もはや、手のつけられない存在となっていた。しかし所詮は、イワノフの手の内で踊っているに過ぎないことも、マルコはよく承知していた。
その状況が大きく変化したのは、先頃に起きたテロ組織“火星の夜明け”とヴァルハラ政府による紛争であった。
スラム街が戦場となり、その戦火にイワノフは巻き込まれ、彼は死んだ。そのことも影響したか、スラム街の少年ギャングのほとんどが姿を消した。“火星の夜明け”に吸収されたというのが大方の見方であったが、その中心にファングがいる…マルコはそう睨んでいた。
混乱の最中、彼と再会したマルコは、それが間違いではなかったことを痛感した。
今、マルコは人混みを搔き分け、彼の背中を追っている。
自分がなぜ、ファングにそこまで執着するのか?マルコは自らに問いかけた。
死んだ息子と彼を重ね合わせているからか?
スラム街で、イワノフとの蜜々の関係を築いたが故に、彼を更生しきれなかったことへの罪悪感からか?
答えはでなかった。
ただ、今は彼を無我夢中で追う自分がいる。
「ファング!」
マルコは叫んだ。
そして彼は、その名を口にし、再び叫んだ。
「戻って来い!マーキュリー!」
静寂と暗闇が、室内を支配していた。
その眼の前には、広い窓の向こうに、蛍火のような無数の輝きが瞬いていた。星がいくつも闇に散りばめられた宇宙が広がっているのだ。
エリスは、暗い部屋と宇宙とを隔てる、その境界線に佇み、来訪者を待っていた。
と、暗い室内に宇宙の景色が広がり、エリスの足元には星屑の大河が映える。
遥か銀河の彼方から、一際、大きな光が、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。
それはエリスの目の前で停止すると、やがて人の形を造り始める。そして光が止み、エリスと瓜2つの顔を持つ少女が現れた。
ナターシャである。
エリスはニヤっと笑った。
「姉さん、お久しぶり。あなたがわたしの元へ来てくれるなんて、珍しいことだわ」
「わたしを呼んだのは、あなたよ?エリス」
ナターシャは、エリスを静かに見つめていた。ただ、その空色の瞳は異様な輝きを増し、その奥に青白い炎が立っていた。
「怒っているわね、姉さん。でも、あなたが“ユミルの鍵”さえ、渡してくれれば、あんなことにはならなかったわ」
エリスは、不遜な笑みを浮かべた。
「エリス」
ナターシャは、短く強い口調でエリスの言葉を被せた。
「あなたの望みなど、今さら聞きたくはないわ。用件を言いなさい。神への冒涜を悔いるのなら、聞きましょう」
フフっと、エリスは笑った。
「相変わらず恐いわね、姉さん。でも、ご生憎さま。わたしは人間どもが信じる神様なんて、まるで興味はないの。人間は勝手ね。わたしたちを神々として生み出しておきながら、何もしてくれない別の神々を数多、拝んでいるんだもの。信仰で、人間どもは救われないわ。この星の人類は、それがいまだに解っていない。有史以来、宗教戦争の絶えない歴史を歩んできながらね」
「人が救われるかどうかは、あなたが決めることではないわ、エリス」
ナターシャは、ピシャリと言い放った。
「あなたは勘違いしている。人間たちはけして、わたしたちを神として生み出したわけではない。母なる青い星から見放され、暗い星海に放り出された人々は、路頭に迷い、苦悩した。この星で、人類はどういう方向に進むべきなのか?回答を出せるリーダーはいなかった。そんな棄民とも言える人々が、最後にすがったのが“失われたテクノロジー”。それによってわたしたちは、人類を導く、“超人類”として生み出されたのよ。わたしたちは、けして神のように万能ではないし、ましてや、間違いを犯さない完璧さも持ち合わせてはいない。自分を神と自認するのは、自惚れでもあるし傲慢だわ」
エリスはせせら笑った。
「人間どもにありがたい女神と信仰され、あんなバカでかい聖堂まで建ててもらっているあなたが、言う言葉?呆れたわ。そんな偽善は、寝床より起きてから言うことね。あなたの欺瞞やペテンが、人間たちを堕落させているということが、なぜ解らないの?」
ナターシャは静かに目を閉じた。
「あなたの言葉は、もっともよ。確かに、神ならざる“オージン”が、巨大な宗教施設の御神体や本尊とされ、信仰される現実は間違っている。わたしのこの身体が動けるのなら、けしてそんなことはさせないのだけど。しかし、信仰の自由、それだけは縛ることはできないわ。人を社会というシステムの歯車に変えることを画策し、人間性そのものを否定する…そんなあなたには、理解できないでしょうけど」
「また、そういう理屈をこねて!誤魔化しも、ほどほどにしてほしいものだわ。どうやら、あなたとこんな話をすること自体、時間の無駄のようね。用件を言うわ」
エリスは、ニヒルに口元を歪めた。
「取引をしない?ナターシャ。互いにこれ以上の犠牲は無意味だわ。お互い、利益の一致するところで、アルフハイムの戦争を終結させましょう」
その時!ナターシャの瞳が青い輝きを増し、栗色の髪が逆立ち始めた。
「エリス!あなたこそ、下手な誤魔化しは止めなさい!この一方的な戦争を仕掛けてきたのは、あなたたちよ。暴行、略奪、殺戮…そして、神々や信仰への冒涜!あなたたちの罪は重いわ。罪を悔いるのならともかく、取引を持ちかけるなど恥を知りなさい!」
一瞬、エリスは怯んだ。
しかし、また人を食ったような笑みを浮かべ、ナターシャを睨む。
「人形のように動けない身体でえらそうに。以前のように、わたしが恐れをなして尻尾を巻くとでも思ったなら、大間違いだわ。そうやって威圧して、自分の気に入らない者を恫喝し、ひれ伏させてさせてきたのがあなたよ。あなたは、わたしを独裁者扱いするけど、あなたこそ有史に名を残す、暴君たちと何も変わらないじゃないの?」
「話をすりかえるのはやめなさい、エリス。わたしは、あなたの話を聞かないなどと、一言も言ってはいない。用件を言いなさい。その汚らわしい口から、どんな言葉が出るのか、一応は聞き置きます」
エリスは、「フン」と鼻をならした。
「姉さん、これはあなたたちにとっても悪い話じゃないのよ。正直に言うなら、戦況さえこちらに有利なら、“鍵”を持つあの少年と引き換えに、アローラ姉さんを、引き渡したいと考えていたんだから。分かるわね、アローラ姉さんを開放するわ。彼女が、あなたたちの元へ行くとは考えにくいけど、あの少年は喜ぶし、“鍵”とあの少年は、引き続きあなたたちで管理すればいいわけだから」
その言葉を聞いたナターシャに変化が生じた。
栗色の髪はふわりと下り、空色の瞳は、その異様な輝きをひそめた。
そしてじっと、エリスを見つめて言った。
「エリス。あなたは、取引をする相手を間違っているわ。アローラの解放を望んでいるのは、ユウキよ。あなたが何を引き換えに、アローラを引き渡す気でいるのか知らないけれど、わたしとの話し合いは、お門違いだわ」
エリスは、眉間にしわを寄せ、ナターシャを睨んだ。
「あなたという人は、善や正義を振りかざしていながら、冷酷ね。あなたの言葉は、確かに正論だわ。でもそれが、時に人を傷つけるものだということを、自覚するといい。いいの?ナターシャ。あなたにとって一番大事な“ユミルの鍵”。そのマスターは、あの少年でもあるのよ。わたしはどんな手を使っても、あの少年とコンタクトを取り、取引するつもりよ。それこそ、“ユミルの鍵”とアローラの身柄を引き換えに交渉すれば、あの少年は、喜んで“ユミルの鍵”を渡すでしょうね」
ナターシャは、まだエリスの顔を不思議な眼差しで見つめている。
「エリス、それはありえないわ。ユウキがアローラの望みとは、裏腹な行動をとることは考えられない。なぜなら、ユウキが“鍵”をあなたに渡せば、アローラはユウキに深く失望し、二度とユウキには会わなくなるでしょう。彼はそれをよく分かっているわ。そうなるくらいなら、ユウキは例え、アローラと永遠に会えなくなるとしても、命がけで“鍵”を守るでしょうね。彼は、今、アローラの片割れのようなもの。“鍵”は特定の生命エネルギーの源であるマスターと引き合い、例え遠くに離れたとしても、必ずマスターの元に帰ってくる。アローラとユウキは、あるきっかけで生命エネルギーを共有する関係となった。“鍵”とユウキと、そしてアローラ。この3つは、深く結び付き、分かち難きものとなっているのよ」
そしてナターシャは、一歩二歩と、エリスに近づいた。
「エリス、あなたの望みは解っているわ。ライアと相打ちになり、活動を停止したブレードの身体、それがほしいのでしょう?あなたにとって大事な股肱を復活させることは、火星全土に、あなたの思い描く理想郷を築き上げるため必要不可欠なこと。今は“ユミルの鍵”よりそちらのほうが、あなたには一大事なのでしょうね」
エリスは悔しげに、ナターシャを睨んだ。
「忌々しいことに、あの少年は、ブレードの首を晒しものにしながら、“火星の夜明け”に降服を呼びかけ、戦場を駆け回っている。八つ裂きにしても飽き足らないわ。それにしても、あなたは何を考えているの?ユウキはあなたにとって大事な“鍵”のマスター、しかも“鍵”そのものも所持したままじゃない?あんなことをよく、許しているわね。戦場で彼が死に、“鍵”が壊されれば、まさにわたしにとっては好都合よ。それでもユウキのあんな行動を止めもせず、のさばらせておく理由はなんなの?」
ナターシャは歩を止めた。そして笑った。
「彼は死なないわ。なぜなら、アローラの生体エネルギーを湛える“鍵”が、あの子を護っているから。それにカイルが速やかに手を打ち、彼の護衛も増やしている。エリス、あなたがどうしても、ブレードの身体がほしいというのなら、こちらにも条件があります」
ナターシャの言葉に、エリスはすっと眼を細めた。
「あなたは狡猾ね。あなた、先ほどなんて言ったか覚えている?“罪を悔いるのならともかく、取引を持ちかけるなど恥を知りなさい!”と随分、ご立腹だったのに、あの言葉は何だったのかしら?いつの間にか、あなたにとって、都合のいいほうに取引が進んでいるのだから、呆れてしまうわ。ナターシャ、あなたの条件は分かっている。戦に巻き込まれた市民や、戦死した兵士たちの家族への償い、戦災孤児の救済、破壊された宗教施設の修復…ようするに賠償金ね。足元を見られたものだわ。それは事実上、敗戦を認めろということじゃない?でもそれは、わたしが決めることではない。“火星の夜明け”が、どう判断するかよ」
「エリス、意地を張るのは、もうおよしなさい。首魁であるブレードを失った以上、“火星の夜明け”の統率が失われるのは必至。事実、ユウキの行動で、彼らの戦意は失われつつある。ブレードは、アルフハイムを殲滅すべき異教徒の街と断罪し、兵士のジハードを先導した。しかし、元々、信ずるべき思想や信仰を持たない若者たちでは、指導者を失ってもなお、ジハードを続ける気骨は持ち合わせてはいない。戦局はもう、目に見えているわ。これ以上、無駄な犠牲者が出る前に、兵を撤退させなさい。賠償金の話はそれからよ」
エリスは憎々しげに、ナターシャを見つめた。
「賠償金は、やはり否定しないのね。いいわ、お金なら出してあげる。特別口座を設けて、“フェンリル”から“メディナス特別財団”に、あなたのいい値で振り込んであげるわ。でも、兵の撤退については、請け負えない。わたしは別に、意地を張っているわけではないの。ただわたしに“火星の夜明け”の指揮権がない、それだけの話よ。“火星の夜明け”は、ブレードありきの組織、そしてわたしとのパイプがあるのもブレードだけ。統率のとれない“火星の夜明け”をコントロールする術なんて、わたしは持ち合わせていないわ。ご生憎さま」
エリスはせせら笑った。
「統率のとれない組織は、野獣の群れと同じよね?混乱は増す一方だわ。あの少年の頑張りで、逃亡する兵士も増えるでしょうけど、一方で、行き場を失ったと自暴自棄になる兵士も出てくる。しかも狂信的な“暁の賛歌”もいるわ。上部組織の指導者を失い、自爆テロに走る者も増えるでしょうね」
エリスは勝ち誇った表情で、ナターシャを見やった。
「これから、どれほどの被害が拡大するか、見ものだわ。でもご心配なく。それに見合った賠償金は、必ず支払うから。あなたは、それで満足でしょう?」
エリスは耳障りな声で、再びせせら笑った。
「ブレードは諦めることにするわ。だって、あの少年のオモチャになっているうちは、あなたが、それを取り上げることは考えにくいもの。あなたの要求は、“火星の夜明け”の全面撤退でしょ?でも、それはわたしにできることじゃない。交渉決裂ね。でも、わたしは信じているわ。というより、今、わたしの脳裏に、あるビジョンが浮かんだの。ブレードは必ず、自力で復活する。もしくは、それに近い形で、必ず、わたしのもとに戻ってくる。その時は姉さん、覚悟することね。それから…」
エリスは表情を消し、死神のような虚ろな視線でナターシャを見つめた。
「あなたの寝床にも、注意を払った方がいいわよ。なんでも受け入れることは結構だけど、時にそれが命取りになることも、覚えておくといいわ」
その時、ナターシャはうつむき加減となり、瞑想するように瞳を閉じた。
「エリス、あなたこそ覚えておきなさい。ブレードは、因果応報により摂理と黄金律による鉄槌を受けた。あなたが、これ以上、摂理と黄金律に逆らう行為を続けるなら、必ずやブレードと同じ運命を辿ることでしょう。それは例え、人を超える存在であるオージンでさえ避けられないもの。あなたも例外ではありません…」
そしてナターシャは、星雲を見上げるように顔を上げ、両手を広げた。やがて光を放ちながら、星海の彼方に消えていった。
室内に暗闇と静寂が戻る。
エリスは、異様な眼光を闇に浮かび上がらせ、うめくような声を上げた。
「ナターシャ…あの死にぞこないが…」
エリスは、眼前の窓に広がる星海を睨み、血の繋がりも持つ仇敵を、ひたすら呪うのだった。