
群衆の奔流のような流れは、緩やかになりつつあった。
多くの避難民が、メディナスなどの宗教施設に収容され、戦火も小一時間前に比べれば、激しさを潜めている。
“火星の夜明け”の勢いが、止まっている…ファングを追うマルコにも、それを感じる冷静さはあった。人がまばらになり、銃声やロケットランチャーの飛び交う音が、一時より減ったからであった。
ただ、人混みが減った分、ファングの足は速くなる。親子ほど歳の離れた彼を追うのは、並大抵ではない。それでもマルコがファングの背中を見失わなかったのは、ファングが都市部の重力に、未だに不慣れであったからである。
その足取りは、やがて重りをつけたかのように失速した。袋小路に入り、煉瓦の壁に行く手を阻まれた時には、息も絶え絶えであった。肩が大きく揺れ、荒い呼吸が、汗や涎とともに黒い石畳に叩きつけられる。
ファングを追い詰めたマルコも、息があがっていたが、時間を置かず、ファングより早く息が整った。職業柄、そこは年季の入った鍛え方をしているのである。
マルコは、じっとファングを見つめていた。
が、正確には、観察していると言ったほうが正しかった。
彼が“火星の夜明け”のメンバーとなったことは、ほぼ疑いはない。しかしその結果、彼の考え方、行動パターン、感情…等々、どのように変化したのか?それを見てとらないことには、迂闊な対応はできないとマルコは考えた。
だから、最初に口を開いたのは、息が上がったままのファングであった。
「なに…見てやがるんだよ!」
獰猛な一言であった。マルコを睨みつける目も血走っている。
マルコは、「フッ」と鼻をならし、そしてニヤっと、その口元を歪めた。
その様子を見て、ファングはなお苛立った。
「相変わらず、いけすかねえ顔だぜ!アルフハイムくんだりまで、俺を追ってきたのかよ?」
マルコは、ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。そして、煙を吐き終わるまで口を開かなかった。
その余裕とも取れる態度に、ファングは増々、苛立ちを募らせた。
しかしそれとは裏腹に、マルコは迷い、そして戸惑っていた。
気がつけば、ジェシカとはぐれ、メディナスからもかなり遠ざかっている。
その向こうに林立する高層ビル街の、大使館のあるエリアなら、なおさらである。
この獰猛な野犬を引っ張り、あそこまで戻る余裕などあるのか?せめてジェシカと合流して、彼女の携帯する拘束具をつけなければ、とても捕縛する自信などなかった。
では今、彼を捕縛することが必要か?と言えば、必ずしもそうとは言い切れない。
マルコの任務はあくまで、ジェシカの監視である。ファングが幅を利かせ、のさばっていたスラム街の管轄は、その任を解かれている。だからと言って、このまま放置もできなかった。
なぜなら、彼は曲りなりにも、ヴァルハラ市民だからである。ヴァルハラの市民データには、イワノフの扶養に入る形で彼の名は記載されているのだ。
だから、“火星の夜明け”という犯罪集団のメンバーであることが明白な以上、ヴァルハラ市民の犯罪者という形になり、その国家の禄を食む警察組織の人間であるからには、彼を逮捕する義務は間違いなくあった。
だだ…それは、国家に忠誠を誓い、恐ろしく職務に忠実であり、そして職務を全うできないことに、良心の呵責が耐えられなくなる…そう、例えばジェシカのような警官なら、その義務を果たすことに躊躇なく全力を注ぐことだろう。
マルコは違った。
国家に対する忠誠は薄く、職務は怠慢、そのことに対して良心の呵責など一切もない。
そして時に辛辣な言葉で、為政者の批判をする。そんな男が、放置しても差し支えのない義務など、果たす道理もなかった。
だからこそ迷うのである。
目の前の少年が、ファング…マーキュリーでなかったなら、一顧だにしなかったことだろう。そして今頃は、ジェシカと軽口を叩きながら、メディナスの偉容を眺め、のんびりとタバコを吹かしていたに違いないのだ。
今、彼の喫煙は、“のんびり”とは風情も味も異なるものだった。
ただ心を落ち着かせ、頭を冷静にするための“作業”でしかなかった。
そして、再会したファングに対して、第一声はどういう言葉が適切か?それを探るための沈黙に、欠かせない行為でもあったのである。
「…やれやれ」
散々、考えた挙げ句、出てきた言葉がそれだった。
「ガキの戦争ごっこのお守りまで、今回の任務にはなかったんだがな…」
ファングは、荒い息もそのままに、マルコを睨みつけている。
「周囲を見ろ。混乱は収束に向かい、どういうわけか、銃声も今はまばらだ。日も暮れてきたし、お遊びの時間は、もう終わりだな。ガキは家に帰る時間ってことだよ」
マルコは、タバコを地面に落とし、靴底で火をもみ消した。
「家?」
ファングはせせら笑った。
「あんたのいう家ってのは、あの薄汚ねえスラム街の、ビルの隙間のことを言ってるのか?ハッ、あいにくよう、政府が俺たちの街に、ミサイルをぶち込んでくれたおかげで、全部消し飛んじまったよ。なのに、どこへ帰れっていうんだ?」
ファングは、地面を蹴った。
そしてニヤッと笑った。
「けどよ、新しいねぐらなら、すぐに見つかったぜ。この星で一番、高い山の麓にな。快適だぜ、なにしろ、喰うに困らねえ上に、うまい酒やタバコにもありつける。俺たちに何もしてくれなかったばかりか、豚箱ばかり入れやがったヴァルハラとは、天国と地獄だぜ。何よりよう…」
ファングは、ポケットに手を突っ込み、前屈みになりながらマルコを下から見上げるように睨み、そして嘲笑った。
「人間を虫けらみたいに、殺し放題さ。それが許されるってのもいいぜ。俺にとっちゃ、こんな快適な居場所はねえよ。だからさ…」
ファングの瞳が、獰猛に輝いた。
「今さら、ヴァルハラに戻る気はねえ。イワノフもいねえし、住処もねえ場所に、俺が帰る場所なんか、どこにあるっていうんだ!」
そしてファングは「ヘッ」と言葉を吐き捨てた。
「解っただろ?もうヴァルハラに帰れよ。俺はよう、今、忙しいんだよ。スラム街にいた頃より、自由を満喫してんだ。なにしろ…」
ファングはゲラゲラ笑った。
「戦争が面白くてよう、人殺しが止められなくてよう、もう、楽しくてしょうがねえんだ、ハハ!」
そしてファングは、マルコに顔を近づけて毒づいた。
「…解ったかい?おっさん。その薄汚ねえ顔で、俺の保護者面はやめな。知った顔だからっていい気になるな。あんたなんか、この銃ですぐに殺せるんだからな」
ファングは、そのポケットから銃身の短い銃を取り出して、マルコに向けた。
銃を向けられても、マルコは微動だにしなかった。
「どうしたよ?ビビっているのかよ?」
ファングの挑発に、マルコはただ、溜息をついただけだった。
「ビビっているのはお前だ、手が震えてるぞ。あと、見え透いた嘘は止めるこった。戦争が面白くて、人殺しが止められないなら、なぜお前は、青い顔をして1人で彷徨いていた?」
「あっ?青い顔なんてしてねえ。1人だったのは、仲間とはぐれただけだ」
マルコは、「フン」と鼻で笑い、ファングを面白いものでも見るような視線で見やった。
「お前に、人殺しなんてできる度胸はねえよ。その震える手はなんだ?怯えた目つきはなんだ?そんな奴に、人の命なんか奪えやしねえ。本当の人殺しは、恐ろしいくらいにクールで落ち着いているし、目つきもそんなんじゃねえ。お前のやっていることは、所詮、ごっこ遊びだ。そんな感覚で、本物の戦場に来ちまったもんだから、青い顔して、吐き気が抑えられなくなっているのさ。こんな事はもうすぐにやめろ。そうすりゃ、楽になる…」
マルコは一歩、ファングに近づいた。
「…!寄るな!」
ファングは、銃を構えたまま、引け腰で一歩下がった。
マルコは笑みを浮かべ、ファングの銃に手を伸ばした。そんな大胆な行動が取れるほど、彼はファングに対して、優位な心持ちだったのである。
その時…!
ファングは、マルコの後ろに佇む人影から、鳴り響く銃音と共に火が噴き出るのを見た!
次の瞬間、マルコの肩口から、真っ赤な鮮血が吹き上がった。
マルコは短く「ウッ」と唸り、その場にドサリと倒れた。
「…!あっ!」
ファングは驚愕に目を見開き、朱色に染まったマルコを見下ろした。
「ファング!大丈夫か!」
その声を聴いたとき、ファングは二重の驚きを隠せなかった。
それは、ファングと共に、アルフハイム攻略戦に参加していた弟分のアレンだった。
ファングは駆け寄ってくるアレンを、惚けたように見つめた。
「無事か?ファング。なんか、やられそうで危ない雰囲気だったからよう…うん?こいつ?」
アレンが、訝しげにマルコを見やったその時!
再び銃声が鳴り響き、次の瞬間、アレンの頭が血しぶきを上げた。
そしてマルコに重なるように、その場にドサリと倒れる。
「…!!あっ…ああ」
ファングは言葉が出なかった。
「よし!殺ったぞ!」
無数の足音が、こちらに近づいてくる。
「ようやく、仕留めたな。すばしっこい奴だったぜ」
「おい、そこのお前!手を挙げるんだ!」
武装した5人ほどの兵士だった。アルフハイム自警組織の兵士たちである。
彼らは、ファングに銃を向けながら、アレンの骸を睨んでいる。
「こいつのせいで…ショーンがよう…」
「言うな。もう敵は取ったんだ。おい、お前。手を挙げろって言っただろ?早く、銃を捨てて、投降するんだ」
ファングは…動かなかった。
ただ、その男たちと足下のアレンの骸を交互に見やっていた。
「おい、こいつ、腰が引けて…硬直しているぞ」
「新兵か?しょうがねえな。まずは銃をそこに放りなよ」
兵士たちの1人が、ファングの銃に手を伸ばした…まさにその時だった。
ファングの中で、何かが弾けた!
「うわあああああああ!」
ファングの叫び声と共に、大量の鮮血が、その場に飛び散った。
そして黄昏の空には、無数の銃声がいつまでもこだましていた。
吹き荒ぶ風が砂塵を舞い上げ、夕暮れの赤い大地に、人影がどこまでも伸びていた。
彼女の眼前には、倒壊し荒廃著しいハイウェイの残骸が横たわっている。
廃墟と化したハイウェイの影から、子どもたちの笑う声が聞こえてくる…が、それはしかし、“現在”聞こえてくる声ではなかった。
遠い過去、彼女が、この星をさすらい始めたある時期から、刻を超えその脳裏に蘇ってくる声であった。
その吹きつける風も、荒れ果てた廃墟も、黄昏に染まる赤い大地も…。
彼女の意識は、時空を超え、過去に飛び、彷徨い、そしてそこに存在していた。
子どもたちの笑い声は、風が吹くたび、大きくなり小さくなり…やがて、その大地に悠久の年月を刻んできた風は、地平の彼方にそれをさらい、轟々と荒野に吹き荒れた。
彼女の意識が“現在”戻ってきたのは、闇の彼方から妹の声が響いた、まさにその時だった。
「アローラ」
エリスは、冷たい表情でこちらを見やっていた。その闇に浮かぶ白い肌は、氷のようでもある。
「また“刻”を超えて過去に耽っていたのね。そんなこともう、お止めなさい。エネルギーの無駄よ。あなたは、わたしを引き籠りとか言うけど、わたしからすれば、あなたのほうこそ、自分の世界から抜け出せない引き籠りよ」
アローラは眼を見開くと、その琥珀色の瞳でエリスを見やった。
「エリス、わたしは過去に飛んでばかりじゃないわ。今、この火星で起きていること、わたしが何も知らないとでも思っているの?ブレードはお気の毒ね。あの男がいなくなれば、あなたは当面、身動きがとれない」
エリスは、氷のような瞳を鋭利に光らせ、アローラを睨んだ。
「身動きがとれないのは、あなたのほうじゃないの!かつては、火星全土のあらゆる場所に出没し、文化や芸術などという、不要かつ汚らわしいものを広げた“オージン”が、今はどうなの?その足に架した“グレイプニール”で、エネルギーの大部分を奪われ、出来ることといったら、空想に耽り、つらい過去にメソメソするくらいじゃないの。もっとも…」
エリスは口元を歪めた。
「そんなことをしてもしなくても、あなたには、かつてほどの力はないわ。あなたは人間に近づき過ぎたのよ。人間どもと逢瀬を重ねるごとに、あなたは偉大な“オージン”としての力を失った。そして人間どもの悲哀に感化されすぎてしまった。考えてもごらんなさい。ヴァルハラのスラム街で戦火が広がった時、ブレードはあなたにこう言ったはずよ。“あなたの妹君にお会いいただきたい。それさえ了承いただければ、この戦火を沈めることをお約束します”と。そして、あなたはブレードの要求を飲み、終戦と引き換えにわたしの手に落ちた。以前のあなたなら、考えられないことだわ。そうよ、以前のあなたなら人間どもを見捨て、ブレードが迫る前に、ヴァルハラを去っていたはずだもの」
エリスは勝ち誇った表情で、アローラを見据えた。
「さらに言うなら、遥か以前のあなたなら、ブレードらガーディアンたちの力など恐れることもなく、逃げる必要もないくらいの力はあった。いくらあなたが、“戦い”という、生命にとって根源的な、必要不可欠の行為を極端に行使できない生命体だとしてもね」
そして、ツカ、ツカ…と、アローラに近づき、その顔を覗き込む。
「“オージン”ともあろうものが、本当に落ちたものだわ。ナターシャ姉さんといい、あなたといい…どうして、出来そこないばかりなのかしら?でも、それももう終わりよ。これからは、新しい時代が始まる。火星の女神、真の“オージン”は、このわたしよ」
「エリス」
アローラは、目の前にある、自分と瓜二つの顔を睨んだ。
「出来そこないは、あなたも同じよ。“オージン”こそ、人類を導く“神”と自認するなら、人間に必要以上の干渉はしないことね。でもあなたは、干渉どころか、人類をすべて己の支配下に置こうとしている。“オージン”を創造した科学者たちは、“オージン”をそのような存在として創造したわけでは、けしてなかった。あなたの言うとおり、わたしもナターシャも、“創られた神々”としては、失敗作だったかもしれない。でも、創造主の科学者たちにすれば、あなたも同じよ。結局、わたしたち“オージン”三姉妹は、すべて出来そこないね。本来なら、この星を正しい方向に導き、人類社会を発展させ、人類を幸せにすべき使命を持って生まれたのがわたしたち。しかしわたしたちは、この星を正しい方向に導き切れず、社会を発展させ切れず、人類に幸せどころか、悲しみをもたらしてしまった。こんなわたしたちはもう、滅びたほうがいいのかも知れない」
「…」
エリスは、不思議なものを見るかのような視線で、アローラを見つめた。
「何を言っているの?この星は発展したわ。遥か過去に比べれば、この星の経済は潤い、幸せな人も増えてきたじゃないの?あなたは、盲目なの?その気色悪い琥珀の瞳で、この星の何を見てきたの?冗談じゃないわ。とても、あなたの虚ろなニヒリズムには、付き合えない。この星が、間違った方向に進んでいるというのなら、それはあなたやナターシャのせいだわ。あなたたちがしてきたことで、実を結んだものなんて1つもないじゃない?この星に人類が新たな歴史を刻み始めた当初、人々は、飢えと低重力と厳しい風土に、苦しんでいた。とても明るい未来を見通せる状況になかった。そんなこの星の経済を発展させ、飢えや低重力や厳しい風土から、人類を解放したのは誰だと思っているの?すべては、わたしじゃないの!この星に住まう生きとし生けるもの全てを救ったのは、わたしだわ!あなたたちは、何もしてこなかった。何も出来なかった。わたしは違うわ。これからも未来永劫、火星の赤い大地を、発展させ救済する神であり続けるわ。そんなわたしに、全ての者は従うべきよ。逆らうものは、容赦しない。例え、あなたやナターシャでもね」
エリスの瞳が、氷の炎のように燃え上がった。
「エリス…」
アローラは、唇を噛みしめるだけだった。
エリスはなお、不遜な眼差しをアローラに向けた。
「もう、あなたとのおしゃべりは、これで終わりよ、アローラ。わたしは、忙しいの。ブレードがあんな風になってしまったから、これから火星に戻らなければならない。その間にあなたには、ダイモスで眠っていてもらわ」
エリスは、かん高い声で笑った。
「ここにはね、“氷床”と呼ばれる冷却システムがあるの。宇宙船ユミルのメインエンジンを冷やすために開発されたものだけどね。わたしは、アーカイブからそれを研究して、冷凍睡眠もできるシステムも付け加えたのよ。これからあなたには、そこに入ってもらうわ」
そして凄みのある笑みを浮かべ、口元を歪めた。
「さあ、いらっしゃいな。白馬の王子様が口づけをしてくれるまで、永遠に眠るといいわ。もっとも、あなたの白馬の王子様なんて来ないわよ。なぜなら…わたしが彼を、八つ裂きにするんだから」
その時!
アローラの瞳が、炎のように燃え上がり、その細い右腕がすっと、エリスの喉元に伸びた!
「…!」
エリスは、憤怒の表情を浮かべ、その喉を握り潰さんとする手を握りしめた。
「アローラ…!」
エリスの瞳が、驚愕と憎しみに燃え上がる。
「エリス!!」
アローラの緩やかな黒髪が、今にも逆立ちそうに揺れた。
「ユウキに手を出したら、あなたこそ、わたしの手で八つ裂きにしてやる!」
エリスはうめいた。
「どこに…こんな力が…!」
「エリス!覚えておくことよ。あなたのその驕り高ぶりが、やがてはあなたの身を滅ぼすということを!この数百年、わたしが撒いてきた種が芽吹く時…その時が…あなたの最後…だから…」
やがてアローラは、糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
「…」
エリスは、憤怒の表情を浮かべたまま、アローラの手首を握りしめていた。
やがてその手を、投げつけるように離すと、ヒステリックに叫んだ。
「こいつを!この出来損ないを、早く“氷床”にぶち込んで!!」
やがてその声に応じるように、2体のスぺクターが部屋に入り、アローラの身体を引きずるように運んでいく。
エリスは、骸のようなアローラの身体に、憎しみを込めて言葉を投げつけた。
「お前こそ!滅びるがいい!」
そしてエリスの周囲に、静寂が訪れる。
その頭上には、火星の衛星ダイモスを照らすように、無数の星が瞬いていた。