
暗い部屋には、ほのかな光が漂っている。
それはその男の背中を闇に浮き彫りにしながら明滅していた。部屋の外からは喧噪が聞こえてくる。その部屋は古いイスラム様式の建物の一角にある。そこから一歩足を踏み出せば、様々な人種と様々な異形とが混然としたまだら模様をなす商店街だった。
男は、その見事に鍛え上げられた背中の筋肉を覆うように、黒いジャケットを羽織った。大柄な体躯である。伸ばし放題の黒髪をまとめ上げるバンダナは、ニシキヘビのまだら模様のように不気味なデザインだった。
暗闇を不規則に飛び回っていた光は、やがて色を変えて左右に開き、長方形の画面へと変貌した。そこには彼の部下が見慣れた顔つきで写っている。
「ワルキューレが動いています。ヴァルハラ西部一帯に展開している模様。仲間の集結を待っていては間に合いません。速やかにスラム街南部に移動するのが上策かと…」
「…わかった。部隊をまとめろ。集結が遅れている同志たちには、南部に結集するように伝えろ」
「了解」
「目標は“バベルの墓所”。それに変更はない」
「…了解」
瞬時に画像が閉じ、また漂う光に戻る。
その明かりは、男のニヒルな笑みに歪む口元を闇に浮かべた。
「…予定より早まるな」
蝶のように舞っていたそれはやがて光を弱め、男の腰にベルトで装着された金属製の器機に収納された。いにしえに伝わるウィルオーウィスプのようなそれは“ホタル”と呼ばれている。休息時にはリラクゼーションの効果を発揮し、緊急時には通信機として機能する。この星でこれを運用している組織は極めて少ない。それほどの最新器機であった。
「火星の夜明けは近い…」
そうつぶやくと男は暗闇から抜け出るように部屋のドアを観音開きに開いた。テラスが広がり日光が男の横顔を照らす。
テラスの欄干の下では、赤い土煙と共に人々の息吹が渦巻いていた。
瓦礫が散乱する廃墟の中は、風もなく静寂だけがあった。
その中を三人の武装した兵士が、音をたてまいと一歩ずつ砂礫を踏みしめながら、辺りを警戒しながら歩く。彼らの標的には、光学迷彩がいっさい通用しないので、今はオフにしている。
むだなエネルギーの消耗は避け、標的を包囲しながら追いつめていくしかない。
その頭部はフルフェイスのヘルメットで覆われている。赤外線スコープの機能があるツインアイは、閃光など極めて強い光から両目を保護する役割があった。灰色のジャケットの下は合金の体なので、下手な銃器は通用しない。しかし、ターゲットはそれをものともしない殺傷兵器を持っている。だから一瞬たりとも気が抜けないのだ。
「008,応答しろ。ジェシカだ」
電脳通信で彼らの隊長であるジェシカから通信が入った。頭部にマイクが響くような感覚だった。
「シミュレーションで確実視されるターゲットの位置まで、約50メートル。まだセンサーには反応がありません」
「警戒を怠るな。こちらも南正面から入る」
「了解…あっ???」
それは一瞬だった。
気付けば廃墟の隙間から、鋭利な刃が伸びていた。そしてその合金の体を貫いている。次の瞬間、刃は跳ね上がり、その体を真一文字に切り裂いた!血しぶきと潤滑剤、そして導線のたぐいが、その切り口から勢いよく吹き出した。
残りの二人が構える間もなく銃声が響く。風が抜けるような轟音!二人の胸を貫いたのは同時だった。人形が崩れ落ちるように兵士たちは倒れる。
その場に立っていたのはエインとライアだった。二人は、足元に転がる三体の骸を冷然と見下ろすと、足早に走り去った。
「…」
廃墟の南側では、七人の兵士が待機していた。
隊長のジェシカは、三人の部下が一瞬で倒されたことを悟った。ヴァルハラ警察特殊部隊、通称ヴァストの構成員は、選りすぐりの精鋭、しかも全員が武装したサイボーグである。そして先攻した三人はジェシカの部隊でも経験豊富で優秀なソルジャーだった。それをいとも容易く葬る、ターゲットの強大さに、あらためて慄然とする思いがした。
「…電脳通信でセンサーの反応が途切れる合間を狙われたか」
ジェシカは舌打ちした。
センサーの性能では向こうが遙かに上回るようだ。有効範囲の広さだけでなく、正確な敵の情報を、瞬時に掴む能力がなければ出来る芸当ではない。
「隊長、おそらくターゲットはこの廃墟の屋上から、となりの建物に移る筈です。包囲は中止して、そこを待ち伏せしましょう」
隣で待機している部下がそう進言した。
「…よし。シミュレーションで奴らの行動ルートを割り出せ。007、北側から進入している0012、および0013、0014に作戦変更を伝えろ」
「了解」
部隊のメンバーは全員フルフェイスのヘルメットを被っている。しかしジェシカだけは素面だった。人工の彼女の両眼は、それを必要としない機能を有しているからである。
彼女のその頬は恐ろしく青白く、両眼の奥には氷の炎が燃え立っていた。
「…こんどこそ破壊してやる」
憎しみをこめてそうつぶやくとジェシカは、ブロンドの髪をなびかせながら、廃墟の外に向かって歩きだした。
「…しつこい犬どもだぜ」
ヱインは悪態をついた。
「彼らは二十年前の戦役でわたしたちを犯罪者と認識した。当然のことよ」
ライアは人工頭脳の中に内蔵されたセンサーで、忙しく索敵を行っていた。
「わたしのデータでは、敵は十四人。三人を倒して残りは十一人」
索敵を行っている間、ライアの瞳孔は開き、鈍い白色の光を放っていた。
「彼女が…アローラがヴァルハラに現れた頃から、ヴァストは網を張っていやがった。まったく、おとなしく出来ないのか、あのガキ」
「…マスターを罵倒するのは控えた方がいい」
ライアがたしなめると、ヱインは「へいへい」と首をすくめた。
「彼女は千里眼よ。あなたの文句も今頃、キャッチしているわ」
「かまうもんか」
そう吐き捨てるとヱインは、葉巻を取り出した。そしてくわえながら火をつける。
「ライア、奴らの様子はどうだ?」
「…変ね」
ライアはその表情をまったく変えず答えた。
「センサーには反応がない。一人も…」
「…ほう」
ヱインは葉巻の先から昇る煙を見つめながら思案した。
「建物伝いにヴァルハラ南部に入ろうと思ったが…」
フーっと煙を吐き、ヱインはライアを見やった。
「ルート変更だ。下に降りて下水道を使うぞ」
ライアは索敵をやめた。瞳孔は閉じて普段の鋭利な瞳に戻る。
「ヴァストの隊員は行動シミュレーションができる。下水道は袋小路よ。待ち伏せされたら詰むわ」
「だからさ」
ヱインは笑った。
「行動シミュレーションは確率の高いルートを割り出す。裏をかくんだ。まさか、こちらが不利になるようなルートをシミュレートしないさ」
ヱインは葉巻を投げ捨てた。そしてその青い瞳を爛々と輝かせながら、下に降りる階段に向かう。
「知らないわよ。どうなっても」
そう言いながらもライアはヱインの後につく。
「かけてみるさ。いやなら他のルートで行けばいい」
「わたしがそうすると思って?」
二人は足早に階段に向かう。そしてツカツカと下に降りる音が響いた。
やがて静寂が訪れ、ヱインが吐き捨てた葉巻だけがかすかな煙を立てていた。
ユウキはトラックを廃墟の脇に止め、芋などの食料品、毛布や衣類を大量に抱えながら降りた。もちろんこの前の失敗を二度と冒さないように、携帯金庫と電磁鞭はナップサップの中だ。
下水が流れるその先には、孤児たちが住まいとしている廃墟がある。みんな小さな子どもたちなので健康の心配もあった。だからナップサックには、携帯金庫と電磁鞭の他にビタミン剤などの薬も詰めていた。
下水を避けながらしばらく行くと、例の女の子が立っているのが見えた。
いつも笑顔を絶やさない子だが、今日は表情が暗い。
「よう。どうした?兄ちゃんたちは元気か?」
ヨツンヘイムへ仕入れに行くなど仕事が多忙だったので、ここに訪れるのは久しぶりである。抱えている食料や毛布、衣類などは全てユウキの実費だった。今月は思いのほか収益があった。そしてここの事を思い出し、物資を大量に買い込み様子を見に来たのである。
女の子は無言のままだった。
やがて手招きをして下水の奥に走り出す。ユウキは手荷物が一杯なので、彼女に付いて行くことができない。それでも懸命に走った。
(あの子…おしだな)
ユウキは彼女が喋っている様子を一度も見たことがなかった。
だから、ふとそう思ったのである。
孤児たちの住居につくと、みな暗い顔をして座り込んでいた。ユウキが廃墟の中をのぞくと思わず目を見開いた。
少年が二人、横に倒れている。一人は仰向け、一人はうつ伏せだった。
ユウキは荷物を放り出し、仰向けになっている少年を介抱した。
「…死んでいる」
悲しい目でその子の頭をそっと降ろし、両手を胸に合わせた。そして立ちあがりしばらくその子の死に顔をみつめた。その後、うつ伏せの子を介抱する。
その子はまだ息があり、体も温かった。しかしその幼い命は、風前の灯火である。
少女がユウキの後ろにきて、それをじっとみている。ユウキが立ち上がると不安げに彼の顔を見上げた。
「…大丈夫、きっと助かる」
その言葉は気休めに過ぎない…それはユウキ本人が一番承知していることだった。
ユウキのナップサックには様々な種類の薬がある。しかし、どれもこの子に効く保障はない。まず水を…と思い、携帯していた水筒のフタを開けた時である。
「水を飲ませてはだめ。末期の水になってしまう」
振り向くと…そこにはアローラがいた。
「…」
いつの間にここに来たのだろう?ユウキはまるで気がつかなかった。
アローラは瀕死のふちにあるその子の側にひざまずいた。そしてその手を、その子の胸にそっと置き、ゆっくりと下腹部まで移動させる。そしてまた胸のあたりに戻していく。
しばらくそれが繰り返された。
すると…。
血の気のない顔が、みるみるその色を取り戻していく。そして虫の息だったのが少しずつ、呼吸が深くなっていくのがユウキにも見てとれた。
「もう大丈夫」
アローラは立ち上がり、その琥珀色の眼差しを向けて、その子を見下ろしていた。
「水をあげてもいいわ。もう少ししたら、栄養価の高い食事もさせてあげて」
「ああ」
ユウキは急いでその子の頭を抱きかかえ、水を口に含ませた。
水が喉を通る音が聞こえてくる。コップ一杯ほどの水を飲み干すと、その子は「フー」と息をついて目を開いた。
ユウキはホッと胸を撫で下ろす。
「しばらくそっとしておいた方がいいね。食事はそれからだ」
ユウキは立ち上がると、他の子どもたちに芋などの食事を配った。それまで暗い顔をしていた少年たちの目が一斉に輝いた。
「やさしいのね」
アローラはポツリと言うと、ギターを背負った後ろ姿もそのままに、その場を立ち去ろうとした。
「待って」
ユウキはアローラを呼び止めた。
「ありがとう。助かったよ。ほら、みんなもお礼を言うんだ」
子どもたちはそれぞれのやり方で不器用に頭を下げる。ただ、例の女の子だけはニコリと微笑むだけだった。
「お礼なんて…」
アローラは振り向いて、なぜか悲しい目をした。
「本当はこんなことをしてはいけないの。その子の命は、自然淘汰で失われていくのがさだめだったから。それに干渉するのは摂理に逆らうこと。わたしの役目は本来、人の命を左右することじゃない。それにその子が今、命が助かったからと言って今後しあわせになるとは限らない」
「それでも君は、この子の命を救ったじゃないか?」
ユウキは不思議な面持ちで彼女を見つめる。そして目の前で起きた奇跡のような出来事に、まるで驚かない自分に気づいた。
ユウキ思わず、横たわる子どものほうを見やる。
一人は骸のまま。
一人はまた目を閉じて、すやすやと眠っている。
「あなたが一生懸命だったから。わたしの歌にもあるでしょ?“夜空に凍える子どもたち 暖めてあげたい”」
ユウキはハッと気づいて、思わずアローラの顔を見つめた。
「わたしの歌は祈り。この星の生きとし生ける者すべての祈り…でもそれをこんな形で実行に移す人は稀だわ。あなたはこの街の希望よ。だから…」
アローラは目を伏せ、視線を地面に落とした。
「最近、会いに来てくれないよね。どうして?」
「ああ、ごめんよ。仕事で忙しかったから」
ユウキは、やや斜めに顔を背けた。
「知っているのよ。わたしを知っている人たちが、あなたにわたしのことを話したのは…」
「…」
ユウキは無言である。
「わたしのことが恐くなった?」
ユウキは言葉に詰まり、そして思わず目を固く閉じた。
ヨツンへイムのシェーンの言葉が頭をよぎる。
(悪いことは言わない。彼女にはあまり関わらないほうがいい。君の身の安全のためだ。彼女は都市国家だけでなく、火星のあらゆる場所に現れる。そして失われた過去の歴史と文化をつむぎだし、歌い、そして人々に伝承していく…。ただそれは、ヴァルハラの支配者であるあの者にとっては、とても許し難いことなんだ)
「無理しなくていいよ」
アローラは寂しげに笑った。
「特殊な存在だからわたしは…そんなわたしと関わると面倒なことになる、ややもすれば身の危険にも繋がる…そう教えられたのね。いいわ。もうあなたには関わらないから。あなたはとてもいい人、この街になくてはならない人だから。そんな人を巻き込むのはわたしの本意じゃない」
アローラはまたくるりと背を向けた。
「さようなら」
「君は!」
ユウキはやっとの思いで口を開いた。
「君は…俺には何も話してくれない。自分が何者で…なぜ音楽を使って、あんなビジョンを人々に見せるのか?なぜ、病の子を治す力があるのか?どこに住んでいるのか?なぜ、僕が…ヨツンへイムである人と君のことを話したこと…それを君がなぜ、知っているのか?」
「…」
アローラは立ち止まった。
「君が自分のことを話してくれない限り、俺は君とどう接すればいいのかわからない。君がこの子を治してくれたことは感謝するし、君の音楽はすばらしいから、いつでも聴きに行きたいけど…君と親しくなりたいけど…今のままでは君を信頼できない。だから…」
「…」
「君のことを教えてほしい。俺も自分のことを話すから…。君と関わると面倒とか、身の危険があるとか…そんなこと俺には関係ないよ!」
アローラは振り向いた。そしてユウキを無言で見つめる。
「俺は、君と出会えて良かったと思っている。だから、君と友達になりたいんだ」
ユウキは微笑んだ。
廃墟に風が流れ、アローラの黒髪を揺らした。
その琥珀色の瞳は、心なしか輝いて見えた。