
そこは暗く重々しく、そして色彩豊かな光が闇に交錯する、不気味な空間であった。
ファングは喉の渇きを覚えていた。
地下数百メートル、もしくは千メートル以上深く、エレベーターは下り、その果てに辿り着いた空間がここであった。
部屋の奥、壁際の上部にそびえる三面の巨大ディスプレイ。黒々とした画面を流れる幾筋もの文字…。
その下に佇む巨大なセラミック製の白い御座…。
無数の導線を周囲に伸ばすその巨大な椅子に、彼女は座っていた。
(あれがエリス…ヴァルハラの女神か!)
ファングは、慄然としたものを覚えながら、違和感も覚えていた。
自分と歳もあまり変わらない少女。それがファングの印象だった。
そしてその顔は、暗闇の中でよく見えないが、どこかで見た記憶がある。
やがて彼女を照明が照らした時、ファングの曖昧な記憶は確信に変わった。
(あっ!“バベルの墓所”に来ていた…あの弾き語りの女!)
ファングは呆けた眼差しで、彼女を見つめた。
しかし、エリスがその凄みのある笑みを浮かべた時…!
ファングは、あの弾き語りの少女アローラとは、似ても似つかぬ存在であることを悟らざるをえなかった。
「あなた、アローラを知っているのね。大方、“バベルの墓所”でライブに浮かれていた彼女を見ているでしょうけど」
エリスは、ファングの胸の内を読み、ファングが驚き戸惑う様子を嘲笑った。
「わたしが、アローラに似ている理由は簡単よ。わたしたちは、三つ子の姉妹のうちの2人だもの。もう1人は、あなたたちが襲撃したアルフハイムにいるわ。ブレードがあるフハイムを襲撃した理由は2つ。1つは“ユミルの鍵”を奪うこと。もう1つは、わたしたち三つ子の片割れナターシャを殺すこと。あら?あなたたち、知らなかったの?ブレードから何も聞かされていないの?目的も知らないまま、アルフハイムで好き勝手狼藉を働き、無実な女子どもを殺傷し、銃弾を交わし、なんのために?戦っているのか分らないまま、血を流していたのね?呆れたわ」
エリスは嘲笑した。
ファングは言葉がなかった。
ファングの脳裏に、アルフハイムでの、あの出来事がフラッシュバックした。
(ジョバンナ!ジョバンナ!)
わが子の名を叫ぶ、母の声…。
背中から溢れ出る、赤い鮮血…。視点の定まらない虚ろな瞳…。
ピクッ…ピクッ…と、頸痺を繰り返す少年…。やがて、少年は静かに目を閉じる…。
そしてファングが、少年に手を伸ばしたその時…!
銃声が鳴り響き、その頭がはじけ、鮮やかな赤い花が咲いた。多量の鮮血が飛び散り、ファングの頬を染める!
そして背後から、冷然と響く声…。
(どの道、助からないんだ。せめてもの情けさ)
「…ご挨拶じゃないですか。“火星の夜明け”の出資者様だからといって、死んだ仲間たちを冒頭するような言葉はおやめください」
コーネリアの声だった。
「わたしも褒められたもんじゃないから言いにくいですが、仮初めにも、この街の女神さまというのなら、もう少し、言葉づかいというものがあるんじゃないですか?」
ファングは、瀕死の少年を撃った時のコーネリアとは、違う声音で、エリスに抗議する彼女を、ぼんやりと見やっていた。
エリスは玉座の上から、2人を面白そうに見比べていた。
「コーネリアと言ったか?お前のことは、ブレードからいろいろ聞いている。ハッキリ物を申すところは気に入った。だが、わたしの言うことも正論とは思わんか?お前は、かなり有能な部下であるらしいが、ブレードにただ妄信的に従うだけでは、お前の悲願であるアスガルドへの復讐など、達成することなどできんぞ」
コーネリアは、呆気に取られてエリスを見つめた。そして反論しようと何か言いかけたのだが、エリスが玉座より立ち上がったのを見て、思い止まった。
「人間という生き物は、2種類に分けられる。自ら考え、主体的に動き、そしてリーダーシップを取れる者、何も考えず、主体性もなく、ただ言われたことだけをこなす者…お前は、どっちだ?」
エリスは不気味な笑みを浮かべ、コーネリアを見すえた。
コーネリアは腕を組み、鋭い視線でエリスを睨んだ。
「エリス様とお呼びすれば、よろしいのですかねえ?あなたの言う通り、わたしは、ブレード大佐が何を考え、どういった目的と計画の元に動いているのか?まるで興味を持ったことなどありません。ただ彼の命令通りに従い、彼の指揮するところを忠実にこなしてきた。ただ、わたしは主体的に、そうしてきただけですよ。あなたがブレード大佐から、お聞きになった通り、わたしは、わたしの家族を奪ったアスガルドが憎い。特に総統のストロハイムがね。わたしにとって、アスガルドの為政者どもに復讐することは悲願、それ以外のことはどうでもいい。他に酒さえあればね」
それを聞いて、ファングは内心呆れた。
(この期に及んで…また酒かよ)
「ブレード大佐は、アスガルドをいずれ攻め滅ぼすと言った。それまでは、俺に従えと。わたしにとっては、それで充分ですよ。他のことなんか、何も考えたくはないし、興味もない。あなたの言う通り、わたしは何も考えず、ただ言われた通りのことをこなす、歯車のような人間でしょうよ。でも、それのどこがいけない?歯車がなかったら、“火星の夜明け”に限らず、どこの国だって、組織だって、動かせやしませんよ」
エリスは笑った。
「お前の言う通りだ。組織を動かす歯車がなければ、人間社会は崩壊するだけだ。わたしは、この星の99%の人間は、そうであるべきだと考えている。大多数の人間は、1人の強力なリーダーのもと、その指導に従い、余計な事など考えず、ただ歯車を動かし続ければいい。そこには対立概念などなく、究極に完成された人間社会の有りようがある。コーネリア、お前は正しいよ」
そして彼女は、また不気味に笑った。
「…」
ファングは違和感を覚えた。
究極に完成された社会というものがあるなら、人間はすべて、強力なリーダーのもと、何も考えない歯車に徹すればいい…。
(それは…そんな人間が?生きているといえるのか?)
ファングは、エリスが不気味な笑みを浮かべ、こちらを見やったのでそれ以上、思索するのをやめた。彼女が、人の心の内を読む“人にあらざる者”であることは、充分に思い知らされているからである。
「だが、それにも限度というものがあろう。歯車でも、その向かう行き先がどこにあるのか?最低限、知っておかなければ、優秀な歯車とは言えまい。お前たちは、最低限を割り過ぎている。それもブレードの教育が、特殊であるが故の弊害かも知れぬが…彼が復活したあかつきには、釘を刺しておかねばならんな」
「…」
コーネリアは、押し黙った。
「余計な口が過ぎたな。このままでは無駄に時が移ろう。まずはブレードの件だ。彼の首は持ってきたか?」
「あっ?こっ、ここに…」
ファングは慌てて、ブレードの首が入っている箱を差し出した。
「あちらの台に置け」
エリスが指さした場所には、ファングの肩の高さまである黒い正方形の物体があった。
ファングは言われるままに、箱の中からブレードの禍々しい首を取りだし、その黒い台の上に置いた。
ブレードの首は、精巧な作り物のようだった。
その肌は青白く、閉じた目は今にもカッと見開きそうでもある。長い長髪は、黒い台の上で放射状に伸び、台の上を這ずりそうな錯覚を覚えた。
エリスは玉座を降り、ブレードの首にゆっくりと近づいた。
そして彼女が、右手を挙げたその時!
黒い台が「チャプチャプ」と異様な音を立て始めた。
(!あの中に液体が入っているのか…)
エリスは、不気味な笑みを浮かべている。
「理解はできないかも知れないが、ブレードがなぜ、復活できるのか?胴体のない首だけの彼が?その理由やメカニズムを教えてやろう」
その異様な音は、規則的に揺れながら、徐々に大きくなっていく。
「元々、彼の身体は、人類が地球で生息していた頃に発達した、“失われたテクノロジー”の技術が応用されているものだ」
黒い台の異変は、徐々に激しさを増していく。エリスは構わず、言葉を続けた。
「火星に到達した人類は、地球とは異なる風土と、低重力による弊害を克服するため、一部の人間は、己の肉体を人工物に変えて歴史を歩んできた。機械工学、バイオテクノロジー…などなど、身体の人工化は、あらゆる科学の分野を統合させ、発達させて今日がある。中でも、われわれ“オージン”3姉妹は、バイオテクノロジーの行き着く先が生み出した、究極の形でもある。しかし、人工的に生命体や、義手義足、内臓器官、脳などを生み出していくにも限界がある。われわれ“オージン”のように、永遠の命を獲得できるのならいざ知らず、特殊な細胞に由来するバイオロイドでは、所詮、この星の風土や低重力に絶えられず、奇形化や病、短命は避けられないからだ。だからこそ、身体の人工化は、機械工学によるものが主流を占めるようになったのだ。しかし、機械工学とバイオテクノロジー。一見すれば、対極的な科学技術を融合させ、特殊な人工身体を生み出す技法が、ヴァルハラのアーカイブに眠る“失われたテクノロジー”の中にあった。その技術で創造されたのが、このブレードの身体というわけだ」
エリスの言葉は続く。
「彼の身体は、形状記憶合金の如く、あらゆる形状にその形を変えることが可能だ。そして、個体であるだけでなく、液体にもな」
「!なんだって!?」
コーネリアは仰天した。
エリスは哄笑して、その中で異様な変化が進行している黒い台を見やった。
「アルフハイムでは、首を切り離されたブレードの身体が消えたと、大騒ぎになったそうだな。それもそのはず。彼の身体は、あの黒い箱の中でうごめく、液体と化したのだから。彼の身体は、その機能を停止した後、自動的に液体化するよう、プログラムされている。彼の身体は、液体になったのち、遠隔操作で床を這い、地面に染み、そして下水に入って、アルフハイムを脱出した。後は、アルフハイム郊外で待機していた、わたしの腹心たちが、それを回収したというわけだ。回収された液状の彼の身体は、再びプログラミングし直さなければ、復元はできん。その復元作業は思いの他、早く完了させることができた。あとは、切り離された彼の首。それがあれば、彼は完全に復活を遂げることができる。今は、その最中というわけだよ」
「…!」
コーネリアは、言葉がなかった。
やがて「ドボン」という音が弾けて、台が揺れた。
次の瞬間!
箱の上部が割れ、二本の腕が伸びて、ブレードの首を掴んだ。
「あっ…ああ!!」
ファングは思わず、その場に尻餅をついた。
やがてブレードの首を持つ、その両腕は、下にゆっくりと沈んでいく。
そして、その首が黒い台の中に消えた、ものの数秒後…。
「ガシャン!」と大きな音とともに、台が割れた。
コーネリアとファングは、そのあまりに信じられない光景に、色を失った。
割れた黒い台の後に現れた者…彼は片膝をついていた。
そして…ゆっくりと立ち上がった。
隆々とした筋肉を誇る巨躯。炎のような長髪。そして、ニヒルに歪む、傲岸不遜な笑み…。
「手間をおかけしました、エリス様」
その男は、やがてゆっくりとエリスに歩み寄ると、彼女の前で再び、膝をついた。
コーネリアはただ目を見開き、復活したその男を見つめ、わなわなと震えている。
ファングは尻餅をついたまま、開いた口が塞がらないという体であった。
「…ブレード…大佐」
やがてコーネリアの口をついて出た言葉に、エリスは満足げな笑みを浮かべた。
そしてその魔人の復活を、高らかに宣言した。
「ブレードはここに復活した!アルフハイムのヱインとライア、そしてナターシャも!アスガルドのストロハイムも!覚悟を決めるがいい!そして、やがては血の海、火の海に沈むがいいわ!」
その地獄から響くような、エリスの言葉に、コーネリアとファングは、ただ慄然として打ち震えるのみであった。
ナターシャは、瞑想するように瞳を閉じていた。
やがてゆっくりと、目を見開くと、遠くダイモスの荒野や岩の連山を望んだ。
「ブレード。これほど、早く復活を遂げるとは…」
風になびくように、彼女の栗色の髪が揺れた。
「ユウキ…。それにアローラ…」
ナターシャは、眼下に広がる、火口のような縦穴を見下ろした。
ユウキが、アローラと邂逅するために降りていった、どこまでも深い暗黒空間である。
「あの2人にとって、また大きな障壁がたち塞がるのね」
そこは、ナターシャの精神世界だった。
空には満点の星空。
どこまでも続く岩と荒れ地の荒野。
現実の衛星ダイモスとは、寸分違わぬ、光景がそこに広がっていた。
ただナターシャは、この星の真下に広がる赤い大地が、今再び、血の雨が降り注ぎ、炎の波が打ち寄せ、そして悲しみの風が吹き抜ける様を予感した。
それはナターシャの青い瞳の奥に、現実世界の出来事のように広がっていくのである。
ユウキの身体は、暗い海底に沈むように、静かに縦穴を降下していた。
どこまでも深く、そして暗いこの空間は、果てしなく暗闇が広がっていくかのような錯覚させ覚える。
しかし!ユウキがそれを目にした時…。
その不安は消し飛び、衝撃がそれにとって変わった。
(これは!)
暗闇の中で、ぼうっと浮かび上がる、巨大な構造物。その壁面は、ほのかな赤い蛍光色に覆われていた。
赤い輝きを放つそれ自体が、まさに生命を宿しているかのようだった。
ユウキは、それが深い縦穴の底から、立っているように感じた。
最初に目にした先端部は、円錐形のそれであり、幅にして30メートル。しかし、底に降りれば降りるほど、その幅は太さを増し、複雑な構造を見せていった。
とてつもなく太いパイプ。それが無数に上下に伸び、パイプの両端は、巨大な球体になっており、外壁に強固に張り付いている。パイプとパイプの間には、縦に窪みがあり、黒々とした縦線を形成していた。
そのさらに下には、巨大な円柱が何本も束になり収束して、滑らかでつやのある丸みを帯びていた。
ユウキは、この巨大な構造物…宇宙船ユミルを目の当たりにしたのは、これが初めてではなかった。ヱインやライアと共に、アローラを救うため、ターミナルタワーに決死の潜入を果たしたあの夜…。アローラが星船と共に、星空の彼方に消え、絶望の末に意識を失ったあの夜に、それは、エリスと共に夢に現れ、膨大なエネルギーの発動と同時に、今にも星の大海原に飛び立とうとしていたからである。
ナターシャは、この巨大な船の下にアローラがいるという。
ユウキは、その巨大な船体を横目に、さらに降下を続けた。
やがて巨大なエンジンノズルが無数に並ぶ、縦穴の最下層が見えてきた。
ユミルの船体そのものは、幾つもの頑丈な支柱で支えられているため、ノズルとの接地面は、大きな隙間が空いていた。そこは縦穴の最底辺でもある。
ユウキが、その縦穴の底を見下ろした時、とてつもなく冷えた空気が上昇してきて、思わず身震いをした。
縦穴の底は、一面に青白い光がほのかに広がり、とてつもない冷気に覆われていたのである。
(…)
ユウキは、そのさらに下に空間があり、そこにアローラがいることを確信した。
ユウキは、冷気をものともせず、さらに降下を続けた。
やがて、青白く冷えた底を突き抜けたユウキは、その真下に広がる空間に降り立った。
そこはさらに冷気が充満した、暗くそして広い空間であった。
見渡せば、青い光を放つ無数の巨大な柱が林立し、天井を支えている。空間の周囲には、光ファイバーの点滅が暗闇の中、幾筋も走っていた。
「アローラ!」
静寂と暗闇、そして冷気を破るように、ユウキは大声で、その名を呼んだ。
ユウキは静かに、青い巨柱の間を進む。
と、ユウキの正面に、一本の氷の柱が立っているのが見えた。
青い巨柱に比べれば、極めて小さな柱だった。
その下には、氷柱を維持する装置が「ブーン」と音を立てている。装置からは何本ももの太い線が、近くにある青い柱と直結していた。まさに、氷の柱を維持するためのエネルギーが、青い巨柱から摂取されている…ユウキはそう直感した。
そしてその氷柱を見たとき、ユウキは息を飲んだ。
その中に、アローラは眠っていた。
「…アロ…ラ…」
ユウキのそれは、声にならなかった。
夢にまで見た彼女の姿が、目の前にあった。
分厚い氷の壁の向こう、彼女は目を閉じ、眠っている。
ユウキは、そっと氷に手をつけ、彼女を見つめた。
「ユウキ。来たのね」
背後から声がした。それは紛れもなく彼女の声だった。
ユウキが振り向くと、目を見開いている以外は、氷の中のアローラと寸分違わぬ、彼女の姿がそこにあった。
「アローラ…」
ユウキは、アローラを見つめた。
「ユウキ…」
アローラの言葉は続かなかった。
ユウキは思わず、彼女に駆け寄った。しかしアローラの姿は、林立する青い柱の向こうにまで遠のいた。
「ユウキ、ごめんね。わたしは、あなたと触れ合うことはできない」
アローラの声だけが、悲しく響いた。
そしてユウキは、彼女の琥珀色の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちるのを見た。
「ユウキ、わたしは決めたわ。あなたと永遠に別れることを。そして、あなたからわたしの記憶を消し去ることを。それはナターシャにお願いする。あなたにつらい想いだけは、させたくないから。許して、ユウキ…」
ユウキは、アローラの言葉に愕然とした。
アローラは、こぼれ落ちる涙もそのままに、瞳を閉じてつぶやいた。
「さようなら。ユウキ」