top of page

薄暗い部屋で毛布を被るファングは、部屋の奥で意味不明な父の喚き声を聞きながら縮こまっていた。ウイスキーの瓶が転がり、蒸留酒の香りがファングの鼻をつく。

突然、部屋のドアが開き、数人の男たちがドカドカと入ってきた。父を取り囲み、怒声をあげながら殴る蹴るの暴行を加えているのがわかった。父の言葉にならない悲鳴が部屋中に響きわたる。ファングは毛布をたぐり寄せ、壁際で震えるしかなかった。

やがて男たちは去った。ドアを強く閉める音の後、静寂が訪れる。しかしそれはこの後に続く恐怖の始まりに過ぎなかった。

毛布の中で震えるファングに黒い影が覆いかぶさる。毛布越しに見える血にまみれた父の顔。血走ったその眼…。ファングは震える声で父に許しを乞うた。

次の瞬間、頭に衝撃が走り火花が散った。父の拳が何度もファングの頭に振り下ろされる。腹に衝撃とのたうちまわるような苦痛が襲う。ファングは夢中で叫び、許しを乞い、ひたすら嵐が過ぎるのを祈った…。

どれくらい時が経過しただろう?

ファングが毛布から這い出ると、父の姿はなかった。

明くる日も明くる日も父は帰ってこなかった。

ファングの母は父の暴力に耐えかね、ファングを置いてとうの昔に失踪していた。

だからファングは一人になった。

闇の中ファングはギラリと眼を輝かせ、拳を握りしめる。そしてただひたすら誓うのだった。

(強くなりたい!強くなって…父に復讐してやる!この腐った街をぶち壊してやる!)

それは施設に入り、イスラムの教えにそった生活をしていた時も変わらない思いだった。

イスラムシーア派の平和主義的な教えは、ファングにとって苦痛以外の何物でもなかった。だから彼は施設をでた。

己の力で生きていくために…復讐を満たすために…そして誰よりも強くなるために!

しかし…。

その誓いは現実とのギャップに押しつぶされようとしていた。

父の暴力に震えた日々と、イワノフの前に膝を屈する今の自分…。どれほどの差があるだろう?

土下座するファングの後頭部にイワノフは右足を乗せた。

「ファング、先月約束したよな?お前確か、こう言ってなかったか?」

ギュッとファングの後頭部にかかる圧力が増す。イワノフの踏みつけが強くなったのである。

「“すみません、今月はこれだけしか集まらなかったんです。来月、今月分の足らずまいと合わせて必ず耳を揃えます。だから今月はこれで勘弁してください”…俺によう、泣いて頼んだよな。俺も鬼じゃないからよう、お前の涙に免じて先月は、あれっぽっちの金でよしとしたんだ。それが…」

イワノフは立ち上がった。

そして体重を乗せて本格的にファングの頭を踏みつけた。

「これはなんだ?先月より少ねえじゃねえか!俺を舐めるのもたいがいにしろ!てめえ誰のおかげで今のお前があると思っているんだ?スラム街で野良犬みたいに彷徨いていたお前を拾ったのは誰だ?この俺だろ!この俺に対する恩返しがこれか!ふざけるなよ、おう…」

スキンヘッドに刈り上げたイワノフの頭は外灯に照らされている。それは野獣めいて不気味な光を放っていた。

二人をイワノフの子分たちが取り囲んでいる。気の毒そうな視線でファングをみる者もいるが、大半は冷笑を浮かべて土下座した彼を見やっていた。

「すみません…すみません…」

ファングの声はか細かった。

「ああ?聞こえねえんだよ!てめえよう、どうするつもりなんだ?この落とし前!」

スラム街の裏通りにイワノフの怒声が響く。そしてファングの頭を何度も何度も踏みつけた。

(俺は…)

何をやっているのか?

強くなりたい!

その思いでこのスラム街に出てきた。

それが今は、イワノフに頭が上がらないクズ同然であった。

これが…俺が求めてきたことの結果なのか?

俺はずっと…スラム街でこんな屈辱を受けながら、生きていかなければならないのか?

目や鼻から何かがこぼれ落ち、地面に染みができた。

情けない気持ちになるのは慣れている。しかし今日は特別につらいものが胸に去来した。

付近はすっかり暗くなっている。

遠くから銃撃の音が無数に聞こえてきた。時折、閃光が現れては消え、静寂がしばらく続くとまた銃声が音を立てた。

「?ずいぶん騒がしいな?」

子分の一人がけげんな声をあげた。

「ああ?なんでもテロリストがドンパチやってんだとよ。こっちまで飛び火しなけりゃいいが…」

「…?」

「…おおう?」

突如、ぬっと路地裏から大男が現れた。

その男はパンダナを頭に巻き、黒いジャケットを羽織っていた。

イワノフの子分たちを掻き分けながら進み、それは「何だ?お前は?」とイワノフが詰め寄ってもなお止まらなかった。

その黒いジャケットは、擦り切れたような穴が無数に空き、焦げ臭いにおいが鼻を突いた。

イワノフは、その男のただならぬ様子に言葉を詰まらせた。

しかし、このままでは済ますまじと、なお男に近づく。

その時である!

スッ…とイワノフの胴体と首が離れ、切り口から鮮血が音をたてて吹きだした。

何が起こったのか?子分たちは理解することができず、ただその光景をぼうと見つめているだけであった。

イワノフの首が切り離された胴体は、ドサリと地面に倒れる。

その男は、何事もなかったかのようにイワノフの首を斬った刃をしまうと、また歩き始める。行く手を阻むものにとって、それはまさに死神であった。

イワノフの抑圧から解放され、顔を上げていたファングは、その一部始終を見ていた。

そして去りゆく男の背中をみつめる。

 その時!

 ファングの中で何かがはじけた。

 ノロノロと立ち上がったファングは、まるで夢遊病者のように男の背中を追う。

  そして我知らずつぶやいた。

「待って…待ってくれ。俺を…」

ファングは叫んだ。

「俺は強くなりたい!だから待ってくれ!」

それは夜の闇に包まれたスラム街に、響きわたるようにこだました。

 

闇に包まれたスラム街に冷えきった夜風が身に染みた

昼に比べて氷点下にまで下がる火星の夜に、銃声が無数に響きわたる。ジェシカとマルコは戦場と化した廃墟群を尻目に、装甲車両の中で地図を広げていた。

「警備隊は旧道に沿ってこの辺りまで展開しています。ワルキューレの布陣は極秘扱いで残念ながら警備隊には知らされていません。ただ推測するに、6番街から8番街にかけて戦闘が起こっていますから、この辺りに展開しているのは間違いありません。しかし逆を言えば警備隊も戦闘に駆り出されていますから、警備の方は手薄かと」

マルコの説明にジェシカは腕を組みながら、じっと地図を睨んだ。

「…火中に入るようなものだな」

「戦闘が収束するのを待ちますか?」

マルコはくわえタバコもそのままに、ジェシカの表情をのぞきみた。

「戦闘が一段落すれば警備隊も戻ってくるのだろう?火星の夜明けの戦力は不明だが、結局はワルキューレの鎮圧に終わる。しかし残党狩りは間違いなく行われるだろう。その間、お前たちの任務が解かれることはないだろうな」

「へへ、いい迷惑ですよ。残業代が出ればいいんですが…」

マルコは肩をすくめた。

「結局、戦闘が終わる前に、ここから入るしかなさそうだ。ありがとうマルコ。恩に着る」

「よしてください。袖の下はもう貰ってますから。礼にはおよびませんよ」

マルコはなお、ジェシカの顔を食い入るようにみつめている。

「隊長さん。この街で一体、何が起きているんです?なぜ“火星の夜明け”がヴァルハラに?あなたがたが追っている二人とは、なにか関係が…?」

ジェシカは視線を落とした。

「お前が知る必要はない…と言いたいところだが、今回のよしみもある。早い話が現れたのだ、このヴァルハラに…あの女神が」

マルコは思わず、くわえタバコを落とした。

「あの女神って…まさか…」

ジェシカはやや苛立たしげに、戦闘の続くスラム街のほうをみやった。

「女神というより疫病神だな。二十年前、アスガルドに彼女が現れた時もそうだった。そして必ず“火星の夜明け”が絡んでくる。なぜ“火星の夜明け”が彼女の身柄を欲するのかは不明だが…しかしそれが元でヴァルハラとアスガルドは戦火を交え…この街は、今やこの様だ」

「それでは…あなたが追っている二人というのは…」

マルコは眼光鋭くジェシカの横顔を睨んだ。

「女神の手下…と言っていいのか?旧世界の遺物に与えられた守護者どもだ。ガーディアンとも呼ばれている。いまや絶滅危惧種といっていい輩だが、ヴァストにとっては忘れがたき仇敵だ。わたしの仲間が何人もあの二人に殺された。二十年目にして彼らが現れた今、こんどこそ奴らを破壊しなければならない…」

ジェシカは唇をかんだ。その眼は増悪に燃えている。

「…女神が現れた今、“火星の夜明け”も“ガーディアン”も、このヴァルハラに集結していると…」

マルコは唾を飲み込んだ。

「その…女神が現れたという場所は?」

「バベルの墓所」

ジェシカの答えは短かった。

「そうか」

マルコは目を見開いてつぶやいた。

「バベルの墓所に現れた彼女を確保するため“火星の夜明け”がスラム街に集結。対テロ特殊部隊ワルキューレはその情報を掴み、彼らと軍事衝突した。ワルキューレの軍事目標は、テロ組織の壊滅だから“火星の夜明け”がテロ行為をしようがしまいが関係ない。彼らを殲滅するだけ…」

「…」

「そういうことですな?」

 ジェシカは冷ややかな眼をマルコに向けた。

「わたしたちには、関係のないことだ」

「…あなたには例の二人しか、眼中にないようですな」

 マルコは脱いでいた帽子を被りなおした。

 「わたしの役目はここまでです。願わくば、早く戦闘が収束してほしいものですな。この辺りはわたしの管轄区域ですから」

 「…その割りに犯罪が多いようだな。この辺りはほとんど不法地帯だ」

 ジェシカの手厳しい言葉にマルコは帽子を深く被り直し、ただ肩をすくめるだけだった。

「承っておきますよ。それにしても妙ですな。自分のお膝元に彼女が現れたというのに。わが街の女神様さまは…」

「マルコ!」

 ジェシカの鋭い声音にマルコは言葉を飲み込んだ。

「あの方は千里眼だ。それ以上の言葉は慎め」

 そしてジェシカは踵を返し、外で待機する部下に命令を下した。

「戦火に身を投げるぞ。今度こそヴァストの天敵を破壊する。わたしに続け!」

 バラバラと無数の足音が夜の闇に響きわたる。

 スラム街の銃声は相変わらず、激しさを持続させていた。

 

© 2023 著作権表示の例 - Wix.com で作成されたホームページです

bottom of page