
真っ赤な太陽が、未だ戦火の燻るスラム街を照らし始めた。
昨夜までの爆撃や銃声は、今は鳴りを潜めている。ただ、スラム街のあちこちで無数の黒い煙が、上昇する黒い竜のように不気味に昇っていくのが見えた。
ヱインは廃墟の窓からその景色を眺め、葉巻に火をつける。葉巻から昇る白い煙が、スラム街の黒々とした煙と対をなす。彼の横にはライアが壁に背をもたれかけ、腕を組みながら目を閉じていた。
彼女は眠っている。いや正確にはエネルギーの代謝を落とし、機能をシャットダウンしているに過ぎなかった。センサーは常に動いており、彼女の意志で、いつでもその身体を“起動”することは可能である。
(へっ、便利な身体だぜ)
皮肉めいた視線をライアに投げかけ、白い煙を胸に流し込む。彼のそれは人工の肺である。健康に害を及ぼすこともないかわりに、ニコチンに酔うことにも無縁だった。
しかし、脳は生身である。ライアとは違い、やはり普通の人間と同じ様に睡眠は必要な体だった。
エインの視線はそのまま、床に身を横たえている一人の少年に移った。
毛布から覗く小さな顔は、まるで罪のない幼子のようだった。この少年が昨夜、再会した早々に拳を振り上げ、この顎を打ち貫いたのが信じられない。しかも歴戦の猛者たる自分に対してである。
不覚といえば不覚だが…。
しかし彼のその勢い、そして怒りや悲しみといった感情は、エインに反応する暇を与えなかった。そしてただ茫然となり、彼の拳をなおも受け止め続けたのである。
(ユウキ…とか言ったな。日系か…)
地球から火星へ移民が始まった頃、アジア系の多くが火星に移り住んだ。日系、コリアン、漢民族、インドネシア人…。そしてアラブ人、アフリカ系の黒人。火星の赤い大地を切り開いていった人々の大半は有色人種だった。火星への移民計画は、白人が中心の政府機構によって進められたが、彼らが移民を始めたのは、それよりずっと後の時代だったのである。
その末裔が目の前で眠っている。
己の体に起きた異変を自覚することもなく…。
「エイン」
ライアが目を開いた。
「その子どもをどうする気?」
エインはまた外の景色に視線を移した。朝日がエインの頬を照らし、冷たい風が吹き抜けていく。無数の廃墟から昇る黒い煙は、まだ勢いの衰える様子はなかった。
「どうするもなにも…腕がこんな風になっちまって…ほっとくわけにもいかねえだろ」
「…」
ライアはおもむろに組んだ腕をほどき、ユウキに近づいた。そして懐から銃を取り出し、ユウキの頭に向ける。
「ライア」
エインは溜息をつくように白い煙を吐き出した。
「お前こそどうする気だ?そのぶっそうなモノをしまえ」
「この体では長く持たない。せめてもの慈悲よ」
ライアの瞳が氷のように冷たい光りを放つ。エインは彼女の危険な思考回路を、よく理解していた。合理的だがあまりに短絡すぎるのだ。
「ライア。俺はお前のような人でなしになりたくないから、完全なハイドロイドはごめんなんだよ。まったく、お前の眼を見ていると身震いがするぜ。俺はこいつに完璧な処置をした。ほっといても死ぬ事はねえ。あとはこいつが起きた時に、滋養のあるものを口に入れるだけだ」
ライアは、なお銃口をユウキに向け続けている。
「理解できない。理由は不明だが、この子どもはあなたを襲った。本来ならあの時、殺してしかるべきなのに。しかしあなたは殺すどころか、爆風からその子を庇い、なおかつ火傷した右腕を切り落とし、治療まで施した」
ライアは無表情のままであった。彼女の体は脳まで人工物でできている。彼女が人間であった頃とは違い、感情そのものは欠落していた。だからエインのように長年、互いの背中を預けながら闘ってきた者でなければ、彼女の思考を探るのは困難だった。
「殺す?逆に聞くが、なぜ殺す必要がある?…いや聞くだけ無駄だな。お前はオージンのガーディアンがなんたるかを忘れ、ただの殺人兵器になっちまった…」
エインは相変わらず葉巻をくわえたまま、外の廃墟群をみつめていた。その諦観に満ちた青い瞳の横を、一筋の白い煙が虚しく立ち昇る。
「わたしも無駄な殺生をするつもりはない。あなたがその子どもをどうしようとあなたの自由よ。ただその子が目を覚ました時、その子を襲うのは絶望だけ」
ライアは銃を懐に収めた。ただその冷たい視線は相変わらず、ユウキに向けられたままである。
「お前の言っていることは、支離滅裂だよ」
エインはくわえていた葉巻を外に投げ捨てた。
そして…その視線をなにげなくユウキのほうに向けた時だった。
彼の目が虚ろな色合いを帯びて半開きになり、こちらを見ていることに気づいたのである。
「起きたか」
エインはユウキの枕元に膝を下ろした。
「まだ無理はするな。まずはこの薬を飲め。精がつくから」
エインは三錠ほどの薬を、ユウキに差し出した。
「…」
しばらく沈黙が続いた。しかし彼が、己の体の異変に気づくのに時間はかからなかった。
包帯が巻かれコブのように丸みを帯びた彼の右肘。それが彼の視界に入った時、その瞳が大きく見開かれた。
「…あっ」
ユウキが発した声は、言葉にならなかった。
瞼の裏側が白い光に満ちて、もどかしさを感じた。ユウキはわずかに目を開き、日光の射す方向を見つめる。大きな黒い影が窓に佇むのが見えて後光が射していた。
「起きたか?」
黒い影はユウキの枕元に膝を下ろした。
「まだ無理するな。まずはこの薬を飲め。精がつくから」
そう言って彼は三つの小さなカプセルをユウキに差し出した。
その顔は見覚えのある顔だったが、思い出せない。昨日、俺はどこで何をしていたのだろう?記憶を手繰りよせて頭の中を整理する。おぼろげながら、自分が戦火のスラム街を駆け回ったことは思い出せた。そして、深い悲しみ、怒り…。
そしてユウキは気づいた。
右腕の肘から下が、妙に空虚で感覚がない。
両手を動かしたが、左手はきちんと開かれて視界に入る。しかし右手はそこにはなかった。視線を動かすと、包帯が巻かれコブのように丸みを帯びた右肘。その事実を認識した時、ユウキは言葉にならない声を発して、肩を落とした。
「やけどが酷くてな。悪いとは思ったが切断した」
その男…エインはカプセルを差し出したままである。
「とにかくこいつを飲め。いくら俺の治療がよくても、肝心のお前が、体力を回復しないと傷口が塞がりゃしない」
「…」
「出血は最小限に抑えたが、それでも多量の血液が失われたんだ。今はまだ動かないほうがいいだろうな。今のお前に必要なのは、睡眠と栄養だ。こいつを飲めば10分くらいで元気が出てくるぞ」
ユウキはただ視線を落とし、呆然としているだけだった。
「…そんな」
ユウキの毛布にポタポタと大粒の染みができる。そして瞳から流れでるもそのままに「グッ」としゃくりあげた。
エインは頭を掻いた。
「泣いたってしょうがねえだろ。大体、あんなところにいたお前が悪いんだ。早く逃げればよかっただろうに…。お前、両親は?…そうか、あそこはお前の家だったのか。家も両親も亡くしちまって、それで気が動転して俺に殴りかかってきたってわけだな。気の毒に。まあついでに片腕も失くしちまったしな。泣きたい気持ちもわかるよ」
「ちがう!」
ユウキは叫んだ。
「俺の両親は、俺が小さい頃に死んだ。あそこで死んだのは、小さい子どもたちだ!」
「ああ?小さい…子どもたち?」
ユウキはなお泣き叫んだ。
「こんな腕じゃ…こんな腕じゃあ!トラックの運転もできやしない!商売ができやしない!ノルンに任せるのも…ノルンは融通が利かないから…とても…」
「商売?まさか、お前…一人で?」
エインの脳裏に、ターミナルタワーでユウキと出会った時のことが浮かんだ。この小さな体で、あのホバー式のトラック一つで商売をしているのか?見かけに寄らず、たくましい少年のようだ。ノルンとはあのロボットのことだろうか?
「そうか…難儀なことだな。でもよ、商売に支障をきたすっていうなら、義手をつければいいじゃねえか?なに、金のことなら心配ねえよ。このヴァルハラじゃ無理かもしれんが、アルフハイムにいけば、安くつけてくれる業者はいくらでもあるぜ」
エインの呑気な言い草に腹を立てたか?ユウキは腫らした目もそのままにエインを睨んだ。
「この体は、父さんや母さんにもらった大事な体なんだ!そんな単純に割り切れるかよ!」
エインはお手上げとばかりにため息をつく
しかしその表情は神妙なものだった。
「そんなメソメソした気持ち、もうとっくの昔に忘れちまったなあ…」
エインは、ふたたび葉巻を取り出して火をつけた。
「お前、妙な奴だな」
エインが何度も煙を吸入するあいだ、廃墟には沈黙が訪れた。
その間、ユウキは落ち着きを取り戻し、涙を拭ってうつむいていた。ライアは腕を組み、表情の乏しい顔をして、ただ二人を見つめているだけである。
「それにしてもよう、あんなふうに殴られたのは随分と久々だぜ。最初の一撃は特に効いた。なぜお前は…」
ユウキは顔をあげた。その瞳には平静な色が戻っている。
「すいません。あの時はカっとなって…。あなたの言うように、確かに僕は気が動転していたんです」
「…」
「なのにそんな僕を助けて、腕の治療までしてくれて。感謝します。…でもひとつだけ答えてください」
ユウキの瞳に力がこもった。
「あなたがたは、この街で起きたあの戦火と何か関係があるのですか?」
エインは答えない。
「答えてください。あなたがたはテロリストなのですか?」
エインは、やや虚ろな表情で煙を吐いた。
そしてその視線を、朝日の差し込む窓の外に向ける。
「その答えはノーだな。ただ今回の戦火に全く関係ないと言えば嘘になる…」
「…」
「あれはよう…俺たちの仇敵どもが引き起こしたことなのさ」
ヴァルハラのターミナルセンターの地下深くには、重力を地球とほぼ同一にする巨大な装置がある。「失われた旧世界の化学」によって造られたとされるそれは、北欧神話の世界樹になぞらえて「ユグドラシル」と命名され、一般には「ユグ」と呼ばれていた。
「ユグ」が有効にその影響力を発揮するのは、ヴァルハラでも中心街やそれに近い地域のみである。ヴァルハラをとりまくスラム街には、その影響が及ぶことはなかった。
ただ「バベルの墓所」にはかつてターミナルタワーがそびえたち、その地下には「ユグ」が埋蔵されていた。そしてそこはスラム街ではなくヴァルハラの中心街だった。
アスガルドとの戦争で、焼け野原になったかつてのヴァルハラ中心街は、タワーの崩壊とともに政府から放棄され、やがて戦火で住居を追われた人々、孤児たち、身体異常の人々、そしてギャングやマフィアなどの棲みかとなった。
新しいタワーとオフィス街が北部に再建される際、「ユグ」もまた地下から掘り起こされ、現在のターミナルタワーの地下に再び鎮座したのである。
ヴァルハラ南部のスラム街は、いわば政府の棄民政策が生み出した代物であった。商売人の活気に満ちた東西のスラム街とは、その成り立ちが違うのである。
そのスラム街は昨夜、「火星の夜明け」と政府軍との間に起きた武力衝突で炎に包まれた。アスガルドとの戦役以来、二度目の戦火であった。しかしそれも今、夜明けとともに沈静化しつつあった。
この地域では、かつての中心街の遺構がしっかりと残る場所がある。そのビルの一角に“火星の夜明け”は宿営地を設けていた。指令エリアでは、“火星の夜明け”の幹部コーネリアがうつろな顔でグラスを見つめていた。グラスに注がれているのはミズガルド産のブランディーである。安ものだが、香りは芳香でコーネリアのお気に入りだった。
燃えるようなその赤い髪を後ろに束ねているためか、額は大きく広がっている。その浅黒い肌をグラスにつけて彼女は溜息をついた。
昨夜の戦闘で指揮をとった彼女は、清根尽きていた。ヴァルハラ政府との停戦協定に向かったブレードの代理として部隊の指揮を任されているが、よほどの緊急事態が起こらない限り、さしてやることはない。だからしばらくは仮眠をとっても差し支えないのだが、不眠症のため、ブランディーをいくら呷っても寝付けないのである。結果、酒量だけが増え、悪酔いした最悪のコンディションで司令部に控えていなければならなかった。
コーネリアはグラスを揺らすと、その波打つ赤い液体をまた一口、胃に流し込んだ。
味はさほど美味いわけではないが、やめられない。コカインや麻薬もやっていたことはあるが、こちらのほうが、よほど中毒性があるとコーネリアは思う。
(このままだといずれ肝臓はオシャカだな。そろそろ人工物に入れ換えようか)
コーネリアは自嘲的な笑みを浮かべ、また一口、ブランディーを口に含んだ。
「…おい離せ!俺はあの男に会いたいだけだ!離せよ!」
騒ぎ声がコーネリアの耳を突いた。
「…ああ?騒がしいね。せっかくの酔いが覚めるじゃないか」
すると一人の少年が衛兵に両腕を掴まれ、背後から銃を突き付けられてコーネリアの前に連行されてきた。
「だれ?こいつ?」
コーネリアの気だるい声に、少年は噛みつくような声をあげた。
「てめえに用はねえんだよ!俺はあの男に会いてえんだ!会わせてくれよ!」
そして腕を振りきらんばかりにまた暴れた。まるで狂犬である。
コーネリアは「ハン!」と嘲笑い、その少年に見せつけるように、またブランディーを呷った。
「誰に会いたいって?」
コーネリアは口元を腕でぬぐい、彼を嘲った。そして衛兵に視線を向ける。その目はもう虚ろではない。鋭い刃物のような鋭利な光が戻っていた。
「付近をうろうろしていたので捕まえました。そうしたらこいつ暴れて、あの男に会わせろと叫び始めて…なにを言っているのかよくわかりませんが、どうもブレード大佐に会いたいようです」
「ブレードに?」
コーネリアは怪訝な表情で少年をにらんだ。
「パンダナを巻いた男らしいですよ。どうやら大佐をつけてここまで来たようです」
その少年はいまにも飛びかからんばかりに身を乗り出し、コーネリアをにらんでいた。
「へえ…ところでお前、なんて名だい?」
コーネリアは先ほどとはうって変わり、今度は好奇心にみちた表情を浮かべて、少年を見つめている。
「ファング!」
その少年…ファングは答えた。
「ファング?」
コーネリアは思わず笑った。
「そんな名前があるかい!ハハ、ファング?牙かよ。おい聞いたか?こいつファングっていうらしいぜ」
コーネリアの癇に障る笑い声に、ファングはたたぐっと歯をくいしばり、獰猛な野獣のような眼を血走らせ、彼女を睨みつけるだけだった。
「…てめえなんかに用はねえって言ってるだろ。さっさとバンダナの男に会わせろよ」
唸るような声だった。
しかしコーネリアは意にも介さず、またブランディーをグラスに注いだ。
「会ってどうする気だい?あいつに家族とか仲間を殺されたか?仇討でもする気かい?言っておくけど、お前なんか百年経ったところであいつを殺せやしないよ。一瞬で返り討ちさ。死に急ぐというなら、わたしがこの場で射殺してやろうか?」
すると…ファングは凄みのある笑みを浮かべた。
「死ぬつもりはねえよ。あの男に会うまではなあ。あいつの恐ろしさなら知っている。俺が逆立ちしたって勝てないのも承知だ。だから…」
「…?」
「あいつの…弟子にしてもらいてえんだ」
コーネリアは思わず大声で笑った。
「弟子にしてもらいたって?アハハハ、聞いたかい、お前たち!こいつは傑作だよ、アハハハハ!」
「なにがおかしい!笑うな!」
ファングは獰猛に吠えた。
「ああ、悪りぃ悪りぃ…」
コーネリアは腕を組み、鋭い視線で改めてファングをみやった。
「早い話がブレードの弟子になりたいってことは、“火星の夜明け”に入りたいってことだろ?心配するな、わたしたちもブレードの弟子みたいなもんさ。歓迎してやるよ。ただあいにくブレードは今、留守でね。ヴァルハラ政府と停戦するため政府機関に向かっている。大守のカルロスと会うんだとよ。ちょっと遅くはなるが、帰るまで待つがいいさ」
それを聞いてファングは、その表情が明るくなった。
「本当か?本当に会わせてくれるんだな?」
「ああ、会わせてやるさ…」
そしてコーネリアは思案する。
「そうだな…会わせてはやるが…おい、もうそいつは解放しろ」
衛兵はコーネリアの意図を計りかね、やや戸惑いながらファングを放した。
「…彼が帰ってくるまでに一仕事してもらいたい」
「…?」
ファングは腕をさすりながら、コーネリアの次の言葉を待った。
「スラム街で人を集めてくれ。お前の仲間でもいい。報奨金や三度の飯は保証するという触れ込みでな。うちは今回の戦闘で同志を多く失った。人手がほしいのさ。この戦火で住みかを追われた者は多いから、それを目当てに集まるはずさ。やれるか?」
「そんなことなら、お安い御用だ」
ファングはニヤリと笑った。
「こう見えて俺は、スラム街のボスだ。俺が一声かければ、手足のように動く子分が大勢いる。すぐに集めてやるさ」
「頼もしいね」
コーネリアは、また好奇心に満ちた目をファングに向けた。
「お前、面白いやつだな。ブレードもきっとお前のことを気に入るだろうさ」
「よし待ってろよ、女。てめえが腰を抜かすぐらい、集めてやるからな」
そう言い残すとファングは、くるりと背を向け走りだす。乾いた靴の音が響きやがて遠ざかっていった。
「コーネリアだ。覚えておきな」
コーネリアが皮肉な微笑を浮かべ、ファングに声をかけた頃には、彼の姿はスラム街に消えていた。